その7
午前8時59分、場内アナウンスが流れる。2日間ずっと聞いていた男性の声が、今だけ新鮮に感じる。きっと緊張して、意識的に聞いているからだろう。
『…県高等学校陸上競技対校選手権大会、第3日目。最初に行われますのは、女子100メートル予選。全部で5組行われ、各組2着までの選手とタイム上位6着までの選手が準決勝に進みます』
昨日の反省を生かし今日は早めに席取りをして、スタートから大体70mぐらいの最前列を確保した。
スタート付近では、第1組の選手がスタートブロックの調整をして、スタートの確認を行っている。内側から3番目のレーンでは、日本人離れしたスタイルにブロンドヘアを一纏めにしたノエルがいる。スタートダッシュをして数十メートル走った後、徐々に速度を緩める。初めて会ってまだ3日目だけど、ノエルも赤羽と同じく喜怒哀楽が豊かだなと思っていた。だけど今のノエルは真剣そのもので、一直線にゴールを睨んでいた。普段からあんな顔をされたら、怖すぎて近寄れない。
『第1組。8名でのスタートです』
まだ予選だから選手紹介はない。地区予選の決勝を勝ち抜いた精鋭たちなのに、あっさりしているなと感じた。
段々と場内が静まっていく。だけど、総立ちでスタートを今か今かと待ち構える熱気がより一層張り詰められる。そして8人の選手がスタートラインの前で並び立つ。
『On Your Marks』
ある選手は数回ジャンプしてから低い姿勢に移り、ある選手はスタートの姿勢を取った後肩を左右に揺らして、やがて静止する。
選手と、観客のすべての動きが止まる。
『Set……』
パンッ!!とピストルの乾いた音が響き、選手が一斉に走り出す。
その瞬間に観客席からの応援が爆音で響き渡る。静寂が一瞬にして沸騰する。
「……ノエル!頑張れ!ノエルファイトーー!!!」
気づけば、私も手に汗を握ってノエルの応援をしていた。
ノエルは他の7人を置いて、一着でゴールした。その間12秒と少し、本当にあっという間だ。
ゴールラインを駆け抜けて、減速する。ノエルの学校の応援団が「キャー!」と喜びの声を上げ、両手を腰に当てて息を整えているノエルを称えた。
―――
春香さんは第3組だ。2組の選手がゴールし、春香さんと他の選手が後方に設置された待機用ベンチから立ち上がり、スタートラインへ向かう。
隣にいるみやさんが、その高い声を最大音量で響かせる。
「はるかーーーっ!がんばれーーーっ!!」
ざわざわした歓声の中を貫いて、春香さんへ届く。あまりにも通りがいいから、春香さん以外の選手が何人かこちらを向いた。
春香さんはこちらは見なかった。だけど口元が一瞬緩んで、首を一度だけ縦に振った。
「春香、頑張れ」
みやさんがもう一度、今度は隣にいる私ぐらいにしか届かない声で呟く。両手を組んで祈るポーズを取る。
『On Your Marks』
『Set……』
銃声。そして大歓声と共に、加速する。
みやさんの声も私の声も、熱狂の一部になって選手を後押しする。
今度もあっという間だった。春香さんは6着だった。ゴールして息を整える春香さん、そして私たちも電光掲示板に目が釘付けになる。
『女子100メートル予選。第3組の速報です。1着……』
アナウンスと共に速報タイムが表示される。上から6番目、春香さんのタイムは……
「13秒台か~」
みやさんが声をもらした。13,02。地区の決勝では初めての12秒台を叩き出して県に進んだ。ベストは出なかったけどこの舞台で走れてよかったと、トラックの中から春香さんはその笑顔と伸ばした手で左右に大きく揺らす仕草で教えてくれた。
「でも、春香さんかっこよかったです」
「でしょ?」
エヘヘと、みやさんも笑っていた。
―――
そして、最終5組。赤羽が第7レーンのスタートラインへ向かう。無表情で前を見つめ、淡々とスタートブロックの歩幅を合わせている。
「いよいよだね、伊藤さん」
「はい」
赤羽の一挙手一投足から目が離せない。他に選手が何人いるかとか、どんな特徴かなんて情報は処理できないほど。
気が付けば5組の選手は調整を終え、全員きをつけの姿勢になり後はスタートするだけの状態になっていた。
『On Your Marks』
私の目には赤羽しか映らない。
赤羽が下を向く。
赤羽の膝が曲がる。
赤羽の姿勢が低くなる。
赤羽がスタートブロックに両足を置く。
赤羽の右ひざが地面につく。
赤羽の指がラインぎりぎりに接地してアーチを描く。
赤羽が前を向く。
赤羽の視線が下を向く。
赤羽が静止する。
『Set……』
赤羽のお尻が上がる。
赤羽の体幹が前に傾く。
赤羽が止まる。
『パン!』
赤羽が走り出す。
私の想いを、赤羽に届ける。
「赤羽ぇーーーー!行けーーーー!!」
人生で一番大きな、そして強い気持ちを乗せた声を上げる。喉が焼き付くように痛いけど構わない。
低い姿勢から前傾姿勢に、ぐんぐん加速してトップスピードになる。凝縮された意識の中でさえ、赤羽は吹き抜ける風のように一瞬で目の前を過ぎていった。前から見えていた赤羽がすぐに後ろ姿だけになった。
「2着だ!やったー!」
みやさんの声で、ようやく赤羽以外のもの意識が移った。みやさんは喜びのあまりぴょんぴょんと弾んでいる。
「え、あ……」
2着ということは、赤羽は着順で準決勝に進んだ。スタートリストには1年生なんて片手の指の数ほどしかいなかった。他はみんな上級生で、それも各校のエースたちの中で、赤羽は勝ち残った。
「頑張ったね、赤羽」
減速し終わり、こちらを振り返る赤羽と目が合った……ような気がした。赤羽は両手を腰に当て、ゴールをした後も透明な表情で、駆け抜けた走路を見返していた。
『以上を持ちまして女子100メートル予選を終了します。第5組の正式タイムと準決勝進出者は後程発表致します。続いて、男子100メートル予選を……』
準決勝は12時からだ。観客席を後にして、みやさんと共にレースを終えた2人を迎えに行く。




