166、浮気の匂いがしました
お泊まりの準備はするまでもなく、お城にあるので、学園からそのままアル様の元に行く。本当に私の着替えも何もかもあるから、急なお泊まりになっても困らない。
そして、アル様の執務室まで行くと、アル様はいつも通り両手を広げて待ち構えていた。ちょっとドヤ顔のアル様はどうしたのでしょう?可愛けれど。
アル様が両手を広げてくれているのをいいことに、他の人達がいることも気にせずにアル様に抱きつく。
「ぎゅーです!」
そして私もいつも通りジャンピングぎゅーをする。助走つけて思いっきり抱きついても軽々と受け止めてくれるアル様はやっぱり力持ちなのですよ。
ついでにアル様の匂いも嗅いでみる。これも習慣ですね。ふむふむ。
「……?」
くんくん。
「??」
くんくんくん。
「???」
くんくんくんくん。
「????」
これは……
「シ、シルフィー?」
…………。
「アル様……」
自分でも思わず目が据わるのが分かる。
いつもアル様に抱きつくと、ふわっと心が落ち着く。いつ抱きついたってアル様の匂いがするのだ。優しくて、ふわっていう匂いがするのだ。
でも今日はそれがない。
いつものアル様の匂いとは違う!
3歳で婚約してから12年間。アル様の匂いを嗅ぎ続けた私の鼻が間違えるはずがない。
「浮気の匂いがするのです!」
「えっ?!」
「アル様、浮気しましたね?!」
私がそう言うと、この部屋にいた人達が皆、驚愕の顔をしてアル様の方を見る。
他の人の鼻は誤魔化せても、私の鼻はごまかせませんよ!
「殿下、まさか……」
「してない!」
アラン様も驚いた表情でアル様を見るけれど、アル様はすぐに否定した。
私だってアル様の匂いが薄くなっただけとか、そういう事だったらよくあるから、疑ったりしない。でも今日はそうじゃないのです。
だって、だって。
「アル様から女性のような香りがするのです!」
勿論、浮気する事自体が悪いことじゃないのです。いや、悪い事だけれど、アル様に限っては悪い事ではないのです。でも、隠されると悲しいのです。アル様は王子様だから側室を持つ事は悪い事ではない。寧ろ当然だと思う。でも、隠されるのは本当に悲しい。
「本当にしてないよ?!」
ほら、また嘘つく。
思わず頬を膨らませてアル様を睨む。アル様を疑いながらも、アル様に抱っこされたままだから格好はつかないけれど。
「アランに至っては、私の予定を把握しているからしていないって分かってるよね?!」
「ですが、夜の予定までは把握出来ておりませんし…」
「アランは私の味方じゃないの?!」
なんだか、こんなにあわあわしているアル様を見たのは久しぶりだ。
「つまり、アル様は夜に浮気をしていたのですか?!」
「してないからね!」
また否定するのですよ。
誤魔化されるのは悲しいです。
「隠さなくてもいいのに…」
「いや、本当にしてないんだよ」
アル様も困ったように眉を下げる。
「でも。匂いするもん」
甘くて、お花みたいな、可愛い匂い。アル様の匂いじゃない。
「あっ、」
突然アラン様が思い浮かんだように声をあげる。
「もしかして」
「?」
「殿下、午前中、ディアナ様とダンスの練習をしてたのではありませんか」
「ああ!」
!
な、なるほど!
確かに今思えば、あの匂いはディアナお姉様の匂いかもしれないです!アル様の匂いと混じっていたから、よく分からなかったのかもしれない。
一緒にダンスをしていたら、香りくらいうつりますよね。あんな近くで一緒にダンスをしているのなら。
でも、浮気じゃないんだ。なあんだ。
ディアナお姉様の匂いだと思うと、さっきまで少し不満だった匂いが大好きになった。
くんくん
「いい匂いです」
すりすりと首元に顔を擦り付ける。
私の匂いもアル様に擦り付けるのですよ。マーキングです。
「シルフィー様、殿下が限界なのでその辺で」
「?」
アル様の顔を見てみると、なんとも言い難い顔をしていた。眉間にシワを寄せて、目をつぶって。
「アル様?」
どうしたのだろうか。何が限界なのだろうか。
アル様の腕から降りた方がいいだろうか。
そう思ってもごもごしてみるけれど、アル様は腕を緩めてくれない。
結局私はどうすれば良いのだろうか。
このままでよいのだろうか。動けないからこのままいるしかありませんね。
そして、夜。
夕食を控えめにして、お風呂に入った。わくわくしながらアル様のお部屋に入る。
夜食を用意してもらい、アル様と隣同士でソファに座る。
目の前にはクラッカーとか、ナッツとか。
普段ケーキとか甘いものばかり食べる私には無縁のようなものだけれど、とても美味しそう。
ちょっとドキドキする。こういうのって、普段出てこないんだよね。お願いしたら出てくるんだと思うけれど、どうしてもケーキとかの方も食べたくなっちゃうから。お酒にはこういうお菓子のほうが合うのだと思う。
私がおつまみに夢中になっていると、アル様は私のグラスにお酒を注いでくれた。
「ふわあ!」
あんまりお酒の匂いはしない。どちらかというとレモンや、ブドウのような匂いがする。
けれど、色はオレンジ色。
一体どんな味なのだろうか。
アル様は普通の苦いお酒も飲めるはずなのに、私に合わせて一緒に同じものを飲んでくれる。
アル様にグラスを渡され、私の意識は完全におつまみよりお酒に移る。
「の、のんでもいいですか!」
「勿論。乾杯」
「かんぱいです!」
2人でグラスを合わせると、カチャンと耳に良い音が響く。
「私、乾杯って初めてやりました!」
なんだか大人になった気分です。
いざ
ドキドキしながら一口お酒を口に含んでみる。前回飲んだ時は苦かったから少し飲む事に抵抗があったけれど、アル様が選んでくれた甘いお酒らしいからきっと大丈夫だろう。
「甘いです!」
この間は苦かったのに、今回は本当に美味しい。ジュースを飲んでいるみたいで美味しい。
「これで私も大人ですね!」
アルコール特有の口に残る味もしない。それだけでこれがよいお酒だと分かる。
これはいくらでも飲めちゃいそうな味がします。
「シルフィー」
アル様がトマトとチーズが乗ったクラッカーを差し出してくれたので思わずかぶりつきます。勢いが良すぎてアル様の指までちょっと食べちゃったのはごめんなさい。
「ん~!」
とっても美味しいのですよ!
これはある意味恐ろしい。美味しいお酒とおつまみ。永遠に食べたり飲んだりし続けられますね!
「このお酒はどこから取り寄せたのですか?」
「これは、この間ワインの交渉していたでしょう?その国から取り寄せたんだ」
なるほど。
外国だったら、それは確かに取り寄せるまで時間がかかりますよね。でもおかげでとっても美味しいのです。他国ということは、私が簡単に取り寄せたりは出来ないと思うけれど、また飲みたいと思うほどには美味しい。
「でも、飲みやすいお酒だから気をつけてね」
「?」
飲みやすいお酒だとどうして気をつけるのですか?
「おいしいからこそ、飲み過ぎちゃうこともあるからね」
「なるほど」
私は特に自分の許容範囲が分からないから気をつけて飲まないといけない。今の所少ししか飲んでないから、酔った感覚は全然ないけれど。
「それでね、みんな仲良しなの」
「なるほどね」
「私、ひとりだけぽつんなのです」
「そっかぁ」
「でも、リシューのパウンドケーキはとってもおいしくて」
「うんうん」
私はアル様に今日あったことを聞いてもらっている。アル様は私の話がとっちらかっていても頷きながら静かに聞いてくれている。それがすごく嬉しい。ゆっくりと自分の話を聞いてくれている人がいるっていうのは本当に幸せなことだ。
「シルフィー、酔ってない?」
「ないです」
私はお酒に強かったのだろうか。全然酔った感覚がない。少し頭がふわふわしているかもしれないけれど、正常に脳は働いているという自覚はある。
「おかわりが欲しいです」
「もちろんいいけれど、本当に大丈夫」
「大丈夫です」
おつまみだってまだたくさんある。アル様は私よりお酒が強いはずだから、もっと飲めると思う。私がお酒が強いと、それだけ一緒にアル様と飲めるって事だから、強かったのは嬉しい。
アル様が再び私のグラスに注いでくれたので、こくこくと飲んでいく。美味しくて、ジュースのようで、あっという間に減っていく。美味しいお酒は減るのが早いって本当だったんだ。
アル様に話を聞いてもらったり、アル様のお話を聞いたりしていると時間はあっという間に過ぎていく。
「シルフィー、私になにかして欲しいことある?」
「して欲しいこと?」
急にどうしたのだろうか。でもアル様にしてほしい事かぁ。手を繋ぎたいとか抱きしめたいとかそういう事?でもそういうのって普段からしているから、わざわざお願いしてまでする事ではない。私がお願いしたい事………。もしできるなら。
「あのね、隠し事はいいけど、嘘は、やです」
隠し事をされるのは構わない。誰しも人に言いたくない事は必ずあるから。けれど、嘘は嫌だ。人を守る嘘はいいけれど、人を傷つける嘘だけは嫌だ。アル様はきっと大丈夫だと思うけれど、それでも嘘は嫌だ。本当の事を知らないのは悲しいから。
リーアもずっと隠し事をしていた。嘘をついた。その嘘がリヒトを傷つけた事を覚えている。
「分かった。言えない事はあるかもしれないけれど、その時ははっきり言う。嘘はつかない。」
アル様から返って来た誠実な答えに安心する。言えない事は言えないと言ってくれる。正直で誠実だ。
「わたしも、そう、します」
アル様がそうしてくれるのなら、私もそうするのが当然だろう。アル様はいつだって真摯に向き合ってくれる。
「あるさま、すき」
「え?あ、うん、ありがとう?」
「ずっと、だいすき」
「シルフィー、さては酔ってるね?」
「酔って、ないのです」
冷たい夜の日だって、アル様といると暖かい。まるで毛布のように私を包んでくれる。
そっと隣に座るアル様の顔をのぞき込む。銀色の髪はまるで、夜空に浮かぶ星のように輝いている。夜の暗闇は怖いけれど、アル様の瞳は全く怖くない、むしろ暖かい。黒は怖いはずだったのに、今の私にとっては、好きな色になってきた。
小さい時から、ずっと一緒にいてくれた。
「お兄ちゃん…」
私にとっては、婚約者というよりも、この感覚の方が近い。
遠慮なく甘えられて、一緒に居てくれる。血は繋がっていなくても、肩書きは婚約者でも、いつだってそばにいてくれる私の大好きなお兄ちゃん。
今だって私が抱きつけば同じように抱きしめてくれる。あぁ、アル様の匂いだ。今度こそ、まごう事なき、アル様の匂いだ。ディアナお姉様の匂いは全くしない。いつものアル様の匂いに安心するとともに、少し残念に感じる。だってディアナお姉様の匂いも大好きだったから。
「シルフィー、分かりにくいけれど、これ絶対酔ってるよね?」
「お兄ちゃん……」
普段アル様の事をお兄ちゃんなんて呼べないから、今だけ。
でも私がアル様に向かってそういうと、アル様はぶわっと顔を赤くさせた。
今の言葉に顔を赤くさせるような要素があっただろうか。それとも酔っちゃった?
「シルフィー、もう寝ようよ」
「やぁ、まだのむの」
「酔ってるよ。やめとこう」
「まだ、へーき」
「じゃないよね?気持ち悪かったりしない?」
酔ってるのはアル様の方でしょう?
「ない、です」
平気。全然、平気。
「だいすき。ほんとうに、だいすき」
傍にいたい
例え、アル様が、私以外の女性を選んだとしても。傍にいる方法はいくらでもある。私が側室になれなかったとしても騎士として仕えることだって、全くの不可能ではない。メイドとして仕える事だって出来る。
そばにいられる方法は、いくらでもある。私が私である限り、方法はいくらでもあるのだ。
「一緒にいてね」
「勿論。シルフィーが望むならいつまでだって」
一緒に生きている。それがこの上なく嬉しい。
「もう眠いでしょう」
「もう少し、まだ…」
まだ、眠りたくない。だって、眠ってしまうと、勿体ない気がするから。折角アル様がわざわざ私が飲めるようなお酒を取り寄せてくれて、おつまみだって美味しいのに。
けれど、眠いと言われるとその通りで、アル様に抱き着きながらも意識が少しずつ遠ざかっていくのが分かる。
「絶対、守るから」
その言葉は、私が発したものか、アル様の口から漏れたものか、意識が黒に染まっている私には分からなかった。