【終戦記念日】平和教育で否が応でも子供にケロイド画像を見せるやり方に疑問を感じる
今日8月15日は日本にとって無くてはならない記念日【終戦記念日】である。北朝鮮との緊張状態が長く続いているこの頃だが、今回は小学生の「平和教育」について、自身の経験も踏まえながら振り返ってみたい。
「戦争は二度と起こしてはならない惨劇」
これは何度も言われてきた言葉である。特に学校の教師は熱心に"それ"を我々に伝えてきた。夏になれば広島へ修学旅行をし、平和の尊さについて学んだ記憶があるだろう。
しかし私はこの「平和教育」のやり方があまりに乱暴すぎないか?と感じている。大概は子供たちにケロイドの写真や、再現ドラマを見せることで「戦争の恐ろしさ」を伝えている。確かにケロイド写真はインパクトが強い。これはコラ画像でも特撮でもない、紛れも無い「本物」の出来事である。百聞は一見にしかずという有名な諺がある。視覚情報は記憶に残りやすいので、写真をつかって教育すれば効率的であるのは確かである。だが子供にグロ画像(あえてこう書く)を見せるのはあまりにも配慮に欠けているのではないだろうか。
『夏服の少女たち』という、被爆者の証言をもとにつくられたノンフィクションアニメを小学6年生の頃に授業で見た記憶がある。何気ない学校生活を送っていた三人の女の子たちが原爆によって亡くなるまでを再現したものだ。いくらアニメだとは言え、「顔がわからなくなるほどの火傷を負いました」「トマトを握りしめた途端、生き絶えました」という生々しすぎるナレーションも相まって非常に強いインパクトがあった。視聴後、私はあまりの衝撃に体調を崩した。
これはほんの一例に過ぎないが、本当にこんな教育の方法で良いと言えるのだろうか。メンタルが弱すぎると言われればそれまでだが、強制的にビデオを見せておいて、見る側にメンタルの強さ(それも小学生である)を求めるのはあまりにも横暴すぎるだろう。小学生はバカじゃない。わざわざ生々しいビデオを見せなくとも、「戦争はやっちゃいけない事」なんて分かり切った話である。
語り部の話を聞くだけでも小学生は理解出来るはずだ。わざわざビジュアルで半強制的に教育する意味が全く理解できない。
広島へ修学旅行に行った際、ほとんどの学校は「平和記念館」を見に行くだろう。そこはケロイドを再現した蝋人形が展示されている事で有名だった。平和教育で必ずと言っていいほど出てくるのが「ケロイド」だ。あれは被害が目に見えて分かる為、原爆の恐ろしさを知るにはもってこいなのだろう。この蝋人形もつい最近撤去されたらしい。悲しいという人間もちらほら存在する。その気持ちも分からなくはない。
だが蝋人形の撤去は私としては英断であると言いたい。厳しい言い方になるが、あれには子供に恐怖を与える以上の役割を果たしていなかったのだ。平和教育が単に「子供を怖がらせる」だけのものになっていた。蝋人形はその象徴とも言えるだろう。
他にも大久野島の毒ガス展みたいなのを見に行ったが、あれが自分にとって一番のトラウマだ。びらん性毒ガスの被害写真は未だに脳裏に焼き付いている。誤解を生まないように一応言っておくがケロイドや毒ガスの写真自体は確かに戦争の被害を知る上で貴重な資料になり得るだろう。問題は「それを子供たちに"半強制的に"見せる」ことだ。
子供の頃の記憶は鮮明に覚えているものである。その中に「原爆の被害写真」が否が応でもこびりつくのは、ある意味ではモラルハラスメントとも言える。「知る」ことは確かに重要だが、「トラウマを植え付ける」ことを「教育」と混同している人間が多すぎやしないか、というのが今回私の言いたかったことである。
p.s.わたしが平和教育で得たものはグロ耐性です。