その2
きっちりタイムが出て、はっきりと順位が出る陸上競技しかやってこなかった私は、曖昧で目には見えない人付き合いというのは疎かにしていた。友達と遊ぶにしても、練習があるとかないとか、試合が近いとか遠いとかで判断して、常に、私の力ではどうにもできない「陸上競技」というフィルター越しで世界を見ていた。
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「赤羽、お待たせ」
自転車に乗ったケイが、先に校門から出ていた私に追いつく。タイムリミットだ。結局、私はケイが来るのを待つ間、自分の不器用さを悔いることしか出来なかった。
「どこか行きたいところ、あるの?」
ケイが尋ねてくる。私がケイを誘ったのだから、当然の質問だ。しかし、早くもふたつの問題点がある。ひとつは、そもそも行きたい場所なんてないこと。もうひとつは、高校の周りの土地を全く知らないこと。適当な場所を目的地にすることができない。
高校は斜面の中腹に建てられており、北向きの坂道を上がっていくと、私を含め多くの生徒が利用する私鉄の駅がある。
「えーっと、その、この辺ってあんまり知らないから、ケイに案内してほしいかなーって」
電車通学の私に対し、ケイは高校では少数派の自転車通学。都市部にある高校の近くに住んでいる人たちは、「地元民」と呼ばれることもある。
「特に行く宛てもないのに呼び出したんだ」
「うぅ」
さっきの部室で見たケイの不思議そうな顔が、再び映る。
「まあ、いいや。どっちに行く?」
私は今までも何度か無計画にケイを振り回してきた。いきなり部活の見学に誘ったり、いきなり呼び捨てにしたり、いきなり教室で抱き着いたり……
だけど私を責めたり、私に呆れたりすることはなかった。受け入れて、私を救ってくれた。そして今回も私のわがままに付き合わせてしまう。
「私のわがままで呼び出したんだから、ケイの家の方に行こう」
自己嫌悪と罪悪感に押しつぶされながらトボトボと歩き出す。途中で「自転車、私が押すよ」と提案すると、「んーん、大丈夫」と首を横に振って断られた。さらに惨めな気持ちになる。
―――
春から夏へと変わるこの時期特有の、生暖かい夜風が吹く。
歩いている間は、好きな食べ物とか好きな動物とか、非常に他愛もない話をした。しかし、私は辺りをキョロキョロと見回して、意識をケイに向けることができない。
ちょうど、下町の住宅街の中にある児童公園を見つけて、入り口で立ち止まる。もう子供たちは家に帰ったのだろうか、しんと静まり返っている。
ふらふらと吸い込まれるように、公園の中にある横長のベンチに座った。ポケ―っと沈んでゆく夕日を眺めていると、やがて自転車を止めたケイが私の右隣に腰を下ろす。すぐそばに存在を感じて嫌な緊張が走る。ゴールも走るレーンも見えない、真っ暗闇の焦燥。
「ねえ赤羽」
「なっなに!?」
気まずい静寂の中、ケイが先に口を開いてくれた。
「今日の赤羽、練習してる時も、もにょ……コホン」
も……?何か言いかけて咳払い。
「練習してる時も、何か考え事してて、らしくないよ」
やっぱり、いつもの自分ではないと気づかれていた。
練習を終えるまでの自分は、「らしくなさ」の原因が分からなかった。
だけど、今はもう知っている。
「……ケイにお願いしたいことがあって」
「私に?」
頭の中で、次に何て言おうかを考える。
『この前、ケイのスパイクを買いに行った日。あの後私の家に行って、私の頭を撫ででくれたじゃない?それがね、凄く嬉しくて、心地よくて。もう1回ケイに頭を撫でてほしいの。ねぇ、頼んでいい?』
よしこれで行こう。不器用なりに思考をまとめることができた。あとは声に出して伝えるだけ……
……しかし現実の私は、先の見えない世界の恐怖で口を開くことができない。
黙ったまま、体の重心が右に傾く。倒れていく先には、私にとってかけがえのない彼女の、ほっそりとした肩がある。口下手な私は、とうとう何も言わずケイの肩に頭からもたれかかる。
「……」
自分の頭はこんなにも重かっただろうか。一度彼女の肩に頭が乗ると、もう動かせない。
ケイは黙って、私の次の言葉を待っている。
「撫でて、ほしい」
朦朧と、本能のままに、ほんの一言だけ発する。考える余裕はもうない。
目を閉じてすんと鼻から息を吸うと、甘い香りがした。
程なくして、私の髪に、ケイの指が触れる。
頭を撫でて伝わってくる手の温度が、緊張と疲れと、フィルターを融かしていく。
この温もりを知ってしまうと、もう元の、陸上という建前に守られていた世界には戻れない。
目に見えない人と人との想いの繋がりで成り立っている世界に踏み出す。
生まれて初めて、誰かを「特別」だと思う。
……私はケイのことが、好きだ。