その6
6月3日(日)
県総体最終日
結局3日間とも、私は朝一番で競技場に来た。今日も他の高校の朝一組に混じって午前7時のゲート開門を待つ。まだ陽は上りきってなくて、スタジアムの影にいたせいで体が冷えている。
「寒いですね、みやさん」
「そだね」
みやさんも3日連続で朝一入場だ。
「マネージャーさんって大変なんですね」
「ううん、楽しみでやってるから楽しいよ」
「なるほどですね」
ゲートが開き、二人でブルーシートやストレッチ用の折り畳みマットを運ぶ。部の荷物は先生の自家用車に積んで駐車場に置いておいてくれる。運営の先生たちはもっと大変なんだろうなと思いながら、両脇にシートとマットを抱える。
欠伸交じりでスタジアムの外周のスロープを上っていくと、内壁よりも視線が高くなってスタジアムの中が見えるのと同時に、暖かな朝陽が目に飛び込んできた。冷え込んだ体が一瞬で温まり、意識しなくても気持ちが切り替わって眠気が飛んでいく。なんたって今日は本命の100mだ。
昨日までと同じ場所にシートを敷いて陣地を作り、今日は昨日と逆で、私が早く来て赤羽の到着を待つ。みやさんは今日も正座の姿勢から倒れこんで丸まって眠ってしまった。
程なくして赤羽がこちらに歩いてくるのが見えた。赤羽も私たちのことは気づいているみたいだ。こういうとき、どのタイミングで手を振ったり声をかければいいか私はいつも迷ってしまって、相手がしてくれるのを待ってしまう。
「ケーイー!おーはーよー!」
そんな私でも、「けっこう遠いぞ」と思う距離から、大声で言ってきた。いつも以上にどうするか迷って、結局、せっかく言ってくれたのだから私も大声を出すことにした。
「あーか……ゲホッ」
いきなり全開で行こうとしたから、むせてしまった。
「ゴホゴホ」
赤羽が走ってくるのが見えた。今から走るのに体力を使ってしまわないだろうかと、ちょっと大げさな心配をしてしまう。
「大丈夫?」
「だいじょうぶ、だ、ゴホ」
照れくさいけど、逆に良かったかもしれない。来た時から緊張で張り詰めてしまったらどうしようとか思っていたし。
「それはよかったゴホ」
赤羽が私のマネをしてからかってくる。それが心地よくて、ニヤニヤしながら「もー!」と思わず反応する。こんなキャラじゃなかったはずだけど、赤羽になら別にいいかと思った。
「小蒔ちゃん、ケイちゃんおはよう!」
赤羽が来てすぐに春香さんも到着した。
「今日も女子4人が一番か~」
うむうむと春香さんが満足げにしている。私たちの陸上部は1年生から3年生まで男子8人、女子4人の合計12人。3年生は男子の先輩3人だけ。一応3人ともこの総体が区切りで引退することになっている。確か長距離の先輩が1人今日の5000mに出るはずだけど、種目も学年も違うから感慨深さとかは正直なかった。私の性格もあるかもしれないけど。
「たっちゃんさん、今日で最後なのに来るの遅いな~」
春香さんが口にした「たっちゃんさん」がその長距離の先輩、だったと思う。
「やれやれですな」
「春香、緊張してるの?」
「そんなことないアルよ」
みやさんの問いかけに春香さんが中国人風?のボケで答える
「ちゃんと寝れた?」
「全然寝れてない。小蒔ちゃんは?」
「グッスリ寝れましたよ!」
食い気味で即答した春香さんと、ニコニコして答える赤羽が何だか面白おかしい。
「……ちなみにケイちゃんは?」
「赤羽と同じく、です」
「うがー!」
春香さんが頭を抱えて落ち込む。「緊張しいだね」とみやさんがからかい、「睡眠時間なんてパフォーマンスと関係ないですよ!」と赤羽が励ます。和やかなやり取りの場に自分が居ることが少し嬉しかった。
そんなこんなだったけど、7時20分を過ぎるころには、誰一人喋ることはなくなった。春香さんは黙々と陸連登録の番号が書かれたゼッケンをユニフォームに安全ピンで止めていて、赤羽は試合でしか履かない白とピンクでグラデーションになっているスパイクのピンを締め直していた。笑って話せる雰囲気から、戦いの前のピリピリとした空気に変わる。
二人ともスポーツメーカーのロゴが書かれたビニールのナップサックに、スパイク、ユニフォーム、ドリンク、そしてみやさんが作ってくれたお守りを入れて、アップ用のシューズを履く。
先に春香さんが立ち上がった。
「みや、こっち来て」
「ほへ?」
「……」
歩み寄るみやさんを春香さんがぎゅっと抱きしめる。時間にすると5秒ぐらいだったけど春香さんの心の緊張がエネルギーに変わっていくのを見て取れた。
「それじゃ!」
春香さんは照れくさそうで、だけど「やってやるぞ感」を出して、先にウオーミングアップに向かった。次に会うのは、100mを走り終わった後だ。
シートから足を出してシューズの紐を結んでいる赤羽の隣に私も座って、彼女に話しかける。
「……頑張ってね」
赤羽は今どんな気持ちなんだろう。
昨日の200mはノエルから聞いたように、『準決勝に進めないだろう』という投げやりな気持ちがあったのかもしれない。
だけど、今日の赤羽は昨日とは違って、ピリピリとした緊張と、100mにかける熱意が伝わってくる。丁寧に丁寧にシューズの紐を結んでいる。
「うん」
バサリと、ビニールのナップサックが擦れる音がした。隣にいた赤羽が視界から消え、黒のジャージに包まれた長い脚だけになる。私も急いで立ち上がる。再び視界に入った赤羽の顔には見覚えがあった。……あのスポーツテストの日に見た、力みのない凛とした顔。
「行ってくるね」
「行ってらっしゃい」
私も何かお守りを作ったりとかハグとかすればよかったかなと、スロープを下って離れていく赤羽の背中を見ながら思った。




