その1
ケイ 〈伊藤惠〉
陸上初心者。明るめの茶髪、スパイクは蛍光イエロー。
ストレスは妹にぶつけがち。
赤羽 〈赤羽小蒔〉
アスリート体型。走るときは伸ばした髪をひとまとめにする。
一直線に猪突猛進、よく言うと勇往邁進。
ケイ視点になります。
『On your marks』
肩に力を入れて、すとんと力を抜く。
足の裏でスタートブロックの感触を確かめる。
『Set』
後ろ脚の膝を伸ばし、アーチを描いた両指に体重をかける。
『パン!!』
スタートしてからゴールするまでは一瞬だった。走った記憶がないぐらいだ。
多分赤羽も応援してくれたのだろうけど、私はひたすら前だけを見て、他の誰にも邪魔されない私だけの100mの走路を駆け抜けた。
―――
6月の曇り空は湿気を多く含んで、風が吹くたび湿り気が体にまとわりついて少し気持ちが悪い。私のデビュー戦は市の記録会で、8人×18組、150人近くの高校女子の選手が流れ作業のように100mを走った。
春香さん、赤羽、私の3人も出場して、練習の成果を発揮した。特に赤羽は、勝ち負けのプレッシャーがないから自己ベストに近い走りができたそうな。
「ケイちゃんお疲れ様!かっこよかったよ!」
陣地に戻ると、先にレースを終えていた春香さんがねぎらってくれた。隣にいるみやさんも、うんうんと首を縦に振っている。
「初めての100m、どうだった?」
「あっという間でした。まだ走り足りないぐらいです」
私は組で1着だった。といっても、走る組は申請した自己ベストのタイムで速い順に組まれるから、自己記録のない私は最後の方の組で、多分他の選手も陸上初心者だ。
「いいねぇ!タイムもかなりよかったじゃん。ユースの県も狙えるんじゃない?」
ユースとは、学年別の大会で、新人戦としての位置づけでもある。これも総体と同じように、地区・県・地方まで勝ち上がりの大会だ。ただ、全国規模の日本ユースの出場はまた別のシステムらしい。
「ところで赤羽はどこ行ったんです?」
記録会は自由集合・自由解散。陣地に赤羽が見当たらないけど荷物はあるから、まだ帰ってはいないはず。
「他の高校の知り合いのところじゃないかな」
「赤羽さん、中学の時から人気者なんだって」
「へぇ」
いつも一緒にいるから気が付かなかったけど、赤羽ほどの選手になると他校の選手との交流があるのだろう。中学のサッカー部時代も上手な人ほど他校の選手とつるんでいた覚えがある。
「探してきます」
「いってらっしゃーい」
なんだかおもしろくなくて、赤羽を探しに行くことにした。
「あかばねー」
観客席の前の方にいた赤羽は別の高校のジャージを着た女の子2人と話し込んでいた。
私の呼び声で、3人ともこちらを向く。
「ケイ!」
こっちきてとジェスチャーで私を呼んだからしぶしぶ3人のもとに向かう。人見知りだから正直絡みたくない。
赤羽の隣に座ると、いきなり赤羽は私と力強く肩を組んだ。ぐいっと引き寄せられて上半身のバランスが崩れる。
「この子がケイさん?」
「そうそう。さっき初めて走ってあのタイムを出したんだ。すごいでしょ」
2人に向かって誇らしげに紹介される。私のいないところでどんな噂話をしていたのだろうか。不安になると同時に、私も家で赤羽のことで話ているのを思い出して、少し罪悪感が生まれた。
「うお茶髪じゃん、チャラいなあ」
一番遠くの席に座っている人が私とは初対面なのにイジってくる。こういうアウェイ感を出してくるから中途半端な群がりは好きじゃない。
もう片方も口を開く。
「その細いヘアバンドも似合ってるねえ」
明らかなお世辞で、より居心地が悪くなる。斜め下を向いて適当な会釈で返す。
「ちょっと!別にいいじゃん」
「だけど、ねえ?」
お相手は2人で向かい合って何か目配せをして、面白がっている。
赤羽の肩を振りほどいて帰ってやろうかと思ったら、赤羽が立ち上がった。腕ごと引っ張られて思わず私も立ち上がる。
「2人ともお疲れ様。じゃあね!行こ、ケイ」
「あ、うん」
ポカンとしている2人組を置いて、私たちは肩を組んだままその場を後にした。
「ごめんねケイ」
「いいけど、あの人たち知り合い?」
「隣の中学だった人たち。顔見知りぐらいかな」
「ふーん」
「今度からずっとケイと一緒にいるね」
「むふ」
突拍子もなく恥ずかしいことを言うものだから、変な声が漏れてしまった。
―――
インターハイの後ぐらいから、赤羽がぐいぐい来るようになった。正確には、「更に」がつくのか。
ぼんやり赤羽のことを思い出していると、4時間目の終了を告げるチャイムがなった。
前の席の真中さんがパっと振り向く。
「ケイちゃん、5限の英語の宿題やった?」
「え、やってない」
「ちぇ、ノート見せてもらおうと思ったのに」
「宿題なんかあったっけ」
「……ケイちゃんって意外と不良だよね」
「そう?」
ほぼ金髪でしっかりメイクをしてスカートを私よりも更に短くしている人に言われると実感がない。
すると真中さんが私の後方に目をやって、何かに気づいたようだ。
「お、それじゃごゆっくり~」
彼女はサッと立ち上がって、教室の真ん中で盛り上がっている男女混合のグループに吸い込まれていった。
私も顔を後ろに向けると、赤羽が緊張したような面立ちでじいっと私を見下ろしていた。
「なんの話?」
「英語の、宿題を……座ったら?」
前の席替え以来、昼休みは赤羽は私の前の席を借りて一緒にご飯を食べている。
赤羽はガラガラと椅子の向きを変えて私と向き合って腰を下ろす。
「仲いいんだね」
「あの人コミュ力高いからね」
「たぶらかされちゃダメだよ!」
「えぇ……」
お箸を持つ私の右手を、赤羽は両手でがっしりと掴んで離さない。
熱を含み少し汗ばんだ両手に包まれて右手が蒸れるけど、頭の方は、赤羽の声が大きくて本人に聞こえていないだろうかと冷や冷やした。




