水中散歩
竜が出てきますが、ワクワク冒険ファンタジーではありません。ご了承下さい。
音は何もないと思いました。けれど、ごぼごぼとのぼっていく泡が、私の鼓膜に響いたのです。硝子のように透き通った水中の世界に、私は一瞬で魅了されました。
どこまでもどこまでも透き通るこの世界には、あまりにも素直に太陽の光を通すので、私は自分が水の中にいるということを忘れていました。髪の毛はゆったりと揺れて、私の首筋を撫でます。ふと口を開けると、そこからいくつかの泡が水面に向かって震えながら登っていきました。
夢の中でうまく進めない時のように、うまく歩くことができませんでした。そんな私の足元を何かがくすぐるように通り過ぎていきます。はっとして見ると、それが竜であることを知りました。美しい竜はエメラルド色の体をしていて、蛇のように水中を進んでいくのです。一度は私を追い越した竜でしたが、しばらく進むとぴたりと止まり、驚いたことに再びこちらに戻ってきたのです。水晶のようにころころ輝く瞳を持つ、やはり美しい竜でした。さざ波のように落ち着く声で、竜は私に言ったのです。
「お前のような人間が、どうしてこんな場所にいるんだ?」
ここはきっとこの竜の縄張りなのでしょう。あちこちに竜が通ったような跡が、砂の上に残っています。けれどその声は、私をここから追い出すためではなく、どうして私のような人間がここにいるのか、単に不思議に思って尋ねたという様子でした。しかし、私は自分がどうしてここにいるのか、思い出すことができませんでした。
私の居場所はここではない。それはこの場所が美しいのと同じくらい、確かなことでした。ただ、ここではとても穏やかな気持ちになれるのです。私はそれを求めて、ここに来たのだと思いました。反対に、私がそれまでいた場所では、こんなに穏やかな気持ちにはなれなかったことを思い出しました。きっと私は、何かを恐れて、ここに逃げ込んだのです。
私が竜からの質問に答えずに黙り込んでいると、竜はやれやれと首を振りました。
「まったく。仕方のない人間だ。ほら、ついてきなさい」
陽の光を受けながら優しく輝く鱗の体をくねらせながら、竜はゆっくりと進み始めました。私もそれについて行きます。一体どこへ行くというのでしょう。
隣を進む竜は、何も言いませんでした。ただその美しい水晶の瞳をまっすぐ前に向けながら進み続けました。私の口から絶えず泡が震えながら水面へとのぼっていきます。そう、呼吸の数だけ、のぼっていくのです。水面に届く途中で、泡も陽の光をうけて煌めきました。私の吐き出した息なのに、案外綺麗なものです。
「いったい、どこへ行くのですか?」
泡を眺めながら竜に尋ねると、竜はちらりと私を見て再び前を向きました。
「お前を帰すための場所へ行くんだ」
そうか、この竜は私を案内してくれているのか。私はそう理解すると同時に、この場所から離れたくないと切望しました。
「私は、ここに居てはだめですか?」
「ああ、だめだ」
竜は静かな声でそれだけ言うと、再び黙ってしまいました。私もそれ以上は何も言わず、透き通った硝子のような水の中を、ただただ竜と共に歩き続けました。
しばらく進んだ時、ふと自分の頬を何かが撫でた事に気がつきました。それは、一枚の桜の花びらの様でした。薄く、儚く、今にも陽の光に消えてしまいそうでした。
「ついたぞ」
竜がそう言いました。顔を上げると、そこには一本の桜の木がありました。澄み渡った水の世界に、凛とした姿でたっています。そして、その枝には無数の花が咲き乱れていたのです。今手元にある、このかよわい小さな花びらが、あんなにも命に満ち満ちている様に、私は言葉が出ませんでした。けれど、次の瞬間には、こんなにも美しい桜の木さえも、どうでも良くなってしまうのでした。
桜の木の下に、一人の男性がいたのです。その人の姿を見た途端、私の心が砕け散りました。こんなにも美しい世界でも、その人はやはり特別でした。目の周りに熱い水が触れました。水の中では涙を拭う必要もありませんでした。うまく走れない水の中を必死になって進み、両手を広げるその人の胸へと飛び込みました。
「馬鹿野郎。こんなところまで来て」
優しく抱きしめてくれるこの人に、私は必死になって顔をうずめました。
「だって、あなたが、私を置いて、いってしまうから」
「だからって…。まったく、ほんとうに」
震える声でそう言いながら、その人は私の頬を拭ってくれました。
「さあ、もう戻りなさい。君はここにいちゃいけないんだから」
私は必死になってその人にしがみつきました。
「いやだ。行きたくない。ここにいる」
私がそう言うと、その人は乱暴に私の肩を掴んで押し返しました。そして、少し腰をかがめると私の目をまっすぐに見つめたのです。その瞳にもいっぱいに熱い水が震えていました。
「頼むから。お願いだから」
唇を噛みしめ、両の手を握りしめても、それ以上は何も言えませんでした。
「いきなさい」
その人はそう言うと、私を振り向かせて背中を押しました。私が振り向いて戻ったりしないようにするためか、私をここに連れてきてくれた竜が、そっと私の背中を包むように寄り添いました。そして、半ば押されては歩くように、私はその場を去りました。
再び竜とふたりきりで歩きました。あたたかな陽の光はいつしか消え、私の泡は、薄暗く冷たい世界を、震えながらのぼっていきます。
「まったく。またおせっかいなことをしてくれたんですか」
急にそんな言葉をかけられて、私はとても驚きました。どこから現れたのか、いえ、まずいつからいたのか。私の隣を進む竜のその隣に、大きな鎌を持ち、黒いローブを被った骸骨がいたのです。
「困るって言ってるじゃないすか。勝手に人間を案内しちゃあ」
けれど竜は止まることも、骸骨を見ることもせず、淡々と答えました。
「お前の仕事が遅いだけだ」
すると骸骨、いいえ、この姿を見れば私でも彼が何か想像はつきます。そう、死神は、ひゃっと息を吸いながら、口元に手を当てました。そして私を見ながら竜を指さします。
「どう思います?この口の利き方。こっちだっていろいろ忙しいんすよ?猫の手だって借りたいところなんすけど、あいつらはほら、九つも命を持ってるでしょ?なかなかこっちにきてくれなくてねえ」
「くだらない事を言ってないで、さっさと仕事に戻ったらどうなんだ。この人間は私が返すから」
竜が半ば呆れたようにそう言うと、死神は思い出したかのように両手を叩きました。
「あ、そうそう。返すのは任せてもいいんすけどね、ちょいと伝言を預かって来たんですよ」
そう言うと死神は再び私の方を見た。
そして目玉のない目で私をじっとみつめました。
「あんた。さっきあの人に会えたからって、またここに来るようなことはしないで下さいよ?今回は特別だっただけで、次あんたが“自分から”ここに来ても、次行きつく先は違う場所なんすからね?」
ふと、胸が苦しくなりました。それでも死神は構わず続けました。
「ここに来る時になったら、ちゃんと私が迎えに行きますから。いいっすね」
「死神さんて、案外、ノリ、軽いんですね」
苦しくて張り裂けそうな胸で何とかそう言うと、表情がないはずの死神がとても悲しそうに見えました。
「私がどれだけの死を見てきたと思うんすか。こんくらいのノリでやってかないと、耐えれないんすよ。だから、あんたにもお願いしますから、ちゃんと、私を、待っててくださいよ」
「じゃあ、明日にでも、来てくれませんか?」
わがままだ。そう思っていても、切望してしまい、私はついそう言ってしまったのです。すると死神は、そっと私を抱きしめてくれました。私の深い深い悲しみと、心の底からの絶望を取り除いてはくれなかったけれど、その黒く静かなローブで、包み込んでくれました。
「さっき言われたんじゃないすか。あの人の言葉を、もう忘れちまったんすか?…あんたの気持ちは痛いほどわかるっす。でも、言われちまったんでしょう?あの人に」
死神はそう言うと、沈んでいきました。いいえ。私の体が泡と共に、水面へとのぼっていったのです。
「次は私から会いに行きますよ。さあ、もう、いきなさい」
死神はそう言いながら私の手をそっと放しました。この時、私はもう苦しくて仕方がありませんでした。死神と竜の姿はどんどん小さくなっていきます。
ついに私は水面を突き破るように顔を上げました。そして、大きく息を吸い込んだのです。私は、静かに月明かりが照らす夜の海にいました。私の背中を押すように、波が私を浜辺へと押しやります。ようやく浜辺にあがった私は、再び大きく息を吸い、大粒の涙を流しながら、海を背に歩き始めました。
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水面を見上げながら、竜が言いました。
「なあ、前から気になってたんだが、命とはどうやって終わりを迎えるんだ?単に、生が終わるのか?それとも生が去って死だけが残るのか?はたまた、死がやって来るのか?」
鎌を担いだ死神は、肩をすくめました。
「知らないっすよ、そんなこと。生きたら死ぬのが命っつうもんすから。そんなことより、もうあんな勝手しないで下さいよ?結構困るんすから」
「ああ。わかってるって」
静かな水の中を、そう言い合いながら竜と死神は並んで歩いていきました。
読んで下さり、ありがとうございました。