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言葉を吐く

作者: 村崎羯諦

 嫌々参加した飲み会からの帰宅後。駆け込んだトイレにぶちまけた吐瀉物の中に、その時はぐっと飲み込んだはずの言葉が混ざっていた。無理に酔おうとして飲んだ赤ワインの色に染められた、「そういうガサツなところが嫌いなんです」という言葉が、胃液でふにゃふにゃになりながら便器の中で浮かんでいる。私はコップで口の中をゆすいだ後で、吐いた言葉を水へ流した。


 土曜日の朝、もしくは月曜日の朝。繁華街の近くを歩いていると、電線の足元には、誰かが昨日の夜に吐いたであろう吐瀉物が残っている。行き交う人たちは眉を顰めて不愉快そうな表情を浮かべて回り道をするか、その存在に気がつくことなく、通り過ぎていく。私も朝の爽やかな空気にはそぐわないその汚物に対して、汚いなぁと思いつつも、どこか気になってじっと見てしまう。その中には時々、昨日の飲み会の場でぐっと飲み込んだ言葉が混ざっていて、自分と同じような繊細な仲間を見つけたような気がして、嬉しくなるから。


「言いたいことがあるならその場で言えばいいのに」


 ふと誰かが飲み会でそんな言葉を吐くことについて話題を振った時、職場で一番苦手な上司は笑いながらそう言った。態度がデカくて、近寄り難くて、だけど怖くてあんまりものが言えない相手。そうですよねーと適当に相槌を打ったけれど、家に帰ったら案の定、「お前に何がわかるんだ」って言葉をトイレに吐いてしまった。いつものことなので、私は何も考えずに、それを水に流す。私の吐いた言葉は渦を巻き、そのまま下水へと流されて行った。


 誰かに言おうとして言えなかった言葉は、行き場を失って、体の中を暴れ回る。そのままだと知らないうちに私たちの胃とかを傷つけてしまうから、体の免疫反応で言葉を吐き出しているんだとどこかでテレビで見たことがある。世の中には言葉を吐けない体質の人が紹介され、その人の内視鏡検査の映像が流れていた記憶がある。ぶよぶよに腫れて、色も病的な赤黒色をしていて、ふと映像の端っこに映った「助けて」と言う言葉が、妙に記憶に残っている。


 でも、自分の身体が傷ついてまで、そこまでいかなくても、トイレに吐いてしまうまで、言いたいことを言えずにいる気持ちが私にはわかる。もし私が言いたいことを言った時、周りの人を不快にさせたりするかもしれない。実際、あの上司にだって、私が言いたいことを言ったとしたら、何だこの野郎って怒鳴ってくる可能性の方がずっと高いと思う。


『言いたいことも言えないこんな世の中で本当にいいの? みんなで言いたいことを言おう週間』


 だから、厚生労働省が音頭を取って、そんなキャンペーンを大々的に展開した時も、私たちみたいな繊細な気持ちなんて持ち合わせてない広告マンが企画を提出したんだろうなって冷めた目で見ていた。


 実際世間の評価はよろしくなくて、税金の無駄遣いと批判されてSNS上で炎上した。その一方で、逆にそれがきっかけで世間的にそのキャンペーンが認知され、キャンペーン中だからと言う理由で、本当に言いたいことを言い始めるなんてみたいな現象が発生し始めた。


 だけど、私はそんなキャンペーンの波にも乗らず、もやもやした気持ちでそれを見つめるだけだった。世の中はそんな簡単じゃないし、言いたいことを言えないことだってたくさんある。どうしてそれをわかってくれないの? 盛り上がるみんなを見ながら、私はそんなことを考えた。


 だから、キャンペーンを打ち出したNPO法人の代表のインタビューで、自分も昔は言いたいことを言えない性格だったと話しているのを読んだ時は、本当かなと疑ったりもした。でも、インタビューの中で言いたい言葉を溜め過ぎて、一度緊急搬送されたことがあること知り、私は少しだけその人のインタビューに興味が湧いてきた。


「自分が言いたいことを我慢してるから、空気が乱れずに済んでるんだと本気で思ってました。それなのにどうして私の苦労をわかってくれないのか、ずっと不満だったんです。でも、一度病院に運ばれて初めて気がついたんです。その気持ちの裏には、自分から言いたいことを言わなくても、私の気持ちを汲み取って欲しいという願望があったということに。でもそれって、誰かのためって自分では思ってるけど、自己中心的でもあるんですよね。だってそれはつまり、相手に対してお母さんみたいに振る舞って欲しいって要求していることと一緒ですからね」


 それからインタビュアーの質問にいくつか答えた後で、さらに言葉を続けていた。


「もちろん言いたいことを言うようになったことで、場を乱したり、相手を傷つけてしまったこともあります。それでも、そんな経験を経て思うのは、昔の自分は気を使っていたようで、結局は自分だけしか見てなかったんだなということ。みんなは自分の言いたいことを私が思っているよりもきちんと聞いてくれるし、みんな色んなことを考えながら生きている。勝手に我慢して、言いたいことを言えずにいたのは、結局心のどこかで、相手のことを信用してなかったり、馬鹿にしてたりしてたからなんでしょうね。それは今、すごく反省してます」


 そのインタビューを読んだ翌月。会社の飲み会があって、例の苦手な上司と同じ席につくことになった。今は『みんなで言いたいことを言おう週間』だから何を言ってもいいぞ、と話す上司の姿が、なぜかその日は妙に私を苛立たせた。


 両手で口を抑え、吐き気と共に込み上げてくる言いたいことをぐっと飲み込んで、私はいつものように愛想笑いをつづける。でも、吐き気がずっと止まらなくて、それと同時に、日頃のストレスが重なって、私は思わず「そういうガサツなところが嫌いなんです」と呟いてしまった。


 やってしまった。言葉を言い終わるや否や、酔いが一瞬で覚める。あの上司のことだから、きっと機嫌を悪くして、せっかくの楽しい場が壊れてしまう。そんなふうに思った。でも、そんな私の言葉を聞いた上司はあっけらかんとしていて、そりゃ悪かったと笑いながら自分の頭を掻くだけだった。そしたらすかさず横にいた同僚が、もっと注意しないとダメですよと笑いながら指摘して、いつの間にか、みんなで上司の治したところがいい場所の言い合いが始まった。私はヒヤヒヤしたけど、上司は決して機嫌を悪くすることはなくて、ただ笑って相槌を打ったりするだけ。拍子抜け。私はそんな上司の姿を見ながら、なんだか気持ちになるのだった。


 飲み会から帰宅後。結局お酒を飲み過ぎた私はトイレで吐いてしまったけれど、いつものような言いたいことを言えずに飲み込んだ言葉は混ざっていなかった。


 自分が思っているよりも自分の言いたいことを聞いてくれるし、みんな色んなことを考えながら生きている。結局心のどこかで、相手のことを信用してなかったり、馬鹿にしてたりしてたんでしょうね。


 インタビューで読んだその言葉が、頭の中で蘇る。私は口元を指で拭った後で、トイレの水を流し始める。ぐるぐると渦を巻きながら下水へと流れていく吐瀉物を見つめながら、私は考える。ちょっとだけなら。ほんのちょっとだけなら、『言いたいことを言おう週間』に試しに乗ってみるのもありかもなってことを。

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