二人目 田中 篤(たなか あつし) 浪人生のアルバイト事情
田中篤は、蒸し暑い空気が渦巻く道をとろとろと歩いていた。
殺気立った予備校の教室は涼しかったが、外に出た途端、足元からの熱気にうんざりする。早く涼しいところへと思うが、速く歩く気力なんぞはかけらもない。
予備校の夏期講習はまだ続いているが、篤は今日から三日間、アルバイトに行かなくてはいけないのだ。
夏期講習中の薬学部浪人生に夜中のアルバイトを斡旋したのは、医者をしている実の父親だ。「気分転換して来い」とは、ずいぶん受験をなめている。
父親はトップクラスの大学医学部にストレートで入学し、順調に私立の大病院でそれなりの地位に着いている。以前は四十代で個人医院を開業するから跡継ぎにと、医学部しか認めないと言われていた。しかし、篤は人の生死に直接的にかかわるするよう仕事に自分は向いていないと、小学生の頃すでに見極めていた。母親に相談すると「おまえは周りの人の気持ちや痛みを自分のことのように感じてしまうんだね」と言われた。
その母親が、篤が高校に入った年の夏、死んだ。子育ても一段落したし、と友人たちと旅行に行った先で、散歩中に海に落ちたのだ。
落し物を拾おうとして、堤防からテトラポットに移り、足をすべらせて隙間から下に潜ってしまい、そのまま発見されなかった。
何を拾おうとしたのかは、友人たちにもわからないという。「あら、落し物」と、身軽に堤防から降りて行ってしまったと。本人の物ではないと思う、と。
テトラポットの隙間に落ちたら助からない。
そう、何度も聞いた。
昔ながらの形状の、クレーンでドボンドボンと落とされたのだろう、隙間の多いテトラポットを現場の堤防から見た。ちょうど干潮の時間で、人間がちょうど滑り込んでいけてしまう隙間がテトラポットとテトラポットの間に開いていて、奥へ奥へ、そう深くはない海底まで落ちていくのが想像できた。深くはないとはいえ、干潮でも更に海水中にテトラポットの層はある。
古いテトラポットには、クレーンで吊るすための輪がついている。錆びて、到底その重さに耐えられなくなっていることがよくわかった。テトラポット自体も、コンクリが波に削られ芯の一部が見えているものもある。防波堤を守るそれらを、単純にクレーンで吊り上げることなどできないそれらを撤去し遺体を探すことは、現実的ではない。
それは、父にも、高校生の自分にも、理解できることだった。
もちろん、人が下りられるところまで下り、更にカメラを差し込み、海側からもどうように調べ、更にテトラポットを抜け切って海に流れ出ていないか、周辺が捜索された。
母はみつからなかった。
今後、沿岸部に遺体が流れ着いた場合は連絡をもらえる。
テトラポットをすりぬけてすぐどこかに流れ着いて発見されていないだけではないか。生存は、半日で諦めた。
遺体でもいいから連れて帰りたい。その望みも、十日で諦め、葬式を出した。
家事は必然的に、篤にまわってきた。家庭科の授業や、母がときどき教えてくれていたことが役に立った。塾の授業数を減らして家事の時間を確保した。
父親は、たまに掃除機かけや、土間ぼうきをもって玄関先やらの掃き掃除をするだけだったが、大掃除は張り切って篤を指揮し、自らも家じゅうを磨いていた。
そうして、高二の進路指導の面接前夜、父親は言ったのだ。
自分は、開業しないことにした。と。
だから、無理に医者にならなくてもいい。
だが、できれば医療系で頑張ってほしい。
そうすれば、親子でつながっていられる気がするから。
お母さんに、いつか向こうで会ったら、そう言って安心させてやりたいから。
そう言った。
話し合った結果が、薬剤師を目指すこと、一年までは浪人を許すこと、だった。
大学を受験して、滑り止めには受かったが、第一志望には落ちた。滑り止めだと、家からは通えない。第一志望なら家も近いし、そちらへ行きたかったと父親に言ったら、もう一年頑張れと言ってくれた。
多分、母親が生きていたら、ボロボロになりながら医者を目指していただろう。
母親が、父親に話してくれていたのだと思う。それでも生きているうちは、父親は違う道を許してはくれなかっただろう。
そう考えると、色々複雑な気持ちになる。
それでも、今年は第一志望に受かり、薬剤師を目指すと決めている。
やる気は十分だ。
なのに何故そこに、気分転換でアルバイト・・・・・・?
ため息をつきつつ、篤は駅構内へと入って行った。
語り部 二人目
田中 篤
19歳。
薬学部を目指す浪人生。医者の父と2人暮らし。
高一の夏に母を亡くしたため、家事全般をこなしつつ医者を目指していたが、薬剤師に進路変更した。
彼女はいません。