その8
7月に入って最初の月曜日。期末テスト1日目。
テストの時は普段の教室の席ではなく出席番号順に座ることになる。今となっては懐かしい教室左端、前から二番目の席に向かう。2か月前までは自分からは言い出せなかった言葉をかける。
「おはよ、赤羽」
入学直後の自分に今の自分を伝えると信じてもらえるだろうか。前の席の赤羽さんに誘われて陸上部に入って、一緒に走って試合に出て、何ならキスまでして……その他諸々。
既に赤羽は教室左上の角の席に座って、1限目の科目の参考書に目を通していた。本をパタンと閉じて私の方を向く。
「おはようケイ。昨日は勉強した?」
ナイターの記録会が土曜日にあって、昨日はフリーの日曜日。お昼まで寝て、朝昼ごはんを食べて、後は菫や美空と公園や家の中で遊んだような喧嘩したような、曖昧だけど普段通りの日曜日を過ごした。確か昼寝をしようとしたら菫の友達がうちに来て下の階が賑やかだなと感じた覚えがある。数日後には脳みそが「不要だ」と判断して記憶から抜けていくであろう何の変哲もない日曜日だった。何を食べたのかも、もう記憶からなくなりかけている。
「全然してない」
「なんかケイがそう言うと、本当にしていない気がする」
私は本当のことを言ったのに、赤羽は深読みして難しい顔をしていた。
「『してない』って言って実はしてるようなタイプに見える?」
「見え……ない、かな」
はっはっはと二人で大げさに笑う。
「……」
「……補習はならないでよ」
「ういっす」
赤点で補習になると、夏休みに部活の道具と一緒に勉強道具も持ってこなければならなくなる。
本日3科目目のテストが終わり、ぐいっと両手を上げて伸びをする。高校生活であと何回このテストを繰り返さなければならないのか。計算しようと思えばできるだろうけど、まだ高校生活も序盤で、これからのことを考えると気が遠くなりそうだからやめた。2年生の中ごろにちゃんと考えてみよう。
ホームルームの前、荷物をリュックの中にしまっている赤羽に話しかける。
「赤羽お昼どこで食べる?」
「この後練習あるの覚えてたんだ」
「まあね」
テスト期間に部活がなくなるのを知らなかった前科があるから何も言い返せない。テストは午前で終わるから、各自お昼を取った後2時ごろから練習がある。他の陸上部員はどうしているのかは気にならないけど、目の前にいる真面目な人はどこかで勉強して時間を潰すのだろう。
「教室でいいんじゃない。食べ終わったらちょっと勉強して部活行こう」
私は真面目な人間になれるだろうか。1人じゃ無理だけど2人でならきっとできる……何か壮大だけど、普通は1人でするもんだ。
時間にして1時間と少しぐらいだろうか。教室には私たちと同じようにお昼を取って自習をしてる人がほんの数人だけ残っていた。時間が経つにつれポツポツと去っていき、1時半にはとうとう私たちだけになった。
今日何度目か分からない伸びをしながら赤羽の様子を背中越しで見ると、ちょうど赤ペンで自分の解いた問題の丸付けをしているところだった。
「そろそろ部活いこっか」
「オッケー」
赤羽もぐーっと伸びをして勉強道具を片付ける。リュックを背負ってさあ出発しようとした時だった。ポンポンと赤羽にしてはやけに弱々しく私の肩を叩いた。
「どしたの」
「ここで、いい?」
「あー」
一応周りを確認する。教室には誰もいないし、廊下も静まり返っている。図書室よりもよっぽど落ち着いた空間だなと思った。軽くうなずいて目を閉じて顎を上げる。
「……」
「……っ、今日長くなかった?」
「いやあ興奮しちゃって」
いつもは、すっと触れてすっと離れているのが、今日はすっと触れてピタっと止まって止まって止まってからそおっと離れていった。
「いきますか」
すっきりした顔の赤羽が私の手を取って、一緒にぶんぶんと振りながら教室を出た。
―――
これをあと3日繰り返して、ようやく期末テストが終わった。お昼の空き時間の自習は思ったよりも捗って、教室でふしだらなことをしておいてなんだけど自分も真面目な人間になった気がした。
部活の方は、いよいよリレーが固まってきた。みやさんと私は普段は走らないコーナーの練習もした。サッカー部に無理を言って、いつもの直線から石灰ラインを引いて即席のカーブを作る。
一通り個人の練習が終えて、次はバトンを使った加速走に移る。みやさんから春香さん、春香さんから私のパスは足長も大体決まり安定している。みやさんもマネージャーから選手に復帰して1か月弱なのにすっかり雰囲気が変わって闘志を感じる。みやさんは実は初心者じゃなくて中学の時は中長距離を走っていたとのことだった。
「赤羽、いくよー」
「どうぞー」
競技場のゴムみたいな地面はタータンというらしい。タータンは競技専用だけあってスパイクがよく機能して走りやすい。一方で土のグラウンドは埃っぽいしでこぼこしてるし、おまけに7月の午後の練習は炎天下で暑い。汗に土埃が付いているのが分かる。
じりじりと熱い空気を切り裂いて加速する。目指す先にはスタートの構えを取ってこちらを向く赤羽がいる。スパイクで引いて作った見えづらい助走線を越えて赤羽もスタートする。
「ハーーイ!!」
イのタイミングで赤羽の左手にバトンが渡る。押し出すというよりはギリギリ届いて引っこ抜かれた感じだけど、成功率は着実に上がっている。
「届いたー」
掛け声は伸ばすことにした。その方が走ってくる側は少し負担だけど、タイミングが取りやすい。バトンを持つ手も左手から右手に替えた。
なんとかなりそうだと安心しながら減速すると、ぶわっと強風が吹いた。土煙が立って全身に細かい粒子がまとわりつく。帰ったら真っ先にシャワーを浴びようと、照り付ける太陽と雲が少し混じった夏の青空を見て思った。