その8
「育実と小蒔にも、陸上をやってほしいなあ」
父の口癖だった。
育実は私の4つ上の姉だ。真面目で頼りがいがあって責任感が強くて、よく学級委員とかクラブのキャプテンを任されていた。
「育実も小蒔も、きっといい選手になれるわ」
母も後押しをする。
そうして幼い姉妹は、陸上競技という優しくて暖かい呪いにかかった。
俊足姉妹として小学校で有名になったころ、両親は口を揃えて言った。
「もっと、いけるんじゃない?」
もっと速く。もっと上位へ。
いつしか応援は期待に変わり、祝福と同時に落胆されることも増えた。
「なんでいいタイムが出せなかった?」「練習不足じゃないかしら」「集中力がない」「もうちょっと行けたんじゃない?」
特に優秀な姉には、ひとりの女の子にはとても背負えない重圧がかかった。インターハイで全国大会を逃した高2の夏、姉は壊れてしまった。私はその時中学1年で、部内では「姉の再来」ともてはやされていた。
抜け殻になった姉は高校卒業と同時に家を出て、音信不通になった。
両親は妹の私まで壊れないよう、今更気を使って過度な激励はしなくなった。
だけど、子どもというのは敏感で、言葉にしていない期待と欲望が私を押しつぶす。
『陸上から逃げだしたら、姉と同じ、弱くて価値のない人間になる。私は陸上競技をするために生まれてきたのだ』
―――
私はケイを好きになり、ケイは陸上を『こんなしんどいこと』と言った。
頭の中がパニックになり、感情に任せてケイにキスをした。
そして、彼女は私を受け入れた。
「ケイ、練習行くよ」
部室には制服から練習着に着替えを終えた私とケイしかいない。
「ん」
ケイは目を閉じて、次に私がすることを待っている。
ケイの身長に合わせるため、背中を丸め、顔をほんの少し右に傾ける。
そして口づけをする。
「……」
「…………好きだよ、ケイ」
「はいはい」
ケイは照れ笑いを浮かべながら、右手で私の頭を撫でる。
彼女との触れ合いが、ちっぽけな私を救ってくれる。
「いこっか」
何のために生きているの?とか、何をやりたいの?とか、難しいことは今は置いておこう。今はただ、隣にいる君のために走るよ。
第2章本編終了です。