第一面 : ツンデレ 後編
ちょっと長くなってしまいました。
『ぼんやりしてると置いて行っちゃうんだからね!』
刺々しい比名子の声が脳裏にこだます。
なんだか夢を見ているようだった。
昨晩はあれほど素直で大人しそうだった彼女が、なぜ今日はあのような罵声を私に浴びせかけてくるのだろうか。
寝ている間になにか嫌なことでもあったのだろうか? 私の鼾がうるさすぎたか? 家が狭かった?
わからない。
しかし彼女は高校一年生の年頃の少女だ。思春期の女性は多様で起伏のある心情表現をするものなのだ。
つまり考えられることは一つ。
「寝ている間に思春期に突入したのか」
なるほどそうか。
少し考えればわかることだった。
そんなわけなので、私は着替えてリビングまで降りた。
キッチンの方では私が通う高校の制服を着た比名子が私に背を向けて、なにやら料理をしている。
そうか、そういえば私と同じ『遠凪高校』に通うのだった。私は二年生だから、彼女より一つ上ということになる。
「ちょっとあんた、歯は磨いたの? 顔は洗った? ぼさっとした顔で外出るんじゃないわよ」
私に気づいてそう言った比名子は、やはり不機嫌そうだ。
そういえば、髪型が昨日と違う。今日の髪型は昨日のそれより活発そうだ。
「その髪もいいな。制服も似合っている」
「なっ!? べ、べつにあんたに見てほしいからじゃないんだからね!」
「そうか」
私がなにか言うたびに不機嫌になるようなので、ここは彼女に配慮して洗面所に行くことにした。
顔を洗って出直してみれば、すでに朝食の準備はできていた。
「さっさと食べなさい。遅刻するわよ」
食卓の上を見れば、そこではイナゴの佃煮が皿の上に山盛りになっている。
「勘違いしないでちょうだい。別にあんたが好きそうだからイナゴの佃煮にしたんじゃないんだからね!」
「…………」
「なによ、文句でもあんの?」
私はちらりとリビングの机の上を見た。
『楽しい昆虫食入門 ~実はクモ類もイケる~』
「……いただきます」
箸でつまみ上げればそれはまごうことなくイナゴだ。目が合う。
インパクトある見た目とは裏腹なその香ばしい匂いにつられて、私はそれを口に運んだ。
咀嚼する。
「うまい」
醤油と砂糖と水飴のバランスが最高だ。イナゴの食感も損なわれておらず、これならいくらでも白米が食べられそうだった。
「当然ね」
比名子も得意げにイナゴを口にする。
「……エビね」
「エビだな」
エビだった。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「へえ、そんなことあったんだ」
さて、時間は少し飛んで昼休み、私は二年C組の窓際の席に座って昼食の準備をしていた。
「いっつもコンビニご飯なのに今日はお弁当なんだもん」
私の前の席に座る女生徒が逆向きに椅子に座って私と会話している。
ショートカットに日に焼けた肌が似合うボーイッシュな彼女は、『野々宮小唄』だ。
私の数少ない友人であり、かれこれ10年以上の付き合いになる幼馴染でもある。
「どう、かわいい?」
いたずらっぽい表情でそう尋ねてくる小唄。
「?」
「妹ちゃんのこと」
「すごい美人だ」
「ボクより?」
「うん」
「……即答って、キミねぇ」
ボクだってオンナノコなんだよ?
と不満げに小唄はコンビニで買ったサンドイッチの包装を破った。
「ただ、様子が変だ」
「どゆこと?」
私は昨晩から今日にかけての彼女の様子を小唄に伝えた。
「もしかしたら、昨日寝ている間に思春期に突入したのかもしれない」
「そんなわけあるか」
ばっさりと否定された。
「キミ、相当ヒドイ対応したんじゃないの」
「……」
思い返してみても特にこれといった粗相をしたつもりはない。愛想もよかったはずだ。
「ただでさえ『不動明王』なんだから」
「…………」
それは私の仇名だった。苗字の『不動沢』とかけているのだろうが、その理由はよくわからない。
「ちゃんと笑顔で迎え入れた?」
「無論だ」
「ちょっと笑ってみてよ」
笑った。
「ひィッ……!」
小唄の表情が恐怖に染まって、それから手に持ったサンドイッチを私の顔面に押し付けて来た。
「キミは二度と笑うな」
「…………」
腑に落ちない点もあるが、腹も減っていたので私は自分の弁当箱を開いた。
蛹の天ぷらがぎゅうぎゅうに詰められていた。
「うわっ……なにソレ……」
「蛹の天ぷらだ」
「妹に何作らせてんの……」
心底軽蔑しきった表情で小唄が私を見てくるので、私はこの弁当が作られた背景を彼女に語った。
「いや何読んでんの……」
特に表情に変化はなかった。
「でもそれはもしかしたら『ツンデレ』ってやつかもしれないね」
サンドイッチをかじりながら、小唄は小首をかしげてそう言った。耳慣れない言葉だ。
「『ツンデレ』?」
「う~ん。属性の一つって言うべきなのかな。表面上はツンツンとした態度を取るんだけど、本心だとデレデレっていう」
「ツンツン? デレデレ?」
またもよく分からない。小唄は物知りだった。
「とにかく、見た目ほどキミのことを嫌ってはいないってこと」
「そういうものなのか」
「そういうものなの」
私は蛹を口に放り込んだ。
からりと揚がった表面は楽しい歯ごたえで、そのあとで中からとろりと溢れ出てくる何らかの液体はほんのりと甘くて大変美味である。
「うまい」
「おえぇぇ……」
次々と天ぷらを頬張る私を青い顔で見やりながらも、小唄は少し神妙な顔つきになった。
「でも、應之介。キミの言う通り彼女が親戚の間で辛い目に合ったんだとしたら、一概に『彼女が変』なだけとは言えないかもよ」
「…………」
そうかもしれない。
私はまた一つ、蛹の天ぷらを口に放り込んだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『解離性同一性障害』をご存じだろうか。
より広く人口に膾炙した呼び名があるとすれば、それは『多重人格』というものだろう。
幼いころになんらかのショックを受けて、その苦痛から逃れるために人格が分かれてしまうという、ある種の逃避行動に近いこの症状はかなり治療が難しい。本人だけでなく周囲の助力が不可欠である。それにそもそも、完全に治療できるようなものでもない。
もし比名子豹変の原因がこの障害のせいだとすれば、私はどうするべきなのだろうか。
私だって高校生の一人暮らしだ。決して楽な生活だというわけではない。
彼女を放り出すべきか。
また誰か他の親戚に預けるべきなのだろうか。
まさか。
男一匹不動沢應之介。身寄りのない少女を鬼ばかりのこの世間に放り出すような教育は受けていない。
ここからが腕の魅せ所というわけだ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
夕方、下校時刻。校門の前で比名子は佇んでいた。
「比名子か」
「……? ! ば、バカ兄貴。遅いわよ」
うつむきがちにしていた彼女は、私を認識すると即座に寂しそうな表情を切り替えて、例の不機嫌そうな顔に戻った。
「待っていてくれたのか」
「かかか勘違いしてんじゃないわよ!」
ボコッと通学鞄で私を殴ると、彼女はスタスタと先に歩き始めた。
私も彼女に続く。
「学校はどうだった」
「別に、普通よ」
六月の夕方はまだ少し明るい。並んで歩いていると、横から差し込む夕日が私と比名子の影を一つに繋げていた。
「弁当、旨かった」
「そう」
「…………」
「………………」
比名子は私より小柄なので、その分歩幅も小さい。彼女に合わせて歩いていると、いつもよりゆっくりと帰り道の風景を眺めていられる。
「晩飯は俺が作ろう」
「あんた料理できるの?」
「できん」
「はあ?」
ずっと前を見ていた比名子が、私を見上げた。怪訝そうな表情だ。
「だから、手伝ってくれ」
「手伝うって、何作る気なのよ」
私は少し考えた。
「お前が好きなものを作る」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「オムライスを作るぞ」
「本当に大丈夫なんでしょうね……」
比名子は不安そうだ。
あれから二人で大型スーパーへ向かったのだが、判明したのは私の生活力の低さだけだった。比名子は次々に食材を手に入れていき、私はただカゴを持って立っているだけだった。
「別にいいのに……」
「だめだ。絶対オムライスにする」
「なんでそんなに頑固なのよ」
さっそく卵を溶こうと思って卵を手にした私だが、しかし割り方がよく分からない。
「あんた卵も割れないの!?」
「うん」
「『うん』じゃないわよ……そのボウルの角とかで軽く叩いて割るのよ」
「なるほど」
ボウルに卵を叩きつけると、無残にも卵の殻は粉砕して中身がこぼれ出た。
「はあ……ちょっと見てなさい」
比名子は卵を手に取ると、鮮やかに片手でそれを割ってボウルに入れて見せた。
「すごい」
「こんなの初歩中の初歩よ……まったく、いままでどうやって生きてきたのかしら」
それからも私の人生初のオムライス作りは困難を極めた。
包丁の握り方で比名子の肝を冷やし、米のとぎ方で呆れられ、そして卵を焦がして頭を抱えられた。
結局オムライスが完成したのは、料理を始めて一時間以上も経ってからだった。
「不味い」
「真顔で身も蓋もないこと言ってんじゃないわよ」
スプーンで酷い見た目のオムライス(?)を一口頬張ると、私は素直な感想を口から出した。
「でも、初めてにしては上出来よ」
「比名子が手伝ってくれたからだ」
そんなオムライス(?)だが、比名子は厭な顔一つせずに食べてくれていた。ほとんど手伝ってくれたとはいえ、自分が作った食事を誰かが食べてくれるのはうれしいものだった。
「…………」
「………………」
無言で皿とスプーンがぶつかる音や咀嚼音が響く中、私たちは無言だった。
やがて不味いオムライス(?)が半分以上空いたとき、ぽつりと比名子が言葉を発した。
「やさしいのね」
食事の手を止め、スプーンで料理をつつきながら、私の顔を見ずに比名子は言葉を続ける。
「気づいてないわけないでしょ。私の『変化』」
「……」
「普通は気持ち悪がって話しかけても来ないのよ。でも、あんたは違った」
「気持ち悪くないからだ」
「普通じゃないのよ、あんたは」
「……」
言葉はやはり刺々しいが、ちらりとこちらをみた比名子の目は優しいものだった。
「『あの子』には会った?」
『あの子』というのは、きっと昨晩の比名子のことなのだろう。
「会った」
「『あの子』はね、小さいころに両親を航空機事故で失って以来、いろんな親戚の間をたらい回しになっていたの」
「それは聞いた」
「ひどい目に遭ったわ。ほんと、気軽に口に出来ないようなね」
「…………」
「私は、『あの子』を守るために生まれた人格の一人。沢山ある人格のうち、リーダー格の人格よ」
「やはり多重人格なのか」
「ええ、そう。おかしいかしら」
「いるところにはいるだろう」
私はそう応えて、オムライスを口に運んだ。やはり美味しくはない。
「お前には『彼女』ときの記憶があるのか」
「もちろん。リーダー格ですもの。あらゆる人格の記憶を共有しているわ。『あの子』は『あの子』の記憶しか持ってないけどね」
「なるほど」
比名子もオムライスを頬張る。
「『彼女』は不安なのか。この家に対して」
「いいえ。とても満足しているわ」
「ではなぜ――」
「信用できると思う?」
一際険のある声で、比名子はそう言った。
「小さなころから十何年も傷つけられて、裏切られて、人格が分離するほど痛めつけられて。そんな人間がすぐに人を信用できると思う?」
「それは――」
「できないわよ!」
ガタンッと比名子は立ち上がった、スプーンが床に落ちる。
「あんたが暴力を振るわない保証も、急に家から追い出す保証もないわ。だから『あの子』を守るために私があんたの本性を確かめるの!」
「落ち着いてくれ」
「悪人なんじゃないかって、屑なんじゃないかって、必死で伺って、媚びを売って……!」
「落ち着くんだ」
私も立ち上がって、そっと彼女の肩に触れようとした。
「触らないで!!」
私の手を勢いよく払うと、比名子はその勢いのまま顔を上げた。私と目が合う。
「あ……」
「お願いだ。落ち着いてくれ。どうしていいかわからなくなる」
真っ赤に腫れた彼女の目が私を捕らえて、それから気まずそうに顔をそらした。
「ご、ごめんなさい……私……」
「俺もずっと独りだったから、どうしていいのかわからない。昨日なにか失敗をしたから、お前が怒っているんだと思って、ずっと不安だった」
彼女に振り払われた手をどうしたらいいのか分からなくて、私はそっと握ったり開いたりした。
「…………」
「………………」
「と、とりあえず、座ろうかしら」
「そうしよう」
食卓に着くと、彼女はもうだいぶ落ち着いてきたようだった。
「分かってるわ。あんたが今まで出会ってきた人間とは違うってこと。一目で分かったし、今日一日一緒に過ごして確信した。悪意なんて持ち合わせていない人間なんだって」
「信用してくれるのか」
「『私』はね。そうでなくちゃ多重人格のことなんて言わないわよ」
「なるほど」
確かに。
「でもね、『あの子』に植え付けられてる恐怖心はあんたの想像以上に根深いものよ。一朝一夕で取り払えるものではないわ」
スプーンを拾ってティッシュで拭きながら、比名子は真剣な眼差しでそう言った。
「『あの子』を守るために生まれた人格が、これから次々に現れてあんたを試すかもしれない。その覚悟はあるかしら」
「お前が説得するわけにはいかないのか」
「……ちょっと癖が強い『子』が多いから……」
遠い目で比名子が呟いた。
「お前も大変だな」
「えぇ……」
少し沈黙が流れて、それから私は改めて比名子の目を見据えて、一つ一つ選びながら言葉を紡いだ。
「どんなお前も、俺の義妹だ。必ず納得させて、彼女が『彼女』のままでいられるようにする約束をしよう」
比名子はその美しい瞳から涙を一粒流すと、やがて微笑んだ。
「その意気よ、バカ兄貴」
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
二人で食器を片付けて、それから少し話をして、珍しくテレビを見たりして、そんな風に比名子との二日目は終わった。
私はベッドの上で感慨にふけっていた。
今日はいい日だった。比名子の打ち明けた秘密は、きっと彼女にとって大切なことだ。少しずつ信頼を得て、彼女との日々を楽しんでいけたら、それは幸せなことなのだろう。
私は眠りについた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「ぉーーーーーい!!!!!! 兄貴!!!!!!!!!!!!!!!!」
ズドォォォオオオオオオオン!!!
自室の扉を蹴破って、弾丸のように何者かが私の体の上に飛び乗って来た。
肺がつぶれて息が出来ない。
目を開けばポニーテールの比名子が俺の胸の上に立っている。
「起きろ起きろ起きろ起きろ起きろ!!! 朝だぞ! 太陽だ!!!!」
ちらりと時計を見ればまだ五時だ。
「起きない兄貴はこうしちゃうぜ! えい!」
気が付けばコブラツイストが完璧に極まっており、私は状況を把握できず目を白黒させた。
ぎりぎりと肩が悲鳴を上げるのを聞きながら、私は一言つぶやいた。
「厳しい」