リシュハルト
彼女は変わった。登園してきて、挨拶を交わした後、すぐにそう分かった。彼女は彼女のはずだけれど、笑顔が全く違ったから。あんなに満たされた顔の笑顔は初めて見た。まるで世界中の全ての幸せを彼女が受け取ったかのようだ。
恥ずかしそうに顔を赤くする姿も、言葉が出ずに戸惑う姿も全て初めて見た。彼女はやっと彼女になったのだとそう感じた。
「「誕生日おめでとう」」
ソフィアと一緒にシルフィーにその言葉を告げると、とても嬉しそうに笑った。手元にプレゼントもない今、贈る事が出来るのは言葉だけ。でも彼女は本当に嬉しそうに笑ったんだ。まるで満たされたかのように。満足したかのように。これが最高の幸せだとでも言うように。元から欲はない方だった。彼女は何も求めない。求めているようだけれど、心の底ではどちらでもいいと思ってると感じていた。
でも、今回は違う。今、彼女に贈る事が出来るのは言葉だけだ。けれど彼女は本当に心から満足していたんだ。欲がないのとは違う。それが彼女の幸せだと、彼女は自分自身で知っているんだ。プレゼントなんてただの補足品に過ぎない。もちろん心を込めて選んだものを彼女は絶対に喜んでくれる。けれど何より大事なのが気持ちだという事を彼女は知っているんだ。友達にお祝いされた。その事自体がとても嬉しいと、彼女は本当に心から思っているんだ。
思わず泣きそうになった。
小さい時からずっとずっと彼女を傍で見ていた。でも彼女は、自分が愛されているはずがないと信じ込んでいた。いや、愛される事は分かっていても、心の底から受け入れられてはいなかった。それが彼女だと言えばそうだけれど、でもそうじゃなかった。彼女は愛されていたのに自覚していない。それがとても辛かった。彼女は周りの人を幸せにするのに彼女自身は幸せになれない。彼女自身は幸せだと感じているのかもしれない。けれど、でも。それは本当の幸せなのか僕には分からなかった。ただ彼女を救いたかった。でもその為の手段が分からなかった。
彼女が僕の幸せを願ってくれていた事は知っていた。でも僕は彼女が幸せになる前に自分が幸せになる気はなかった。
それは僕のけじめだったから。
ずっとずっとそう思っていたけれど、ある時思ったんだ。そんな事を彼女が望むだろうか。彼女は自分が幸せになれないのに僕に幸せになるなというような人ではない。それどころか、僕が幸せになれば彼女は絶対喜ぶ。それが分かっていたからこそ、僕は諦めていたものを手に入れる努力を始めた。
それがリリー様との婚約だ。
思えばあれは一目ぼれだった。入学式の日、初めて彼女を見たけれど、あんなに綺麗な人がいるのかと目を疑った。あの時はシルフィーと同じく子ども扱いをされていたけれど、それでも良かった。彼女の視界に映るのであれば良かった。でも、満足していたはずなのに、どんどん不安になっていった。彼女は僕の事を見てくれているけれど、それは歳下の弟のような存在としてだった。彼女は綺麗だ。だからこそ奪われる前に手に入れなければならない。僕は決して可愛い弟の立場で甘んじているわけではない。むしろ不満だ。好いた相手に男として見られていないのだから。
だから、リリー様を手に入れられた時、本当に嬉しかった。可愛い弟としての立場を受け入れながらも、男として意識してもらうのは難しかったけれど、でも結果的にリリー様を手に入れる事が出来たからそれで良かったのかもしれない。
今でもリリー様は僕の事を可愛い弟として見ているかもしれないけれど、それでも構わない。婚約した今、これから時間はいくらでもあるのだから。
先程言ったように、僕がリリー様を好んだ理由は一目惚れだ。でもそれだけではない。もう一つの理由は、彼女がシルフィーの事を大事にしており、またシルフィーも彼女に懐いているからだ。
僕はシルフィーが好きだ、でもそれは恋ではない友情だ、だからこそ、僕はシルフィーに隠し事をするつもりなんじゃなかった、結果的に報告が遅れてしまった訳だけれど、シルフィーにリリー様と婚約をしたことも伝えられた。
僕は彼女を守る為だったらなんでもする。そう決めていた。
そう決めたのは、ずっとずっとはるか昔。僕が僕として生まれる前からだ。それは魂に刻まれた約束事のようで、決して違えるつもりはない。これは僕自身の意思だ。僕は彼女を幸せにする。その為に、僕はある。
まるで呪いのような、祝福のようなその感情は僕を照らしてくれた。僕が生きているのは、彼女のおかげだ。だって僕は彼女に救われたから。
「どうしてリシューはそんなに優しくしてくれるの?」
「シルフィーには、返しきれない恩があるから」
「えーっと、何の事?」
「ふふ、」
シルフィーは知らなくていい。分からなくてもいい。だって彼女は『僕』の事を認識していないと思うから。いや、認識はしていると思うけれど、重要だと思ってない。気にもとめていない。けれど、言うと思い出してしまいそうだから、絶対に言わない。
思い出してもいいのだけれど、彼女を苦しめる要因になってしまいそうだ。そして僕が最も恐れているのが、彼女が僕の事を嫌う事。
今の彼女を見ている限り、それはあり得ないと分かっているのだけれど、僕が少し怖い。
僕が、彼女が死ぬ原因になっただなんて、言えない。
僕は学校に登校してる時、車に轢かれそうになった。それを救ってくれたのが彼女であり、桜だった。
訳もわからず目の前に迫ってくる車を眺めている事しか出来なかった。僕を彼女は救ってくれた。僕は生き抜いて彼女は死んでしまった。それがとても心苦しかった。お礼を言いたいのに、言えない。それから僕は必死に生きた。彼女に顔むけが出来るように生きた。
まさか、この世界で再び出会えるなんて思わなかったけれど。
僕の方から彼女に正体をばらすつもりは一切ない。もし彼女が知ったら気にしなくていいと言いそうだから。だからこれは僕のただの自己満足。彼女が幸せに生きていけるように、それを手伝うのが僕の役目だ。僕自身で勝手に作った自己満足。それでも彼女が生きていくのに、少しでも助けになれたらいい。
僕は彼女の助けになれるだろうか。
それが今の僕の存在意義だから。でも、その役目ももう必要がなくなってきている。だって、その役目は今はアルにぃの役目だから。僕よりもずっと彼女の事を愛し、慈しんでいる彼は、僕よりもずっと彼女の事を救えるだろう。僕は彼女の心を救う事は出来ないけれど、アルにぃならば彼女の安全だけではなく、心も救えると思うから。だからもう少ししたら僕の役目はおしまい。
寂しいけれど、安心した。彼女はやっと心の拠り所を得たのだ。
今日から彼女の新しい日々が始まるのだと感じた。
彼女はずっと桜だったけれど、でもやっと、シルフィーになれたのだと見て分かった。彼女自身を受け入れたのだと、そう感じた。
可愛くてどこか抜けていて、優しい彼女はいつもいつも他人を優先する。そんな彼女が大好きで可愛くて、悲しかった。もっと自分を大切にすればいいのに。我儘を言えばいいのに。
嫌な時は嫌だと、悪役令嬢のように泣き喚けばいいのに。令嬢としてはダメかもしれないけれど、でも、僕はそんな彼女を望んでいた。それを叶えられるのは、きっとアルにぃだけだろう。
『ありがとう』
彼女にそう言われるたび、僕の心は満たされた。
『リシュー』
彼女だけが呼ぶ僕の名前。シルフィーは知らないだろう。僕はその呼び名がとても大好きだった。
初めて彼女と会った時からずっとずっと決めていた。彼女を救うと。
一目見て、彼女は桜だと気付いた。本当は僕が彼女の婚約者になろうと思っていた。もちろんそれは一目惚れなんかじゃないし、恋でもない。だからと言って同情でもない。ただ、婚約者になったらもっともっと大切にすると決意しただけだった。でも彼女はすでに婚約者がいた。婚約者のアルにぃはとても優しい人で、僕の姉の夫となる人の弟だったから、面識はあった。だから、シルフィーはきっと幸せになれると確信していた。そして僕は別の方面から彼女を幸せにしようと決めた。友人としての立場を確立して、彼女を守りぬくと誓った。でも、僕は彼女に何も出来ていない。守ると言っておいて、僕は彼女にいったい何が出来ただろうか。
彼女を助けたのはいつだって、僕ではなくアルにぃと、ディーアだ。
そして、気付けば彼女は何も知らない真っ白なまま、どんどん大人になっていった。
だから僕は一時期、彼女が怖かった。だって彼女ときたら、何も考えないまま前世の言葉を言ったりするから。でも、だからこそソフィアもシルフィーと前世で繋がりがあるのだと分かった。だって、この世界の人なら知らないはずの言葉を、ソフィアは当然のように分かっていたから。
学園生活でだって、僕は何度シルフィーに注意をしたかったか分からない。彼女ときたら何も考えないまま周囲にその可愛さを振りまき、知らぬうちにファンクラブのメンバーを増やしている。彼女は何もしていないというけれど、その何もしていないからこその素が彼女の魅力だ。
彼女を愛している人は沢山いる。そして僕もその中の1人だ。これからはきっと彼女は幸せになれる。その事がどれほど嬉しかったか、きっと彼女は気付かない。いや、気付かなくてもいい。
大丈夫だ、彼女は綺麗なものだけを纏って大きくなればいい。汚いものはそのうち知らなければならない時が来るのだから。だから今だけはそのまま純粋に幸せに過ごせればいい。
そのために、僕はいるのだから。
あなたを守る。彼女の為に僕に一体何が出来るのか分からないけれど、それが今世の僕の役目だ。でも、僕の役目もここまでかもしれない。
だって彼女はもう大丈夫だと思うから。
だから、どうか幸せになって。前世で僕を救ってくれた優しい姉のような存在の可愛いシルフィー。