第十五話 緑、べろべろになる
・・・・・・だんっ! どかんっ!
「あーっ! ・・・・・・つっかれたぁー・・・・・・。とにかく今日も乗り切ったぞぉ、わたし!」
ちゃぶ台の上に、大ジョッキが力強く置かれ、ビールの泡がたぷりと溢れ飛ぶ。
緑は自宅の茶の間で、シャワー後にビールを何杯も飲み、「ひとり反省会」をしている。
「ちょっとぉ! お姉ちゃんー? もうちょっと優しく置いてよ!」
「ごめんよ海! でもわたしねー、ちょっと今、いっぱいいっぱいなのー」
「わかってるけどさぁ。・・・・・・なんか毎日大変そうだよね? 役所って、忙しいの?」
「部署と係によりけり、だね! 学校教育課というか、わたしの係はけっこう忙しいんだわ」
「そうなんだねー。へー。・・・・・・枝豆と冷や奴、もっと持ってこようか?」
「ごめんね! よろしく!」
「へーい!」
お団子型に結った黒髪の女性が、台所へ向かう。緑の二歳下の妹、海だ。
「はい、これね! お姉ちゃんひとりで食べないでよ? あたしとばーちゃんの分もあるんだから」
「はいはいー」
緑は、海が持ってきた枝豆をぷちぷちと頬張り、ジョッキのビールを一気に飲み干す。
「おやおや。なんです、緑? そんな飲み方したら、身体に毒だよぉ?」
ラフな部屋着姿で飲んでいる緑の横で、祖母のキヌが呆れた顔をしている。
「だってぇー。いいじゃんー。文字通り、ビールは売るほどあるんだしー」
「緑! 売り物に手ぇつけたりしたら、とんでもないかんねぇ?」
「そーんなことしないってば! あー。まっだまだ飲み足りないわ」
「バカだねぇお姉ちゃん。明日、どーなっても知らないよ?」
「べつにいーよ。そしたらわたし、体調不良で休み取るから」
「はー。良いご身分だねぇー。新人公務員がそんなんでいーのかなー。飲み過ぎじゃん」
「海だって、飲めばいーじゃん! わたしはね、日々の公務によるストレスをねぇー・・・・・・」
「はいはい、わかったってば。あたしは、いつものメンバー呼んで飲むから、いーの」
「何よぉー。日々、市民や上司のプレッシャーに耐えてる姉を、労ってよぉー。ねぇーぇ?」
緑は頬を真っ赤にし、海の腕をぐいぐいと引っ張る。瞼は半開きで、呂律もあまり回っていないようだ。
「だー。もぉー。ばーちゃん、お姉ちゃんのことなんとかしてよー。めんどくさいー」
・・・・・・ぺしん!
「いたっ!」
「これ! 緑! 人様に絡むような飲み方、だめでしょ! 酒屋の孫なのに、まったくぅ」
「さ、酒屋の孫だからこそ・・・・・・酔い方の見本を・・・・・・学生の海にー・・・・・・」
緑はちゃぶ台に突っ伏して、そのまま潰れてしまった。
「見本になってないしー。でもさぁ、お姉ちゃんの酔い方、なんだか今日は変だね?」
「一気に飲むからでしょ? まったく。大学出たての娘が、こーんなに酔っ払ってまぁ」
がばっ!
「うわっ! な、何なのよお姉ちゃん! びっくりするじゃないのぉ!」
「わたしはねぇー・・・・・・。がんばる! がんばってるけど、なんなんだろぉなぁー・・・・・・」
「ちょっとぉ。お姉ちゃん? あたしのシャツ引っ張んないでっての!」
「・・・・・・海! わたしはねぇー・・・・・・がんばってるんだけどなぁー・・・・・・zzZ」
突然起き上がったかと思うと、緑はまた夢の中へ。大いびきをかいて、寝潰れている。
海とキヌは、二人同時に「はぁ」と呆れた声を出した。
「あーあ。それにしても、お姉ちゃんの仕事って、大変なんだろうなぁー・・・・・・」
「そうねぇ。思い返すと、あんたら二人のお父さんも、大変そうだったねー」
「ねぇ、ばーちゃん? あたしらのお父さんって、お姉ちゃんと同じ、市職員だったんでしょ?」
「そうよー。市役所の中でも『温田さんなら、だいじ(大丈夫)だわ』って、よーく言われてたらしいねぇ」
「そうなんだー。あたし、生まれた時にはお父さんいなかったしさ。話でしか知らないんだもん」
「あんな事故さえ無けりゃぁねぇー・・・・・・。ばーちゃんも、悲しかったよぉ・・・・・・。無念だわぁ」
海とキヌは、茶の間の端にある小さな仏壇をしみじみ眺めている。
そこには、立派なスーツ姿でにこやかな笑顔で写る、父の遺影が。その隣には、同じような緑と海の母の遺影も飾られている。
「お姉ちゃん、本当はお母さんみたいに、国語の先生になりたかったんだろうけどさぁ・・・・・・」
「でも、緑は父と同じ道を歩み始めてるんだねぇ」
「あたしは、お母さんと同じ道を行こうかな。国語の教員免許は絶対に取るんだ」
「緑もいま、教育委員会勤めだから、ある意味、両親の中間的な位置なのかねぇ?」
「どーなんだろうね? でもさぁ、今日は本当に珍しいよ」
「んー?」
「お姉ちゃんさぁ、これまでこんなになったことないもん。疲れてんのかなぁ?」
「まだ入って数ヶ月だし、いろいろあるんだよぉ緑も。海も、勤めるようになりゃ、同じだよ?」
「えー。あたし、教師になったら、どんな感じになるんだろうなぁー?」
海は枝豆を数個、ぱくりと口へ放り込んだ。
「どんな仕事でも、信念があれば何とかなるよ。ばーちゃんだって、そうだったんだからさ」
「この『温田酒店』は、ばーちゃんがここまで看板を守ってきたんだもんねっ!」
海は、茶の間の鴨居に飾られたセピア色の写真に目を向けた。それは、はるか昔の温田酒店が写った古い写真。店の看板が右読みになっている時代のものだ。
「・・・・・・あたし、お父さんに会ってみたかったなぁ。ひどい事故に巻き込まれたんでしょ?」
「そうねぇ・・・・・・」
キヌは、ガラス製の茶器に、とぽとぽと冷たい煎茶を注いでいる。
「いったい、どういう状況だったの? お母さんも、あまり教えてくれなかったもんなぁ」
「もう、二十年以上前だね。あんたが生まれて数ヶ月の頃だから、平成十二年か・・・・・・」
キヌは、煎茶を一口、すする。
「当時、県内は治安が悪くてね。『半グレ』って連中があちこちにいて、怖かったんだよ」
「半グレねぇ。ガラが悪い人らでしょ? そんな連中、警察が何とかしてくれなかったの?」
「警察でも手に負えず、かなり手を焼いていたんだよ。この店にも、連中が何度か来たもんさ」
「ええ! そ、そうなの! ばーちゃん、大丈夫だったの?」
「わたしゃ何度か、半グレ連中を箒でひっぱたいてやったさ! 叩き出してやったね!」
「す、すっごいねぇ! ばーちゃん、昔、なぎなた習ってただけあるね! 最強じゃん!」
「柏沼市内だけでなく、あちこち危なかったねぇ。あんな連中のせいで、あの事故が・・・・・・」
キヌはまた、仏壇に目を向けた。
「お母さんも、お父さんが死んじゃってショックだったろうなぁ・・・・・・」
「あんたらのお父さんは勤務後、ここへ歩いて帰る途中に半グレの車に撥ねられたんだよ」
「え! そ、そうだったの! あたしもお姉ちゃんも、事故としか聞いてなかったから・・・・・・」
「緑はまだ二歳、あんたは生まれて数ヶ月。わたしゃもう、頭の中が真っ白だったよ」
「それじゃあ、お母さんもそれからはかなり必死だったんだろうね・・・・・・」
「あんたらのお母さんは当時、育休中だったんだわ。あの件で、毎日毎日、泣いてたよ」
「そうなんだー。・・・・・・あたしも、お姉ちゃんと空手習えばよかった。そしたらそんな連中・・・・・・」
海は立ち上がって、冷蔵庫からレモンサワーを一本取ってきた。それを開けて、一気に飲む。
「・・・・・・なんだい? そんな連中一掃して、お父さんの敵討ちでもするつもりだったかい?」
「だってぇ! そいつらがいなかったら、お父さん生きてたじゃん! 悔しいんだもん」
「海は気が強いねぇ。・・・・・・ま。立派に育ったあんたらはずっと、二人に守ってもらってるよ」
「・・・・・・そうだね! きっと、見守ってくれてるね! ・・・・・・あたし、ビールも飲もうっと!」
海はにこっと笑い、冷蔵庫から缶ビールを二本持ってきた。一本は仏壇に供え、手を合わせる。
「(お父さん。お母さん。・・・・・・あたしやお姉ちゃんのこと、しっかり見ててね)」
「・・・・・・海? 言い忘れたんだけどね・・・・・・。あんたのお父さん、下戸だったんだよぉ」
「ええ? 早く言ってよぉ。じゃあ、ビールじゃなくてコーラを供えなきゃ!」
海がコーラを供え直す後ろでは、緑が「がんばるから」と寝言を言って、大の字になっている。




