第十七話 緑の眼と亜美香の目
カナカナカナカナカナカナ・・・・・・
チチチチチチ カナカナカナカナカナカナ・・・・・・
淡い橙色の光を浴びた中庭のムクゲが揺れ、ケヤキの木に留まったヒグラシが鳴いている。
柏沼市役所から北西に見える大きな連山は、ダイヤモンドのように輝いて黄金色に染まってゆく。
「よいしょ! ・・・・・・よいしょ・・・・・・っと!」
・・・・・・ばさりっ! どさどさ! ばさりっ! どさどさどさ!
「ふぅーっ! だめだ、動きにくいなぁ! えーい!」
緑はスカートの裾をぐいっと何枚か織り上げ、荷車からシュレッダーの屑が大量に詰まった大袋を持ち上げ、専用の資源ステーションへ何個も投げ込む。袋はひとつ、十キロ以上はありそうだ。
「・・・・・・あー。疲れた! これで、よしと!」
管財担当の倉庫から借りてきた荷車をガラガラと押し、緑はひとり、黄昏色の空を見上げていた。
「(入庁して数ヶ月・・・・・・か。まだ、わかんないことだらけだなぁ。毎日、覚えることだらけだ)」
スズメが数羽、ぴきゅぴきゅと鳴きながら飛んでゆく。
「(ふう。・・・・・・お父さんはここで、どんな働き方してたのかな? どんな職員だったのかなぁ)」
かつっ! かつっ! かつっ! かつっ!
そこへ、地面の煉瓦タイルを踏む乾いた靴音が近づいてきた。
「ん? あ! きょ、教育長!」
「はっはっは! 温田君ではないか。こんなところで、どうしたのかね?」
「あ! はいっ! 明日が古紙回収日なので、教育部局の紙ごみを、資源置き場にー・・・・・・」
緑はささっと服装を直し、背筋をぴっと伸ばして教育長に一礼。
「ん? 古紙なら、他の職員は当日の朝にいつもやっているが・・・・・・。誰かに頼まれたのかね?」
「い、いえ。朝だとみなさん混みますし、この時間に出せれば、朝の余裕が少しできるかなぁと」
「はっはっは! そうかそうか! 温田君。あなたはなかなか、細かい点に気がつくようだね」
「え! そ、そうなんですか・・・・・・ね?」
「当たり前のことだが、当たり前のことに気づかない職員も多いぞ、温田君?」
「は、はい」
「あなたが言ったことは、他の職員への配慮、そして仕事のタイムマネジメントを考えている」
「そ、そうなんでしょうか? あ、あははは・・・・・・」
「温田君のことは、私はよく評価していますよ。新人の中でも、心構えがよいと思っていますよ」
「あ、ありがとうございます!」
「小さなことを、こつこつと地味にやる。縁の下の力持ちですからな、行政の職員というものは」
「は、はい! 仰るとおりです!」
「自分が自分が。私が私が。やったんですやったんです、は、あまりよくない」
「え? あ、はい!」
「自己主張は時にはもちろん必要だが、いかにも自分を評価せよという態度の者もおるからね」
「そ、、そうなんですね」
「温田君は、自然体で頑張っておるね。新人だからこそ、今しかできないことをやりなさい」
「え! い、今しかできないこと。今しかできないこと・・・・・・。な、何なんでしょう?」
「はっはっは! 真面目だね、あなたは。・・・・・・『失敗』だよ」
「えっ! し、失敗・・・・・・ですか?」
「そうだ。新人のうち、特に若いうちは、たくさん失敗してその恥を自分の礎にしてゆくのだ」
「は、はい。・・・・・・たくさん失敗を・・・・・・」
「もちろん、取り返しのつかない大きな失敗や、何度も同じことを繰り返すのはダメだがな」
「よ、用心します!」
「新人は、たくさん失敗するのは仕方ない。失敗は成功の糧。その時の恥は未来の肥やしなのだよ」
「が、頑張ります! 教育長! わたし、一生懸命学んで、いい職員に・・・・・・」
「はっはっは! そう堅く気負わんでもよい。あなたは、自然なまま仕事をすればいいのだ」
「は、はい」
「部下の失敗は、上司がきちんと責任をとる。あなたは自信を持って、業務に励むといいですよ」
「上司が・・・・・・。なんだか、悪い気がしちゃって、どうもわたしはー・・・・・・」
「組織とはそういうものだ。部下を持つというのはそういうことだ。それが上司の役割だからね」
「そ、そうですか・・・・・・。わかりました! がんばります!」
「期待していますよ、温田君! ・・・・・・その眼・・・・・・。あなたの父や母にそっくりだ」
「えっ!」
「はっはっは! 私は現役教員時代、あなたの母と数年間同じ学校で勤めてね・・・・・・」
「そっ、そうだったんですかぁ! ええーっ! びっくりです!」
「病で、無念にも逝ってしまったのは悔やまれたが。・・・・・・熱心な、いい先生だった!」
「はい! わたしも中学二年生まで、母の背中を見て育ってきました!」
「そして温田君。あなたの父も素晴らしい職員だったぞ。私は教育委員会で昔、一緒だったんだ」
「そっ、そうでしたか! ・・・・・・教育長。わたしの父は、いったいどんな感じだったんですか?」
「温田さんは情熱がすごくてね。教育部局だけでなく、庁内ではほとんどの職員が認めていたよ」
「そうだったんだぁ。・・・・・・お父さんって、そういう職員だったんだ・・・・・・」
「若くして亡くなったのが残念だった。温田君。あなたはさすが温田さんの娘だ。よく似ている!」
「あっ、ありがとうございます! わたし、父や母のような素晴らしい社会人になります!」
「これからも、よろしく頼みますよ。温田君!」
「はいっ! あ、ありがとうございますっ!」
「はっはっはっはっは!」
教育長はさっと手を上げ、ダンディな声を響かせて庁内へと戻っていった。緑はその背中に向かって、深々と頭を下げ続けている。
カナカナカナカナカナカナカナ・・・・・・
チチチチチチ カナカナカナカナカナカナ・・・・・・
ヒグラシの声が庁舎に跳ね返り、ステレオサウンドのように響く。夕暮れ前の残暑を乗せた風が、緑の足下を抜けてゆく。
「(いろいろ大変だけど、負けるもんか! 頑張るぞ! わたし、頑張るんだ!)」
その場でにこっと笑い、緑は顔を上げた。
「あれっ?」
すると、庁舎前の案内板の前に、外部の業者とおぼしき男性がうろうろしているのが見えた。
「あ、困ってるのかな?」
緑は荷台を隅に寄せ、その男性へ声をかけるため、元気に駆け寄っていった。
「えーと、温泉関係を担当の観光交流課、どこだっけ・・・・・・」
「どちらへご用ですか?」
緑はハキハキとした声で、微笑んでその男性へ声をかけた。
「すみません。株式会社 水清水の者ですが、観光交流課はどちらに・・・・・・」
「あ。それでしたら、こちらです。ご案内しますね」
「すみません。ありがとうございます」
営業マンと思われる男性は、ハンカチで額の汗を拭いながら、緑と庁舎内へ。自動ドアの開く音が、ヒグラシの声の中に割り入ってゆく。
「暑い中、お疲れ様です。ほんっと、お盆過ぎてからも、暑いですよねー」
「そうですね。いやぁしかし、市役所は涼しいなぁ。こりゃあ快適だ。羨ましいですな!」
「お身体に気をつけてくださいね。・・・・・・じゃ、こちらが観光交流課です」
「ああ! ありがとうございました、ご丁寧に! 感謝します」
「いいえー。・・・・・・あ! すみません。業者の方がお見えでーす! お願いしまーす!」
「んんー。あー。ああー。・・・・・・あーい。今いくから待たしといてー・・・・・・」
緑はにこっと笑い、男性の案内を終え、観光交流課の担当職員へ引き継いだ。
廊下を歩く緑の足取りは軽やかだ。鼻歌を響かせ、ダンサーのように舞いながら緑は教育部局のある棟へ歩いてゆく。
「(わたし、なんか今日は気分がいいや! 教育長にも励まされちゃったし!)」
ルンルン気分な緑は、文化財課、国体担当室、生涯学習課などの前を上機嫌で通り過ぎてゆく。
「・・・・・・あの子、学教の子だよね?」
「そうです。・・・・・・なーにやってんだ、緑は? やけにハイテンションだな。どーしたんだぁ?」
「・・・・・・大丈夫かしらね?」
「えっ? 副主幹、何がです? 緑が?」
「いや、何でもない。私の考えすぎかもしれないから」
「え?」
生涯学習課の事務室から、安嶋と右京が緑の通り過ぎる様子を見ていた。
そのままのテンションで、緑は自分の事務室へ戻った。
「たっだいま、戻りましたぁー」
「ばかやろう! おい新人! ごみ捨てんのに、どこまで行ってやがんだ! 鉄砲玉か!」
「すいませーん。お客さんを案内したりしてたものでー」
「ああ? ・・・・・・まぁ、そんじゃ仕方ねぇな。・・・・・・最初からそう言えよ」
「えー? だって福島主査が先にー・・・・・・」
「わーったよ! 俺が悪かったってんだ! ったく・・・・・・。新人! 早く残りの仕事片付けろ!」
福島は、ぶっきらぼうにそう言い放つと、マグカップを持って給湯室へ入っていった。
「了解です! さぁて、やっちゃおうっと! 請求書とー、納品書とー・・・・・・」
緑は引き出しから請求書の束を出し、パソコンで支払処理の書類を作り上げてゆく。
「金額と、負担行為日・・・・・・。よし! よし! オッケーっ!」
その向かい側では、紫前がパソコンの画面を見つめながら、静かにカチャカチャとキーボードを叩いている。動きも視線も、緑とは対照的なほどに。
「えっと、学校用花苗の支払先は・・・・・・これでよしっと。こっちは小屋修繕の修繕費、と・・・・・・」
RRRRR! RR・・・・・・ ガチャ!
「はい! 柏沼市学校教育課、温田です! ・・・・・・はい。・・・・・・はい。あ! その件なら・・・・・・」
緑は、テキパキと仕事をこなす。時計の針は、間もなく定時の五時十五分を指すところだ。
「温田君! 温田君! 温田君! 県に提出する調査資料は? 明日の朝イチで提出だぞ!」
「はい! 課の共通フォルダにいま、入れました! 金沢補佐、確認お願いします!」
「え? あ、ああ。わかった! 入ってるのね! じゃあ、見ておくから」
「お願いします! ・・・・・・あと、会計課に提出する伝票の決裁もお願いします!」
「(ふぅん。・・・・・・温田さぁん。私が以前あれほど言ったのに、張り切っちゃってまぁ・・・・・・)」
緑のその仕事ぶりを、課長席から黒沼がやや笑ってずっと見つめていた。
あちこち緑が動き回る一方、紫前は自分の机周りを整頓していた。その際、緑の机の下に落ちていた小さな紙きれのようなものを、箒で集めた埃とともにゴミ箱へ捨てた。




