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ずんば!

作者: われさら

 その洞窟は、一見すると山肌によくあるような窪みだったという。むき出しになった山肌の岩盤の一部がぽっかりと口を開け、その内部の暗闇に何かがあると思わせる──そんな洞窟だったそうだ。


「そこに虎がいたんだ」


 日本に野生の虎はいない。したがって、私が吉谷(よしたに)修司(しゅうじ)から聞いたこの話は異国の地での出来事ということになるはずだ。しかし彼はこの話を、まるで日本で体験した出来事のように語った。


「SUICAを使えない寂れた駅でさ」


 だが今にして思うと、彼は具体的な地名を言わなかった。真面目な吉谷らしく、万が一にでも私がその場所へ向かってはいけないとでも考えたのだろうか? 私はその山の名前すら聞いていない。


「その駅を出てからずうっとまっすぐ、道なりにその山へ向かったんだけど」


 私と吉谷の関係は……どう表現すべきだろうか。中学生時代から付き合いのある友人。進学先の高校も部活動も同じでテニス部だった。表面的にはこれだけで十分なのだが、私と彼の間には溝があった。私と彼だけが把握している、えぐりつけた傷跡のような溝が。




 私と吉谷は一時期までたしかに友人だった。中学生の頃はもちろんのこと、高校に進学しても尚親友と形容しても構わないほど仲が良かった。それが変化したのは高校一年生の冬の終わり頃。私は、同じ部に所属する一つ上の先輩から万引きを命じられた。窃盗。私はそれに逆らうことはできなかった。もとより当時の私には、それに異を唱えるという考えすら思い浮かばなかった。


 命じられた内容は地元の書店から千円もしない漫画本を一冊盗み出すこと。先輩はそれを度胸試しと称した。私を男として成長させるためだと言い張り、もっともらしい屁理屈を並べ、「やってこい」と命じたのだ。しかし今にして思うと、先輩は私を意のままに犯罪行為へと走らせることで、彼自身の支配欲を満たしていたに違いない。私が盗み先輩に渡したあの一冊の漫画本は、私という個人を征服した証であり彼にとっての勲章となっただろう。


 幸い、と言っていいのかどうか、私の悪事が露見することはなかった。しかし吉谷はそれに気がつき、部活動を終え皆が帰った後、二人きりになった部室で私に詰め寄ってきたのだ。


「お前、それは駄目だろ。一緒に店へ謝りに行こう」


 無論、「それ」が世間一般に駄目な行為だとは当時の私も常識として知っていた。だが理解はしていなかった。あの頃の私の世界は狭く、そしてその偏狭さ故にそこを否定し逸脱することなどできなかった。できるわけがなかった。


「あ? いい子ぶってるんじゃねーよ」


 私は吉谷の手を取る代わりに胸を突き飛ばし拒絶した。あの時、部室を逃げるように飛び出した私の背を吉谷はどのような目で見ていたのだろう。諦めたのだろうか、呆れたのだろうか。(さげす)んでいたのだろうか。私に知る術はない。


 彼がそれ以上の行動を起こすことはなく、窃盗という私の罪過への追求はそれ一度きりだった。だが私と吉谷の間に深い溝を刻むには、その一度の過ちで十分だった。


 それ以降、私と吉谷は必要であれば一応会話こそするものの、表層的な交流に留まるようになる。高校を卒業するその日も、クラスの違う私たちはろくに会話をしなかった。


 それからしばらく経った大学三年生の初夏の宵のこと。連絡先だけは知っていた吉谷から「今夜、お前の部屋に寄らせてくれ」と脈絡もないメッセージが突然送られてきた。これは一体どういう意図だろう、送信先を間違えでもしたか、などと(いぶか)しんでいると更にメッセージが舞い込み、「悪いが近くまでもう来ている」という文字列と共に握っていたスマートフォンが音声通話の着信を知らせた。




 電話の後、しばらくして吉谷は私の住むアパートに到着した。


「おう、久しぶり──」


 そう言いながら玄関ドアを開けた私は、一瞬硬直してしまうほど驚いた。数年ぶりに会った吉谷がちょっと信じられないような格好をしていたのだ。彼が着ているデニムのパンツもTシャツもスニーカーもショルダーバッグも、ドロドロに汚れていた。ぬかるみで三日三晩転げ回ったのかと思うほど、泥にまみれクタクタになっていた。着ている物だけではない。彼の肌も泥に汚れ擦り傷のようなものもある。髪はぼさぼさに荒れ、ひげは剃られておらずみっともなく伸びている。風呂どころかシャワーすら数日……ひょっとすると数週間。もう何日も湯を浴びていないのではないかと思うほど、ひどく臭った。部屋の中へ招き入れるのを躊躇(ちゅうちょ)するほどに。


「……ヨシ……おま……どうした……」


「……すまん。シャワーだけでも浴びさせてくれないか」


 先程通話で聞いた声よりやや疲れた感じがするものの、声は私の知る吉谷修司その人の声だった。私は戸惑いつつも彼に玄関で服を脱ぐように命じ風呂場へ直行させた。




 「本当に助かったよ。ありがとう」


 彼がシャワーを浴びている間に、私は近所のコンビニエンスストアまで走り下着や使い捨てカミソリ、それにインスタントラーメンを買ってきてやった。こざっぱりとして私の着古したTシャツに袖を通した吉谷は、美味そうにラーメンを啜りスープの臭い漂う部屋の向こうでもう一度「ありがとう」と律儀に頭を下げ礼を述べた。


「いや別にいいけど。何があった?」


「うー……や」


 彼が一瞬ためらった気配を感じた私は、「無理して言わなくていい」と少し口早に言った。どのようにしてここまで来たのか知らないが、わざわざ遠方から私を頼ってきたのだ。特に理由もなく、薄汚れた格好のままここへ来るような人間ではない。


「言いたくないことを無理に聞き出すつもりはない」


「……言いたくないわけじゃないんだ。ただ、どう言えばいいのかわからなくて」


「難しい話なのか」


 「いや違う」と即座に否定すると、吉谷はスープまで完飲したインスタントラーメンの容器をテーブルに置きそれをじっと見つめて、独り言を呟くようにぼそっと(ささや)いた。


「──虎を、倒してきた」


 * * * * *


 これから先の文章は私が吉谷から聞いた話を“物語”として仕立て直したものである。登場する固有名詞はこちらで勝手につけた架空のものだ。彼の体験の全てを再現できたとは思っていないが、しかし、我々は自身の体験すら十全に他人へ伝えることはできない。デジタルデータのようにはいかないのだ。体験者の吉谷自身の言葉でさえ、きっと何かが欠けており、また、何かが付け加えられていたことだろう。そこへ更に当事者ではない私の筆が乗るのだから情報の欠落も蛇足も不可避だ。どうか御了承いただきたい。


 もう一つ、吉谷の話へと移る前に付け加えておかねばならない。この日、吉谷は全てを語り終えると、改めて礼を述べ荷をまとめ、深夜にも関わらず私の部屋から立ち去った。私も特に引き留めるようなことはせず、彼を見送った。そしてそれきり、私は吉谷と会っていない。一度として連絡を取るようなこともしていない。


 大学を卒業し社会人となった今も、吉谷修司という男が今どこで何をしているのか、私は知らない。


 * * * * *


 その日は曇天だった。陽の光は分厚い雲に遮られ地上に届かず昼間にも関わらず薄暗い有り様で、ただ天気がすぐれないという理由だけで気落ちしそうなほど、曇天だった。


 ──天気予報、外れたな。


 吉谷修司は電車の窓から重く暗い雲を見上げてため息を吐いた。二両編成の鈍行列車。眠そうな老人がちらほらと乗っているものの、隣の座席に彼自身の荷物を置いていても咎められないほど車内は空いていた。時折止まる初めてその名を聞く駅でも、人が乗ってくるようなことはほとんどない。


 吉谷の目的地は茶古沢(さこざわ)駅から降りてそのまま徒歩で向かって登れるという、三鏃(みやじり)山にあった。三鏃山は標高が500m程で、整備された緩やかな登山道を持つ。ゆっくりと歩いても登山口からは1時間半程度で山頂へ到着する山だ。


 やがて電車が金属を擦り合わせ金切り声のブレーキ音を立て茶古沢駅に到着し、そこへ一人降り立った吉谷はうら寂しい駅の構内を黙々と歩いた。昭和の終わり頃にでも立てられたような古ぼけた駅舎に自動改札はなく駅員も常駐していない。利用者の倫理観に依拠する切符回収箱がぽつんと改札口のそばに置かれているだけであり、そこに切符を滑り落としつつ彼は外へと歩み出た。


 この駅でこのまま帰りの電車を待つとしても、時刻表で確認すると次の電車は45分以上先。それまでこの何も無い駅舎で待つことになるのは退屈だ。わざわざ地元から遠く離れた地方まで出向いた意味もない。せっかくだしこのまま行ってみるか。


 そんな軽い気持ちで、雨が降り出さないことを祈りながら、吉谷は山へと続く道を進んだ。平日の昼間、それも寂れた地方である。通りを歩く人の姿は彼以外なく、人影に代わるものといえば道の端で天へと伸びている電信柱だけだった。




 登山口付近まで来る頃になると、いよいよ空模様は怪しくなってきた。


「うわあ……」


 どんどん暗くなりゆく空を睨むように見上げた吉谷は、他には誰もいない山道で独り、無計画にやって来た自身と気まぐれな天候に文句を言うように呻き声を上げた。するとたちまち、まるでその不平に呼応するように空より雨粒がぱらぱらと落ち始めた。


 この時、雨具を持っていない吉谷は引き返すべきだった。彼本来の性格であれば駆け足でどこか適当な屋内を探しに引き返したはずだし、あるいは、コンビニエンスストアを探し傘を買い求めることもできたはずだ。しかしこの時の吉谷は雨はすぐに止むだろうとの甘い見通しを持って山道へと進んでしまった。そして彼の思惑とは裏腹に、しばらくしても雨は止まず、それどころかいよいよ本降りとなった。


 大粒の雨が頭頂部を打ち出し彼がどこかの物陰にでも退避したくなったそんな時、彼の目に、山道から外れた先の山肌にぽっかりと口を開けた洞窟が映った。立ち並ぶ木々の間から顔を覗かせるその黒い口を見つけるや否や、しばし雨宿りをしようと吉谷はそこへ駆け込んでしまったのだった。


 洞窟の口は高さがおおよそ2mほど、幅も同様で一尋(ひとひろ)(ゆう)にある。その入口からは内部が僅かしか伺い知れず、足を踏み入れスマートフォンの明かりを点けてようやく、洞窟がずっと奥まで続いているのがわかった。相当深いもののようだ。


「へえ」


 自身の声と足音が微かに反響する中、吉谷はスマートフォンを掲げた姿勢のまま雨が降り込まない位置まで進み、ごつごつとした壁面の岩肌を撫でた。ひんやりとしているが湿り気は帯びておらず手触りが不快ではない。背中を預けてもそれほど汚れないだろうと判断した吉谷は、このまま雨が止むまでこの場所に留まることを決めその場に座り込んだ。


 それからしばらくそこで降り滴る雨音を聞きながらぼんやりとしていたが、思惑は外れ雨足が遠のく気配はない。次第に睡魔が(まぶた)を降ろしはじめ、吉谷はとうとうその場で眠りこけてしまった。




 それからどれほど経った頃だろうか。地面をずるずると引きずられている感覚で吉谷は目を覚ました。襟ぐりを何者かに掴まれ引きずられている。反射的に飛び起きようとしたが、首元が締まり咳き込んだ。もがいたおかげで運んでいた人物は彼が目覚めたことに気がついたらしい。掴んでいた襟元から手を離すと膝を抱えかがみ込み、吉谷をじっと見つめた。


 暗闇の中、至近距離で互いに見つめ合いようやくわかった。女だ。年齢は吉谷よりも年上らしい。三十代前後だろうか。吉谷が慌てて取り出したスマートフォンのライトに晒された女の姿は、薄汚れた格好をしていた。


 かつてはTシャツとジーンズと呼ばれていたであろうボロキレを身にまとい、艶のない黒髪は長く伸びている。靴を履いてはおらず爪や肌は薄汚く、吉谷を覗き込んでいる瞳は何の感情も抱いていないのではないかと思われるほど、この洞窟に溶け込むような暗さをたたえていた。


「あ、あなたは──」


 言いかけた吉谷を遮り、女は何かしら伝えようとして口を開いた。しかし彼女の口から出た言葉は「あ」とか「う」とか興奮気味の呼吸と共に漏れる音だけで、およそ“言語”と呼べるものではなかった。代わりに彼女は身振り手振り(ジェスチャー)で彼に何かしらを伝えていた。


 ──言葉が通じないのか……?


 しきりに洞窟の奥へ顔を向け強く手を引く彼女を、吉谷はただ立ち止まり呆然と見返すことしかできなかった。


「俺の名前は吉谷修司です」


 ゆっくりと、文節ごとに区切って言ったものの、女には何も伝わっていないのか彼の言葉には反応を示さない。ただ「洞窟の奥へ来い」と言わんばかりに「ん」と彼の手を引くばかり。彼女から敵意や害意のようなものは感じなかったので、ひとまず吉谷は彼女に着いていくことにした。女が自身をどこへ連れて行こうとしているのか、その誘惑に吉谷は屈したのだ。




 女は吉谷を先導する形で、どんどん奥へと進む。当初はスマートフォンのライトを点け洞窟内を照らしていた吉谷だったが、女が時折振り向くたびに眩しそうに顔をしかめるので、やがて消した。まだバッテリーの残量は充分な上ショルダーバッグの中にはモバイルバッテリーがあるものの、大事を取ってバッテリーを節約しようと考え、彼はスマートフォンを仕舞った。


「どこへ向かっているんだろう」


 半ば独り言のように呟いたその言葉にも、女は反応しなかった。明かりが消されても彼女の歩む速度は変わらず、素足のペタペタという足音が洞窟内で雨だれのように鳴っている。吉谷は時折急激に低くなる天井に頭をぶつけないよう身を縮こめて、彼女に引かれるまま先へ進んだ。


 ──なんだろう、この女は。


 段々と目が慣れてきた暗闇の中、ぼんやりと見える女の後ろ姿についていきながら吉谷は思いを巡らせていた。着ている──というよりも身につけているといった衣服は、多少古い質感だったが間違いなく現代のものだ。だが女は日本語を、少なくとも吉谷と意思疎通が可能な言語を持ち合わせていないようで、相変わらず母音を呼気と共に漏らしながら彼の腕を引いている。


 何者なのか知りたい。


 吉谷は意を決し足を踏ん張りその場に立ち止まると、驚き振り向いた女に身振りを交えてもう一度名前を伝えた。


「あー……おれは、吉谷。なまえ、よ・し・た・に。あなたは?」


「えいあっ」 


 女が吉谷なりのコミュニケーションをどう捉えたのか、定かではない。自身を「えいあ」と呼んでいるのか、掛け声にも似た無意味な音なのか。それとも立ち止まった彼に抗議する声なのか。女は、もう一度「えいあっ」と語尾を跳ねさせるように声を上げ、再び歩き出した。彼女はもう、吉谷の腕を掴んでいない。


「あ……待って!」




 吉谷が女の後を懸命に追っていると、次第に薄明るくなってきた。微かに空気が流れている。女の足取りが早くなっているのを吉谷は感じた。


 先ほど明かりを点けていた時から気づいてはいたのだが、この洞窟は一本道ではなく分かれ道がいくつもある。それにも関わらず、女は迷うことなく道を選び進んでいく。


 吉谷がやっとの思いで着いていっていると、女が急に立ち止まったので背中にぶつかってしまった。


「あ、ごめんなさ」


「うあ」


 二人は薄明るく広まった空間に出た。女の目的地はこの空間だったらしい。自然にできたと思われるその場所は円形状になっており、頭上の岩盤も今まで通ってきた通路より高く3m近くある。出入り口は吉谷たちが立っている地点の他にもう一つ。ちょうど吉谷から見て正面にもう一つ通路があり、光や風はそちらから入り込んできているようだった。その通路の先は曲線を描いており直接は見えないが、微かに川の水が流れる音が聴こえる。


 しかし何よりも吉谷の目を捉えて離さなかったのは、向かって右側の空間にいた一頭の虎だった。枯れ葉や枯れ枝を集めて作った寝床の上に身を横たえ、体長3mはあろうかという大きさの虎が、吉谷を睨むように見つめていた。


「うわああっ!」


 悲鳴を上げてその場から逃れようとした吉谷の腕を掴み取り、女はまるで虎に彼を紹介するように「おあっおあっ」と言った。吉谷は彼女を引きずってでもこの場から逃げ出そうとしたが、女が彼を掴む腕の力は想像以上に力強く、その場に留まらざるを得なかった。


「おあう」


 駄目、というようにゆっくりと首を振り、女は虎を顎で示した。


「お、俺を食おうってことか」


 震える声で自棄になった吉谷が(あざけ)ると、虎はやおら身を起こしその場から大きく飛び上がり、彼の眼の前に着地した。足元が揺れているのはその衝撃か目眩(めまい)からくる脚の震えかわからないほどに、吉谷の心臓は激しく脈を打ち乱れた。強力な獣臭が鼻の先で展開する。しかし「食われる」と思った吉谷の予想は外れ、虎はじいっと彼を見据えたままでいた。


 ──一体、こいつ……いや、こいつ()は何だ。


 その緊張感に耐えきれず腰を抜かし脱力した吉谷はもう、「ははっ」と笑うことしかできなかった。


「おーあっ」


 女が虎に声を掛けると、虎は吉谷から目を離さずに腰を落とした。その虎の(かたわ)らに寄り添い、女は喉元にそっと手を伸ばすとごわごわとした毛並みの顎を撫でてやっている。


「おあ おあ うい あー」


 時折吉谷の方を指差しながら、女は虎に何事かを吹き込んでいるらしかった。彼には理解できない言語で。


「ま、まだ食事の時間じゃないの、か……?」


 混乱したまま吉谷がぶるぶると震えていると、「あえい おーあっ」と女が急に叫ぶように言い放った。驚いた彼が後ずさっているにも構わず、虎は立ち上がり、風が流れ込んできている方の通路へのそのそと歩んでいく。


「えう」


 女は吉谷のそばまでくると手を取り立ち上がらせ、二人は虎の後を追った。どうやら彼に虎がどこへ向かうのか見せたいらしい。


 虎の後を追い広間のような空間を離れ洞窟を先へと進んでいくと、次第に川の流れる音が大きくなってきた。雨もまだ降っているようで、川の音と雨音が一体となって吉谷の耳を満たした。虎は、二人がついてくることをわかっているようで悠然と進んでいる。やがて新鮮な空気の濃い匂いが流れ込んで来たかと思うと、一頭と二人はとうとう洞窟の外へ出た。


 そこは三鏃(みやじり)山の中腹よりも上の方に位置しているようで、眼下7、8m下には川が流れていた。


「いつの間にか……結構な高さまで来ていたのか」


 峡谷。直角と言っていいほど急峻(きゅうしゅん)な山の斜面は、ロッククライミングの経験でもあれば降りていけるのかもしれない。しかしあいにく吉谷はそういう技術を持ち合わせてなどいない。命綱もない。


 降りしきる雨に打たれつつ切り立った崖際に立ちそこから見渡せば、川の流れと共に青々とした木々や草花が茂る山の景色がよく見えた。もし雨など降っておらず晴れ渡っていれば、尚美しかっただろう。雨に打たれくすむ緑の中に、白や赤の花が点々と咲いている。上空は墨を流したような暗さだったがそれに抗うように山は繁茂していた。まるで生命力を競い合うかのように木々や草花たちは枝を葉を茂らせ、そこに多様な緑を形成している。


 景色を堪能している彼の横で虎は静かに座り込んでいるだけだったが、やがて立ち上がると俊敏な動きで山肌を跳び跳びに下り始めた。


 その動きには無駄がなく、前足と後ろ足でしっかりと足場を捉えながら下りていく。筋肉質な黄褐色の肉体は、吉谷が見ている間にどんどん小さくなっていき、とうとう木々や岩に隠れて見えなくなった。


 ──俺も虎ならここから……


「えーあ」


 虎の姿が消えると女はすぐに、「こっちへ」というようにぼんやりとしていた吉谷の腕を引き、再び広い空間へ戻った。




 居住空間にしているらしい広間を抜け通路に戻ると、女は分かれ道まで戻り先程とは違う細い道へと入った。吉谷も続いたその通路は、先程までのものとは大きく異なり幅が狭く、また天井は低かった。身をかがめつつ少し進むと、ぽたぽたと水滴の垂れる音が断続的に聞こえ始めた。


「あ」


 どうやら地下水が滲み出て水場になっているらしい。閉塞感のある通路を抜けると、苔のむした岩がごろごろとしている空間に出た。壁面を撫でた吉谷の手がぬるりとした感触に驚き、反射的に引っ込む。女は淵にかがむとそこで顔を洗っていた。


「おっおっ」


 女に促されるまま、吉谷は彼女の横にかがみ顔を洗った。


 どうやら、女と虎はここで暮らしているらしい。だがなぜ俺を引っ張ってきたんだろう?


 そんなことを冷たい水を顔面に浴びせながら考えたが、まったく、吉谷には理解不能だった。何しろ言葉を解さないのだから理解の余地がない。わかったことといえば、少なくとも今はまだ彼を食べる気がないということだけだった。顔を洗い終え広間へ引き返しだした女に向かって、「自分は来た道を戻って外に出たい」と伝えるジェスチャーをしてみたが、女は首を振り吉谷のシャツの裾を引っ張り、「いえ」と広間へ吉谷を連れて行こうとする。


 ──何かを求めているのか?


 彼にはそうとしか思えなかった。もし食料としてではないなら、何を求められているのか。それを知ろうとして吉谷は女とジェスチャーを通じでコミュニケーションを取ろうとしたが、無駄だった。


 広間に戻ってくると、女は虎が横たわっていたベッドに近づき、そこから突き出ていた枝や散らばっている草を形が整うように(しつら)え始めた。吉谷がわざとらしく咳払いをしたり、声をかけたりしても構わずに。虎がいない間はほとんどの時間をこの作業に費やしているのではないかと思われるほど、その手つきはゆっくりと丁寧にベッドを整えていた。


「あのう、一体どうして俺はここに……」


「いー」


「……」


 とうとう吉谷の口をつぐませた女の声は、心なしどこか機嫌の良いものだった。




 「いう」


 ベッドを整え終えると女は立ち上がった。一旦崖側の通路へ出ていき、後を追うべきか吉谷がまごついているとすぐに戻ってきた。その腕に二つの大きな石を抱えて。


「えおえ」


 吉谷の足元に一方の石を落とすと、女はそれを指差した。その石は片手で持ち上げられるほどの大きさと重さだったが、しかし、それで何か(・・)を殴るには充分なものだった。


「……」


「おーあ」


 人類が石を加工し道具としたものを石器と呼ぶならば、女が持ってきたものは石器ではなかった。それはただの石にすぎない。しかしもし、加工せずとも道具として使用できる石を石器と呼ぶのであれば、それは石器だった。今まさに、人のための道具になろうとしている石器だった。


「あ! あ! あ! あ!」


 突如、女は大声と共に自身の手に残っていた石を何度も力強く上下させ、何か(・・)を殴るような仕草をしてみせた。そして呆然としている吉谷を見やり、「お前もやれ」とでも言うように地面に落とした石を顎でしゃくった。


「こ、こう……?」


 恐る恐る吉谷も石を掴み、何かを殴りつけるようなジェスチャーをして見せる。女はそれを見てにんまりと笑った。


「おう」


「いい……のか?」


「あい」


 吉谷は段々と彼女が何を求めているのか理解し始めていた。


 ──彼女はきっと……


 吉谷が整えられた枯れ草のベッドを指差し「おーあ?」と言いつつ石を勢いよく振り下ろすと、女の笑顔はますます明るくなり「あ!」と頷いている。


 間違いない。彼女は俺に虎を退治──殺させようとしている。


 吉谷は手のひらに石の突起部分が食い込むほど、強く石を握りしめた。


 彼女は虎に囚われているのだろうか。自分が女に連れられここに来たように、彼女も虎に連れ去られここへ。そして人間社会と隔絶したこの洞窟で過ごす内に言葉を失ってしまい……


 そこへ考えが至ったところで、吉谷の背筋を冷たい汗が流れ身震いをした。


 ──俺もここに長くいればそうなるのか? それは嫌だ。彼女を助けて、二人でここから出たい。


 だが問題は虎を退治できるか、という点にあった。体の大きさも重さも、言うまでもなく圧倒的に虎が勝っている。あちらには鋭利な爪もある。太い前脚を勢いよく振り下ろされればひとたまりもない。鋭い牙と強靭な顎も虎の専売特許だ。一方こちらの武器といえば、手元にあるこの石のみ。武器と呼ぶにはあまりにも心許ない。しかしバッグの中にナイフなど入っていない。


 彼女一人では虎を倒すことなど到底できないだろう。しかし自分一人加わったところでそれが可能かというと、それも甚だ怪しい。彼女が硬く握りしめている石と自分の手元の石を交互に見比べながら、吉谷はどう動けば虎を退治できるのか考え続けた。


 ──頭を思いきり……? いや、こんな石と俺の腕力じゃ到底倒すことなんてできない気がする。そもそも倒さずとも、今、逃げ出せばいいじゃないか。虎がここから離れているうちに。何故そうしない? ……違う。きっとできないんだ。虎の脚と嗅覚で、逃げ出してもすぐに追いつかれてしまうのだろう。じゃあやはり、倒す……殺す……しかないのか……?


 吉谷がしばらく悩み続けていると、そこに虎が戻ってくる気配がした。慌てて石を持ったまま両手を背中に隠し広間の壁面に背をつけるように立ち、彼は虎が入ってくる方向をじっと見据えた。戻ってきた虎は口にまだ生きている川魚を(くわ)えており、女のそばまでやってきて頭をかがめ彼女の足元にそれを置くと、口に含んでいた木苺もポロポロと吐き落とした。


 食料を採取し帰ってきて女に与えている虎は、完全に無防備と言ってよかった。まるで親に頭を撫でられ褒められるのを待つ子どものように、(こうべ)を女に差し出している。虎の油断を誘うためだろうか、女は柔らかな手つきでそれに応じていた。しかし彼女の目は吉谷を捉えたままで、虎を撫でていない方の手には石が握られたままでいる。


 『ヤ・レ』


 女の眼差しが、そう訴えていた。虎に狩られ今、一人と一頭の足元で死を待ち喘ぐ魚のように、吉谷の呼吸も自然と荒くなる。手汗が石に染み込む。


 ──今なら……


 だが、吉谷は動けなかった。脚が言うことをきかず前のめりになるばかりで、一歩も虎のもとへ近づけない。「殺気を持っていたら虎に気づかれる」とか「角度が悪い。もっと虎から死角になる場所があるはずだ」とか、言い訳ばかりが脳内をよぎる。そしてとうとう彼がまごついている間に、虎は再び峡谷へと出る方の通路へと向かっていってしまった。


「いおお」


 虎が去った後に女が不満げに睨んでくるのを、吉谷は「次、次があるから」と言い訳をしてその場に腰を落とすと、がっくりと項垂(うなだ)れた。女はしばらく抗議しているらしい声を上げていたが、やがて息絶えた魚を掴むと水場の方へと出ていった。息絶えた魚を処理をするために向かったのだろう。




 しばらくして再び虎が戻ってきた時、外の明かりはもう広間に差し込んでいなかった。日が沈んだ後の広間は暗く荒涼としており、体の内側までも荒んでいく感覚に吉谷は陥っていた。覚悟はもう決めてある。だが殺す覚悟ではない。人間ではないとはいえ生き物を──それも哺乳類を──殺すことへの抵抗は拭えなかったので、彼は脚を潰すことにしたのだ。脚を使い物にならないようにしておけば、逃げ出すことも容易い。それに、脚の一本くらいならば、痛めつけることができるだろうとの楽観的観測もあった。


 広間へ堂々と帰還した虎が先程と同じように女の足元へ魚を落とす瞬間、吉谷は駆け出し、強く握りしめた石を力いっぱいに虎の右前脚めがけて叩きつけ──


「ああああっ!!」


 しかし吉谷の乾坤一擲(けんこんいってき)も虚しく、虎はそれをゆうゆうと(かわ)した。それでも彼はくじけず再度石を振りかぶり、前脚を狙った。だがそれも空振った。虎は、岩石のような巨体を俊敏に動かすと、諦めずに襲いかかってくる吉谷に体当たりをし、彼を暗がりの通路へと弾き出した。


「が」


 悲鳴すら出なかった。出す余裕さえなかった。吉谷の脳が「虎にやり返された」と認知した次の瞬間には、虎は、広間から一足飛びで彼に飛びかかろうとしていた。


「おーあーッ!」


 一閃、女の絶叫にも似た悲鳴が虎をたじろかせた。吉谷はすんでのところで後ろに飛び退き突っ込んでくる虎から逃れると、暗闇の中で身構えた。吉谷の呼吸が乱れているのと同様に、虎も興奮から生臭い吐息を放っていた。唸り声は怒りの感情を露骨に臭わせ気迫が熱となって彼に迫ってきている。その虎の背中の方から再び女の叫び声がし、それと同時に吉谷も(とき)の声を上げ虎に向かっていった。


「わああああっ!!」


 無謀だった。悪手だった。近代的な武器すら持たず、吉谷は石のみで虎に立ち向かっていったのだ。常識的に考えれば彼は爪や牙の餌食になっていただろう。しかし虎は、女の喚く声に困惑していた。発していた怒気が揺らぎ、彼に飛びかかることを躊躇(ちゅうちょ)するほどに。


「えいああああっ!」


 吉谷は一際大きく叫ぶと、虎の右前足に飛びかかり、あらん限りの力を振るい石で殴りつけた。分厚い。それでも当てることができた。吉谷は間髪をいれず殴り続けた。虎が痛みに悶えようが暴れようが唸ろうが食らいついて離れず、何度も何度も石を握った手を振り上げ力任せに叩きつけ続けた。やがて、分厚い毛皮と肉の内側にある太い骨を強く打ち付ける手応えと共に、その図体に似合わない弱々しい声で虎が一声喘ぎ、倒れた。


「はあっ、はあっ、はあっ……」


 死んだわけではない。痛みに耐えきれずうずくまったにすぎない。虎は、彼から目を逸らさずに睨んでいる。しかしここから逃げだすにはそれで充分だった。


「さあ早く!」


「うあい」


 吉谷に声をかけられた女は広間からゆっくりと出てくると、「今のうちに」と肩で息をし興奮から目をギラつかせている吉谷を一瞥(いちべつ)し、彼に背を向け虎のそばにしゃがみこんだ。眼光鋭い虎の視線が、隠れる。


「……え」


「おーあー」


 それは慈しむ声だった。彼女は満足そうに優しく虎を撫でている。


「えいーお」


「な……何して……早く!」


「……」


「一緒に逃げましょう!」


「……」


 カッとなった吉谷は衝動に身を任せて女のそばに寄ろうとしたが──不信感からある考えが湧いてき、立ちすくんでしまった。自身の中に疑念が芽生えるのを意識しつつも、努めて穏やかに彼は女に声をかけた。


「……俺たちは人間なんです。だから、こんな──こんな洞窟に住んではいけない。住み続けてはいけないはずです」


 静かに伝える吉谷の言葉を女がどれほどそこから受け取り理解したのかわからない。ただ一つ確かなことは、彼女は吉谷の言葉には何一つ反応を示さず、仔猫を愛でる母猫のように虎に寄り添っていることだけだった。


 吉谷の内部で疑念が葉を(しげ)らせ、確信へと結実し胸をつまらせた。


 ──俺は……彼女に利用されたのか……


 虎を殺すことではなかった。女の目的は、きっと、洞窟と外界を自由に行き来できる虎を痛めつけ、ここに、この洞窟の中に獣を縛ることにあったのだ。彼女にとって吉谷は予想以上の働きをしただろう。道具として。


 ──は……あはは……


 膝が笑いだし視界がブレた。もはや、彼女の肩に手をかけ揺さぶり振り向かせ、腕を掴み立ち上がらせようとは思わなかった。しかし彼女に対する怒りは生じてこない。吉谷の腹の底に広がっているのは、自身への失望そのものだった。女による誘導があったにせよ、彼は彼自身の手で一頭と一人の生活を破壊したのだ。虎の脚を(くじ)いた今、これから彼らがどのようにして生活を成り立たせていくのか、吉谷には想像もできなかった。したくなかった。戦慄(わなな)き、息が詰まり、脂汗がだらだらと額を流れる。


「逃……げっ……にげましょ……う……」


 急激に喉がひりつき絞り出すようにしか出せなかった声は、発した自分自身でさえ空虚に思うほど無味乾燥なものだった。


「お願い……ですから……」


 女は、とうに吉谷への興味を失っていた。彼が背後でぜいぜいと呼吸をしていようが何事か呟いていようが、彼女は振り向きもしない。虎を撫でる手だけは止まることなく、一心に弱った獣を(いたわ)っている。


「わ……う……ああああああああああ!!」


 物言わぬ彼女の背から目を逸らし、吉谷は走り出した。彼女と二人で歩んできた道をたどり洞窟を脱出し、三鏃(みやじり)山の登山口まで戻るために。吉谷は、全力で走った。




()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

吉谷はひたすら走り続けた。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

暗闇の中を走り続けた。

(ダン)(ダン)()()(ダン) (ダン)(ダン)()()(ダン) (ダン)(ダン)()()(ダン)

別れ道を選び続け。

()(タン)(タン)()() ()(タン)(タン)()() ()(タン)(タン)()()

落ち窪みにできた溜まり水に腰まで浸かろうが進み。

(トン)()(トン)(トン) (トン)()(トン)(トン) (トン)()(トン)(トン) (トン)()(トン)(トン) (トン)()(トン)(トン)

時に()いつくばり時に身を(よじ)り、(おど)るように突き進んだ。

()(コン)(トン)()(トン)(トン) ()(コン)(トン)()(トン)(トン) ()(コン)(トン)()(トン)(トン) ()(コン)(トン)()(トン)(トン)

立ち止まることなど、できない。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

振り向かない。振り向けない。

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

虎は。

(ダン)

女は。

(ダン)

己は。

(コン)

()(カラ)()(カラ)()(カラ)()(カラ)()(カラ)()(カラ)()(カラ)()(カラ)()(カラ)()(カラ)

こないのか。追いかけきて、くれないのか。

()(カラ)()(カラ)()(カラ)()(カラ)()(カラ)()(カラ)()(カラ)()(カラ)()(カラ)()(カラ)

ここは元の道ではない。

()(タン)(タン)(タン) ()(タン)(タン)(タン) ()(タン)(タン)(タン) ()(タン)(タン)(タン)

()(コン)(コン)(コン) ()(コン)(コン)(コン) ()(コン)(コン)(コン) ()(コン)(コン)(コン)

ここは元の道ではない。

(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)(タン)

(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)(コン)

もう、戻れない。

(ダン)

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()




 気がつくと、吉谷は電車が行き交う駅のプラットフォームの下にある退避スペースから、喧騒とアナウンスと電車の車輪と、がなり立てる金属音を見聞きしていた。視線を上に向けるとホーム屋根の隙間から茜色に染まる空が見える。


 しばらくの間吉谷は、車両に時折遮られながらも、切り取られた夕暮れ時の空をただ見上げていた。


 やがて向かい側のホームに立っていた男性がホームの下でぼんやりとしている吉谷の姿を発見、駅員に通報し、彼は駅員と居合わせた人たちの腕を借り地上に引き上げられた。


「どうもすみません、ご迷惑をおかけして」


「うんまあね。怪我もなくて何よりだけど……あの、きみね、一体いつからあそこにいたの」


「……ついさっきです。あ、いや、三十分……? 一時間……くらいかな……?」


「あのねえ……言っちゃなんだけど、きみ、物凄く汚いよ。本当は、何日もあそこにいたんじゃないの?」


「いやあそんなことは……あの、それよりも伺いたいことが一つあるんですが、いいですか」


「なに」


「ここ、どこです?」


「……は?」




 いつの間にか電池が切れていたスマートフォンにモバイルバッテリーを繋ぎ充電を開始し電源が点くようになってから、吉谷は駅を出た。駅員は警察や病院への連絡を迷っていたようだったが、彼の受け答えがしっかりしている──ホーム下に潜り込んだ方法以外は──ので厄介事を積極的に抱え込む必要はないと判断したらしい。厳重に注意を受けた彼は、迷惑をかけたことへの謝罪とすくい上げられたことへの感謝の言葉を述べ、汚らしい見た目と臭いを放ちつつ、入場料を支払うと駅を出て奇異の目に晒されながら歩いた。


 この街に来るのは初めてだが、名前は聞いたことがある。かつての友人が進学先に選んだ大学のある街だ。


 ──そうか。ここはあいつの住む街か。


『今夜、お前の部屋に寄らせてくれ』


 高校時代のことを思い出し、彼の旧友である山口(やまぐち)淳平(じゅんぺい)へ送ったメッセージはあまりにも藪から棒なものだった。


 部活動の先輩に命じられ、山口淳平は窃盗を働いた。それを期に二人は疎遠になってしまったのだったが──


 ──まさか、俺からあいつに連絡することになるなんてな。


 くくっと笑みが零れる。訝しげに彼をチラチラと見ながら向こうから歩いてきていた会社員の女性は、ニヤついている彼に驚愕の表情を浮かべ、大股で彼から大きく距離を取ると何気ない振りをしてすれ違っていった。


 ──驚いてるだろうな。


 行き交う他人が時折露骨に距離を取っていることに吉谷は気づかないほど、旧友への連絡に心(おど)っていた。既読無視をして見なかったふりなどさせないぞと言わんばかりに、更に山口淳平へメッセージを送る。


『悪いが近くまでもう来ている』


 そしてすぐに電話をかけると、『もしもし……』と通話に応じた山口のおっかなびっくりといった調子の声が彼の耳に飛び込んできた。旧友の声に、自身でも驚くほど吉谷の気分は高揚し、抑えも効かず声が弾む。


「あ、グッチ? 俺。吉谷だけど」


『……ああ。急にヨシからメッセージ来てビビったわ』


 もう何十年も聞かなかったような気がする友の声は、あの頃から少しも変わっていなかった。電話の向こうの山口も似た感情を抱いたのだろう。気恥ずかしさも入り混じって、二人は少しの間笑いあった。


「──いや、すまん。ちょっとこっちに来たもんだからさ、グッチに久しぶりに会いたくなって。今日行っても大丈夫?」


『お、おう。いいよいいよ。大丈夫』


「ホント? 無理なら無理で──いや、うん、ありがとう。助かるよ。本当なら酒とかなんか、土産(みやげ)に持っていかないといけないだろうけど」


『何、急ぎ?』


「ああ、いや。ちょっと。取り敢えず直で向かうわ。北志原(きたしわら)駅を今出たところなんだけど、近い?」


『歩き15分くらい。迎えに行こうか?』


「いや、悪いから行くよ」


『おけ。住所送るわ』


「頼む」


 『じゃあ一旦切るぞ』と山口が言いかけたところを吉谷は遮り、彼は歩道の真ん中で立ち止まるとぐるりと周囲を見渡した。宵の口を思い思いの方向に歩く人々の中には彼に胡乱な目を向ける老若男女がいる一方、無関心に、視界に入っても気にもとめずに、過ぎていく者もいる。


『……どうした?』


「いや──ヨシ。今日は本当にありがとう。なんか、ホッとした」


 「じゃ、あとで」と通話を切り暗くなった画面に、自身の汚れた顔が映った。反射する己のニヤけ面を見た瞬間、吉谷は自身のはしゃいでいる感情の裏側にある(いびつ)な思いに気がついた。


 ──あ……そうか……


 今まで彼はかつての友を心のどこかで侮蔑していた。それは山口が窃盗を働いたためだからだと思い込んでいたのだが、どうやら本質はそこではなかったらしい。


 ──俺は、先輩にいいように使われたという点でグッチを見下していたのか。


 そして今、自身も女に利用された。互いに利用された者同士、後ろ暗い部分で通じあえると思い込んで笑っているのだ。自分にはまだ仲間がいると、見下していた友に(すが)ろうとしているのだ。舞い上がっていた気分が一気に落ち込み、体中を巡る血液さえも温度が下がる気分に陥った。


 ──……気持ち悪い。


 吉谷は、せめてかつての友に対しては誠実でありたかった。純朴でありたかった。それらはもう自分から損なわれたものだとしても、山口淳平という人間の前では「あの頃」の自分でありたかった。急激に萎えてきた感情を励ますように再度片手でスマートフォンの画面を灯すと、吉谷はマップアプリを立ち上げた。


「……行かなければ」


 送られてきた山口が借りているアパートの住所をマップアプリに入力すると、無慈悲にナビが開始される。


 ──グッチは今の俺を見てどう思うだろうか。


 彼に対し、どのような顔をすべきかどのような声音を使うべきか、吉谷にはわからない。それでももう、行くしかなかった。


 ──グッチの前であの頃の自分を演じるのは……きっと苦痛だ。


 ナビは友の待つ部屋への最短ルートを示し、吉谷はそれに従い重い足取りで歩み始める。


 ──行きたくない。


 大雨が降ればいいと思った。暴風が吹けばいいと思った。大地が揺れればいいと思った。車両が歩道に突っ込んでくればいいと思った。工事現場の鉄骨が崩れてくればいいと思った。通り魔に襲われればいいと思った。火災に巻き込まれればいいと思った。不審者として警察に捕まればいいと思った。これが悪夢ならいいのにとさえ思った。


 とにかく何でもいい。吉谷は、山口の住むアパートまで向かいながら、そこへたどり着けない理由を欲した。


 教えられた住所がでたらめなものだったらいいと思った。しかし山口淳平は素直に正しいアパートの住所を教えてくれており、そこに到着した吉谷はますます自己嫌悪に満ちた気分でアパートを見上げ、気持ちは沈んだ。


 いっそのこと、彼の気が変わり部屋のドアを開けなければいいと乞い願った。「久しぶり」ではなく「帰れ」と言われる方が、きっとずっと、気楽だった。


 ──ああ……こいつとは、今日、これきりになるんだろうな。


 ずっと片手に握りしめたままだった虎を打ちのめした石が手のひらから滑り落ちる。音もなく転がるそれを、吉谷が拾い上げることはなかった。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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