9 クレイとの約束
「……ねぇ、セラク。何度も何度も、しつこいのは自分でも分かっているんだけど……私をここに降ろしていってくれないかしら」
エリティアたちとの距離が、自分の声が届かない間合いまで空いたことを確認したクレイは、おずおずと切り出した。
「またか。今度はなんでだ? 俺の心配をしているなら杞憂だぞ。これでも一応勇者なんだから、お前を抱えた状態でもあんな奴には負けない」
「違うの。別にセラクの安否は気にしてないわ」
「……少しはしろよ」
「セラクはあんな奴には負けないだろうから心配してないの。はい、これでいいでしょ。理由を単刀直入に言うけど、私はあいつに会いたくないのよ」
あいつ……?
「お前、あのオークと知り合いなのか?」
「ええ、顔見知りよ」
「ということはもしかして、この魔物たちは捕まったお前を助けに?」
「それだけは絶対に――ないわ」
クレイは断言した。
少しの間もなく、即座に答えた。
「私はあいつが嫌いだし、あいつも多分、私のことを良くは思っていない。だから一つ約束してほしいの。次に私が、セラクに『降ろして』と頼んだ時、言うことを聞いてくれないというのであれば、今この場で駄々をこねて暴れるわ。そして、もしこの条件を飲んで私を連れていく場合、あいつの視界に私が入る前に倒すこと」
「…………」
次は絶対に――降ろす。
意図がよく分からないうえに、交渉とは呼べないような、半ば飲まざるを得ない条件を提示されているが、なにより――
「約束、二つ言ってるんだけど」
「……細かいわね。いいわ、訂正するわよ。私と二つ約束してほしいの」
「一つ質問がある。クレイの言う『次』っていうのは、俺がこの約束を承諾した瞬間じゃないよな? 約束を交わした直後に『降ろして』と言って、結果的にここに残るとんち――みたいなことだったりしないか?」
「違うから安心して。少なくとも、この約束をしてから5分間は口にしないわ」
「みじか……」
「で、どうするの? 早く決めないとあいつ、また暴れ出すわよ」
「……ああ」
クレイがどんな思惑を持ってこの約束を提案したのかは謎だが、王都で彼女を放置しないと決めた以上、選択肢は条件を飲む他にない。
エリティアに預けるという手もあったけど、二人はまだ顔を合わせたばかりだったうえに、もし仮に紹介を済ませていたとしても、多くの人間と共にいることを、クレイは嫌うだろう。
もちろん、クレイは俺といるのは嫌じゃない――とか、そんな風に驕るつもりはない。
身体の自由が利かないうえに、土地勘のない王都では、俺といるのが一番マシなだけ。
ただそれだけだ。
――しかし。
「やっぱり理由が気になる、どうしてこんな約束を取り付けようとするんだ?」
「秘密」
「…………」
さっき俺がエリティアに言った言葉を、そっくりそのまま返された。
思わず「教えてくれたっていいじゃないか」と言いそうになってしまった。
「誰だって人に言いたくない秘密の一つや二つはあるものでしょ? さあ、どうするの? 別に、ここに置き去りにしたっていいのよ?」
「……分かった。いや、まあ、それがどんな事情からくる要求なのかは分からないけど、とにかく、鎖に縛られて歩きにくくてもいいんだったら、いつでも降ろしてやるよ」
「ありがとうセラク。交渉成立ね。それじゃあ行きましょうか――勇者様」
「わざとらしく機嫌を取ろうとするな、別に怒ってない。どうせトイレにでも行きたいんだろ?」
「もう、勇者様ったら最低。そんなことばかり言ってると嫌いになるわよ?」
「いやぁ、それは困るなぁ。ハハハ」
なんだこれ……。
清々しい程に建前だけの会話だった。
「……さて、馬鹿げた会話は終わりにして、行くとするか」
「そうね。私も静かにしてるから、あんな奴パパッと戦闘不能にしちゃって。なんなら殺してもいいわ」
「いや、色々聞きたいことがあるから殺しはしないけど――まあ、一瞬で終わらせる方は肯定しておく」
そう言って俺は静かに駆け出し、別の方向を見ている大柄なオークの左方向から距離を詰めていく。
走る音は戦場の騒音でかき消されているので容易に接近できる。攻撃が届く射程内に入った――このままオークの意識の外から、急所である頭部を狙った一撃を決めたい。
しかし、体長が3メートルはある魔物の頭を狙うとなると、かなりの跳躍が必要になってくる。
俺は足に魔力を込め跳んだ。そして、オークの側頭部目掛けて左脚を振りぬく。
「ぐおおっ……!」
脚に伝わる鈍い感触。それから一瞬遅れてオークが唸り声をあげる。
勝負あったな。頭に強い衝撃を受けて体勢を保てる生物なんていな――
「くそ、いてぇな!」
「……ッ!」
敵を目で確認するよりも先に、自分が攻撃を受けた方向へと、反射的に、力任せに、その大きな腕を振り回すオーク。
俺はそれを躱してさらにもう一撃、今度は背後から頭を殴打した。
十分な威力の打撃だ。流石に2発喰らえばもう――
「……ちょこまかと小賢しいのはてめぇか」
ゆっくりとこちらへ振り返って、俺を見下ろすオーク。
随分と丈夫だな。姿も見られてしまったが、ここで倒せばノーカンだ。
オークは思いっきり腕を振り上げ、地面に叩きつけるように振り下ろした。
破壊力は抜群らしいが、その攻撃速度は回避が間に合う。
俺は隙のできたオークの懐に潜りこみ、左手で全体重を乗せた掌底を放つ。
今度のもまともに入った――が。
「いてぇな……まあ、少しは戦えそうな奴が出てきたじゃねぇか」
……嘘だろ。頑丈なんてもんじゃないぞ。
俺は一旦、飛び退いて距離を取った。
せめてもの抵抗として、オークに対して身体を多少斜めに身構え、クレイを少しでも隠す。
「……一瞬で終わらせるんじゃなかったの?」
ジー……と責めるような視線でこちらを睨んでくるクレイ。
「いや、普通の魔物なら既に3回は気絶しているはずなんだが……」
「言い訳?」
「ああ」
「……言い訳はするのに、変なところで潔いわね」