第百十四話 延長です
「ふむふむ。初診の日と比べて、すこし表情が、穏やかになりましたね」
「そうですか?」
診察室内で、前橋医師と向かい合っている緑。その傍らには、以前と同じく海も座っている。
「どうでしたか、この二週間? どんな風に過ごしてましたか?」
「えっと。朝はまだ、かなり起きるのが辛かったり、起きられなかったりで・・・・・・」
「なるほど、なるほど」
「身体を動かすのがまだ、なかなかきついです。・・・・・・ここ数日は少しだけ軽くなりましたが」
「なるほどー。食欲はどうですか?」
「最初の診察時の頃よりは、少し戻ってきました」
「そうですか。この二週間、食事は三食きちんと摂れました?」
「はじめの週は無理でしたが、先週末あたりから、時間がズレても食べるようにしています」
「そうですか。・・・・・・食欲はやや上向き傾向、と。・・・・・・味は、どうです?」
「はい。以前は、味がしなかったりめちゃくちゃな感じでしたが、今は、だいぶわかります」
「ふむふむ」
「ここにいる妹の方が料理は上手なんですけど、先週末から、わたしもまた作るようにしてます」
「そうですか。少しずつ、意欲も戻ってきている感じですかね」
「そうですね。まだ、日によってばらつきはありますけど」
「わかりました。・・・・・・夜は、眠れてますか?」
「先生から処方されたお薬を服用して、だいぶ、眠れるようになりました」
「よかったですね。あれは補助的な効果なので、改善されたら飲まなくても大丈夫ですから」
前橋医師は、にっこりと笑う。
「昼間の過ごし方などは、どうされてますか?」
「えっと、起きたら歯磨きと洗顔をして、着替えて、読書したり漫画を読んだり・・・・・・」
「あまり、外には出てない感じかな?」
「そうですね。あんまりー・・・・・・」
「そうですか。天気が良い時は、外を歩いて見るのが効果的ですよ。脳が目覚めますから」
「そうなんですね。・・・・・・外、かぁ・・・・・・」
「できれば晴れた朝、決まった時間に太陽光を浴びて、短時間の散歩などをするといいですよ」
「お姉ちゃん? 今度、起きたら近くをお散歩してきなよ。先生もこう言ってるし」
「うーん。・・・・・・なんか、近所を歩くと、知り合いや同僚に会っちゃいそうで・・・・・・」
「先生。今の姉の状態で、車の運転とかはだいじなんですか?」
「薬の服用による眠気や、身体症状が出ていなければ問題ありません」
「そうですか。・・・・・・お姉ちゃん。近所じゃなく、市外へ行って歩いてきたら?」
「・・・・・・市外かぁ・・・・・・」
「もし、外に出るのが難しそうなら、自宅の庭とかでも構いませんよ」
「お庭ですか・・・・・・。うーん・・・・・・それなら」
「庭の草もけっこう伸びちゃったから、お姉ちゃん、昼間に抜いてよー」
「まぁ、できそうな時には、ね」
「温田さんは、良い感じで療養できていますね。少しずつですが、快復していますからね」
「だってさ! 良かったね、お姉ちゃん!」
「そうだねー・・・・・・。・・・・・・ちょっと、体力が落ちてて。身体も動かしにくいしー・・・・・・」
「それは仕方ないことなので、気にしなくて大丈夫です。気力が戻れば、身体も動きますから」
「そうなんですか?」
「身体を動かす体力と、気力や精神力は、連動しているんですよ」
緑と海は同時に「へぇー」と驚く。
「身体の活力を生み出すのは、精神エネルギーが大きく関わっていますから」
「じゃあ、わたしの身体が動かしにくいのって、体力が落ちたんじゃなく・・・・・・」
「そうですね、どちらかと言えば、気力が落ちたが故のものだと思いますよ」
「そうなんですか。なんか、もう若くないからなのかなー・・・・・・って思ったりもしちゃってー」
「お姉ちゃんさぁ、その年齢で若くないなんて言ったら、あたしもちょっと困るよ・・・・・・」
「あ、あはは。そうだね。海も二年後、わたしの年齢だもんね・・・・・・」
「気力が回復すれば、自然に、体力も戻ってきますから心配しなくて大丈夫ですよ」
「よかったです。・・・・・・ねぇ、海。・・・・・・わたし、けっこう元気になってる?」
「ここ数日は、ね。・・・・・・でもお姉ちゃん? だからと言って、無理は絶対ダメだかんね!」
「その通りですね。焦りは禁物ですから、ゆっくり、取り戻していきましょう」
「あ、はいー」
「他に、体調や精神面で気になることはありますか? その他のことでもいいですよ?」
「えっと・・・・・・。生理は相変わらず止まったままですけど・・・・・・まぁ、何とかなるかなぁと」
「そうでしたか。もし心配なようであれば婦人科への紹介状も出しますので、言ってくださいね」
「わかりました。ありがとうございます。・・・・・・あ! うーん・・・・・・。そう言えば・・・・・・」
「何か他に気になることがありますか?」
緑はやや表情を曇らせ、悩みながら渋っている。
「あの・・・・・・。この二週間内で、上司からの電話を受けたんですけど・・・・・・」
「ふむ。なるほど。それは、例の課長さんですか?」
「あ、はい。あとは、課長補佐からもかかってきたんですが・・・・・・」
「・・・・・・なるほど」
「課長補佐は『こっちは心配ないからゆっくり休んで』と優しく言ってたんですが・・・・・・」
「ふむふむ」
「どうしても、課長からの着信があると、頭が痛くなってしまって・・・・・・」
「今回のストレス要因の一つに直面して、きっと、拒否反応が出ているのかもしれませんね」
「そうなんですかね、やっぱり。・・・・・・でも、やはり、出ないとまずいなぁと思って・・・・・・」
説明を続ける緑を見ている海は、口をアヒルのように尖らせている。
「出てみたんですけど、課長補佐と違って何かこう、電話越しに叱責されたような感じで・・・・・・」
「ふむー・・・・・・。難しいですね。何か、緊急の電話の場合もありますからね」
「ほら、海! 先生だってこう言うじゃん」
「う・・・・・・。だ、だって、お姉ちゃん、あの課長と関わると具合悪くなっちゃうから・・・・・・」
「あ。その電話では、課長が、今日の診察結果を詳しく報告しろと言ってました」
「なるほど。そういうことでしたか・・・・・・」
「その電話の後、また、頭痛が激しくなって・・・・・・。まだわたし、ダメですね、やっぱ・・・・・・」
「さすがにまだ二週間ですから。あと一ヶ月、続けて療養をして経過観察をしましょうか」
「え! またあと、一ヶ月・・・・・・ですか?」
「ええ。今の状態で温田さんを職場に戻すのは、さすがにまだ無理ですね」
「・・・・・・そ、そうですかぁ」
「お姉ちゃん。無理しちゃダメ! 焦らない、焦らない」
「う、うんー・・・・・・」
「私が診てる他の患者さんも、二週間で職場に戻ったという人は、まずいませんねー」
「そうなんですか。・・・・・・はぁ。けっこう、時間がかかるんですね」
「だいたい九ヶ月から一年くらい休業し、じっくり経過観察しながら療養する人が大半ですね」
「え! そ、そんなに・・・・・・。一年も休んだら、わたし、来年も新人のままだなー・・・・・・」
「まぁ、これは人それぞれですから。温田さんは、だいぶ回復は早い感じではありますけどね」
前橋医師は、不安そうな表情の緑に「焦らず、ゆっくり療養しましょう」と笑顔で諭した。
「・・・・・・先生。わたしの中で、休んじゃダメという自分と、休めという自分がぶつかって・・・・・・」
「だいたい、みなさんそう仰いますよ。それは、至極自然な葛藤や感情だと思いますよ」
「そ、そうなんですか。・・・・・・はぁ・・・・・・」
「お姉ちゃんは、焦りすぎ! 休んでいいんだから、まだ休もう? 完全回復しなきゃ!」
「完全回復ねぇ・・・・・・。うーん・・・・・・そっか・・・・・・」
「では、約一ヶ月後の十一月二十四日にまた来て下さい。職場用の診断書も出しますね」
「は、はい。お願いします」
前橋医師はにこっと笑って、緑と海に「お大事にどうぞ」と頭を下げた。診察室を出た緑と海はその後、会計等を済ませ、二人並んで病院を出た。
「ねぇ、海?」
「ん?」
「わたし、このまま、元気になれなかったらクビになっちゃうのかなぁ・・・・・・」
「なーに言ってんの! だいじだよ! クビになんかされる理由、ないでしょ!」
「だって、もし元気になれなかったら・・・・・・」
「なれるから、安心して! また、戻れるから!」
「・・・・・・うん。そうだね。・・・・・・そうだよねー・・・・・・」
緑は、青空の彼方に流れゆく雲を見つめながら、ぽそりと言う。
「とりあえず、また、あたしが午後に診断書出してきてあげるからさ! 心配しないで!」
「ごめんねー・・・・・・。はぁ。・・・・・・わたし、ここまで自分が弱るとは思ってなかったなぁ・・・・・・」
「誰だって、弱るの予測して日々過ごしてなんかいないよっ!」
「・・・・・・まぁ、そっか」
「とりあえず、お姉ちゃんは家で休んでて。あたしは市役所に行ってくるからさ」
「わかった。・・・・・・海。課長に会うのは疲れるだろうけど、お願いね・・・・・・」
「うん! 気にしないで! あたし、お姉ちゃんのために、戦ってきてあげる!」
「ま、まぁ、無理に戦わず、事務的に終わしてきちゃってもいいからね?」
「ま、状況次第かな。一ヶ月、休暇延長をお願いしてくるね」
「ありがと」
「あ! そうだ! 今度は念押しして『傷病休暇』ってこと、確認してこなきゃ!」
「・・・・・・え?」
「なんか、怪しいんだ! 右京さんらが話してたんだけどね・・・・・・」
海は、教育講演会の日に右京や進藤らが話していたことを思い出し、それを緑に話した。
緑は「な、なにそれ・・・・・・」と、表情を固める。そして、がくりと首を垂らした。
「わたし・・・・・・が、勝手に? 勝手に・・・・・・個人的なことで休んでるってこと・・・・・・なの?」
「わかんないけど、あの課長は、そう周りに言ってるって! あたし、確認してくるから!」
緑は、その場でまた、ぽろぽろと涙を落とし「そんなぁ」と、呟いた。
海は駐車場で姉の肩を抱き、「そんなわけないよ」と、何度も優しく声をかけ続けていた。




