第一面 : ツンデレ 前編
なんということはない六月中旬の夜だった。私は一人、リビングで『楽しい昆虫食入門 ~実はクモ類もイケる~』を読んでいた。時代はやはり昆虫食なのかもしれない。
なにも前衛的な行為ではない。イナゴの佃煮などは古来より日本人にも親しまれてきた。「米を喰ってしまう悪い虫は、食べちゃえ!」という、先人の逞しい発想には脱帽を禁じ得ない。
やはり蛹は天ぷらがいいか
外はカリカリ、中はトロトロで揚げ物に最適だそうだ。
ピンポーン……
まだ見ぬ珍味に思いをはせていると、玄関の方からチャイムの音がした。
何かを通販で買ったりしたつもりもないのでこのような時間に訪問者がいるとは思えないのだが、しかし居留守を決め込むわけにもいかず、私はソファから立ち上がった。
ガチャリと扉を開けると、予想していたのとはかけ離れた人物が佇んでいた。
「こ、こんにちは」
少女だ。少女がスーツケースを携えて玄関先に立っている。
少しも癖のない綺麗な黒い髪を白いリボンでまとめてサイドダウンにしている。
儚げなその瞳、すらりと通った鼻梁、秋桜の花弁のような唇、そのすべてが黄金比率で収まった小さな顔。
まごうことなく美少女だ。
問題があるとすれば面識がないということだった。
「こんにちは」
対応に困ってそう返すと、私と少女はそのまま黙り込んだ。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「………………」
「……………………」
「……あ、あの……」
沈黙に耐えかねたのか、少女が困ったように声を上げた。上目遣いで我が家の表札と私の顔を見比べて目をそらしたりしている。
「その……不動沢さんのお宅ですよね?」
「そうだ」
「…………」
「……………………」
「え、えっと……」
少女はますますうつむきがちに視線を彷徨わせた。
「私の顔、なにか変ですか……? 先ほどからずっと睨んでいますけど……」
「いや美人だ」
「!? へっ!? び、美人!?」
瞬時に赤くなる少女。そんな姿もまた小動物のようで可憐であった。
しかし大声で驚いていたのでご近所様からの視線が不安である。あまり噂にはなりたくはない。
「どなたですか」
端的に聞くと、少女はおろおろとしたままなんとか言語らしきものを発するのだった。
「わわわわわ私はっ! 今日から不動沢家にひひひ引き取っていただくことになった比名子とももももももももうしまままっまま!」
「なるほど」
わからなかった。
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「ずずずずずず……」
ソファでお茶を啜る例の少女を横目に見ながら、私は電話を手にしていた。
緊急連絡先の番号を思い出しながらダイアルする。
コール一回で相手は出た。
『誰だ(けたたましい銃声)』
「俺だ、應之介だ」
『どうした。パパは今忙しい(爆発音と悲鳴)』
「比名子という女が家に来ている」
『誰だそれは(耳にしたことがない言語の怒号)』
「わからない」
『いや、まて、分かった。確かお前の曾祖母の妹の娘の旦那の従姉の孫娘だったはずだ。親がくたばったからうちで引き取ることになっている(肉がはじける音)』
「なるほど」
『お前の義妹だ(砲撃音)』
「なるほど」
『仲良くしろ(なにかの栓を抜く音)』
「なるほど」
『じゃあな(再び爆発音)』
電話が切れた。
ソファの方を見ると、両手でマグカップを持った比名子がこちらをうかがうように視線を流していた。
「その、今のは……」
「父だ」
「沙汰彦さんですか?」
「そうだ」
「では、貴方は……」
「息子の應之介だ」
比名子は少し戸惑ったように、また視線を彷徨わせた。なにかを言おうと迷っているようだ。
そのまま何度か口を開いたり閉じたりしていると、ようやく消え入りそうな声で、
「……お、お兄ちゃん」
と言った。
「…………」
「そ、そそそそそそそそそそそそそそうですよね! 急に馴れ馴れしすぎましたよね! ごめんなさいごめんなさい!」
「『比名子』でいいか」
「へ?」
「呼び方」
「え、あ、はい……」
比名子は頷いた。よし、これで一歩前進だろう。
仲良くできている。
私は満足して、比名子に背を向けるように自分のマグカップにもお茶を注いだ。
比名子は黙っているようだった。さきほどインターホンが鳴って以来、ようやくこの家にも平穏がもどったような気がする。少しの間、ちょろちょろとお茶の注がれる音だけがリビングに響く。
「沙汰彦さん、帰ってこないんですか?」
「海外で仕事をしている」
「そうですか…………あの、お母様は?」
「俺が物心つく前に死んだ」
息を呑む音が背後で聞こえた。
「それは……その、ごめんなさい……」
「気にしなくていい」
再び、室内は沈黙に包まれた。
私はマグカップを持って比名子が座っているソファに向かい、彼女から離れた場所に腰かけた。
「迷惑、でしたか?」
急に神妙な声になって比名子がそう言うので、私はカップに口を付けたまま顔を彼女の方に向けた。彼女はうつむいて、膝の上へ置いたカップの中を覗くようにしていた。
「なにがだ」
「私、両親が航空機事故でいなくなって、それから親戚をたらい回しにされたんです」
ぽつぽつと、彼女は下を向いたまま語った。カップを握る両手の親指が、落ち着きなく動いている。
「もちろん子供を一人育てるのにかかる費用は、とても安請負できるようなものではないということは知っています。私はまだ高校一年生で、働きに出るにもまだ時間がかかりますから……それに、今まで培った家族の関係の中にいきなり異物がまぎれこむのですから、嫌がられて当然です。だから、不動沢さんにもきっと迷惑だと思って」
「自分をコストだとか異物だとか、言わない方がいい」
私は彼女の言葉を遮った。
「『誰かの子供であるうちは図々しく生きろ』と父はよく言っていた。『子供を図々しく育てるのが親の仕事だ』とも言っていた。気がする」
しばらく会っていないので記憶があやふやだが、父が私をコスト扱いしたことは絶対になかった。
「お前も俺の父の娘だから、図々しく生きるべきだ」
「應之介さん……」
「お兄ちゃんだ」
濡れた子犬のような潤んだ瞳でこちらを見上げる比名子を、私は黙って見つめていた。
「…………やっぱり怒ってます?」
「?」
「そういうお顔なんですね……」
そっと目元を拭うと、比名子は健気にも私に微笑みかけた。
「これからよろしくお願いしますね、お兄ちゃん」
「そうだな」
とりあえず夜も遅かったので、比名子には一通り家のことを伝え、使っていない部屋に案内したのち、今日はもう休むことにした。
こうして、私と義妹との共同生活がはじまるのであった。
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翌朝。
聞きなれない音がして私は目を覚ました。それになんだかいい香りがする。
そうか。
そういえば昨日、私には義妹が出来たのだった。
だとすればこの香りは朝食か。昨日の晩にやって来た彼女に朝食の準備をさせるのは酷だろう。私も手伝わなくては。
のそりと起きようとしてみれば、なにやらどたどたと部屋の扉の前が騒がしい。
「さっさと起きなさい! バカ兄貴!」
ドカン! と扉が開かれてみれば、ツーサイドアップに髪をまとめた比名子がエプロン姿で仁王立ちしていた。
いや、少し待ってほしい。
『バカ兄貴』?
「なにぼけーっとしてんのよ! はやく顔洗って降りてきなさい!」
昨晩の落ち着いた様子はどこへやら、腰を手にあてて不機嫌そうに私を見下ろす彼女はまるで別人だ。
しかし間違いなく比名子でもある。
「ぼんやりしてると置いていっちゃうんだからね!」
バタン! と扉が閉じられて、私は部屋に残された。
「なるほど」
わからなかった。