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終章「その先へ」 五

 御前試合の会場として今回用意されたのは、王都外周にある演習場の内、最大の規模を持つ、観覧者二万人を収容する南第一演習場だ。

 今回の出場資格が竜の宝玉と聞いて、観戦を希望する申請が引きも切らなかった為で、会場整備には試合開始の前日から多くの人手を要した。

 今日の試合にも、近衛師団第一大隊から第三大隊まで、王城の守護隊を残してほぼ全てがこの場の警備と整理に当たっている。


「さすが、資格が竜の宝玉だけあって、今年は粒が揃ってるな」


 クライフは満員の観覧席から、今まさに剣戟の音の響く闘技場を見下ろした。といっても近衛師団将校である彼は、暢気に観戦を楽しんでいる訳ではない。


「昨日までの法術戦も素晴らしかったわよ。あれが一人でも師団に入ってくれるといいんだけど、法術院がもう囲い込んでたから」


 どうかしら、と余り期待は持っていない声だ。緋色の豊かな髪を背の半ば辺りまで流した二十代前半の女――近衛師団第一大隊少将フレイザーはクライフの隣に立ち、繰り広げられている試合にその翡翠色の視線を注いでいる。


 御前試合は六日間に渡って勝ち抜き形式で開催される。三日間を法術戦、残り三日間で剣や槍などの武具――いわゆる白兵による試合が行われた。今朝から、白兵部門の第一試合が始まったところだ。

 内外から試合を見ようと集まった観覧者達で、試合会場は立錐の余地もない。


 しかも通常は最後の一日だけ王の天覧があるのだが、今日は何故か、第一日目だというのに王が会場を訪れていた。

 振り仰げば、観覧席の中央の高みに王の玉座が見える。


「誰を観に来てるんだろうな。そんな前評判いいヤツいたか?」


 クライフの言葉に、フレイザーも玉座を仰ぐ。

 玉座には薄い日除け布が掛けられ周囲からの視線を遮っていたが、傍らには近衛師団総将アヴァロンが立ち、王が既にそこに座している事が伺えた。

 フレイザーは判らないと答える代わりに、軍服に包んだ細い肩を竦めてみせる。

 近衛師団将校とは言え、少将位で王に直接まみえる事など滅多には無い。王の考えを遜酌しようとしても、全く無理がある。


「じゃあ、私は持ち場へ回るわ。のめり込んで一緒に騒ぎ過ぎないようにね」


 艶然と笑って、フレイザーは観覧席の間の通路を歩いていく。クライフはその後ろ姿に非常に好意の籠もった瞳を向けた上で、闘技場に視線を戻した。


「おー、早え! 踏み込みがいいんだな」


 今試合をしているのは共に東方出身者同士だが、若い女の方が優位に進めている。自分の身の丈に合った細身の剣を上手く使いこなしていて、対する男の大刀よりも立ち回りが素早かった。


「フレイザーみてぇ。格好いいー! 男は無理にでかい獲物使い過ぎだ」


 警備をするはずがつい観戦に夢中になってしまうのが、クライフの悪い癖だ。昨日までの三日間も、クライフは目ぼしい出場者にしっかりしるしを付けていた。


 といってもそれはクライフばかりではない。少し目を向ければ、第二や第三大隊の将校や正規軍将校、地方都市の警備隊の紀章を胸元に着けた男達の姿まで見える。彼等は御前試合で目を付けた出場者を、自らの隊に加えるべく目を光らせているのだ。

 試合後に優秀な出場者にどっと駆け寄り、口説き合いになる事も良くある光景だ。


 試合は刃引きをした模擬刀などではなく、お互いが手に馴染んだ真剣で行われる。竜の宝玉を命懸けで手に入れてきても、試合で命を落とす危険性は少なからずあった。

 ただし、出場すれば必ず、いずれかの地位が約束される――それが人を命の危険を冒してまで御前試合に駆り立てる、最大の理由だった。


(あのガキがそろそろだなー)


 クライフは手元の進行表にちらりと視線を落とした。

 丁度正午に行われる第四試合の欄に、レオアリスの名前が記載されている。そこには北方出身、とその程度の情報しかない。

 相手は地方都市の警備隊で長い経験を積んでいる、マシュー・フォーゲルというそれなりに名のある男だ。


 クライフは先日のレオアリスの姿を思い起こした。

 怒りのせいできつく張り詰めた顔をしていたが、まだ迫力を感じるというよりも、綺麗に整った顔立ちと年齢相応の線の細さが余計に、クライフにしてもまだ御前試合には早いのではないかと、そんな印象を与えていた。

 ただ、あの宝玉と、朧気ながら正規軍から伝わってきたカトゥシュ森林での黒竜との戦いは、クライフに期待を抱かせるには充分だった。


 それから、あの中庭で、一瞬だけ彼の身を包んだ青白い光――


 見た瞬間に、寒気を感じた。

 面白そうだ。

 あの少年が一体何者なのか、カトゥシュの森でどんな関わりがあったのか。非常に興味があった。


(さて、どうやって黒竜と戦ったのか――お手並み拝見と行こう)



 



 レオアリスは時折大きくなる闘技場の歓声とどよめきを、与えられた狭い個室で聞いていた。

 それはあの北の故郷で聞いた、遠くで嵐に揺れる黒森の騒めきを思い出す。

 心臓は緊張に高鳴り、止む事が無かった。


 先ほどまではアナスタシアとアーシアがいて、彼等と話す事で緊張が紛れていたのだが、レオアリスの試合を上から観ると言って二人が戻った後は、抑えるものもなく鼓動が踊り続けている。

 少し前に偶然、試合を終えた出場者が血だらけの姿で運ばれてきたのを目にしてしまった事も、緊張に拍車を掛けていた。


(落ち着け)


 もう逃げも隠れもできないのだと、自分に言い聞かせる。

 自分の力を、試すしかない。

 身体の裡で剣が己が存在と発現を訴えるように、別の鼓動を刻む。

 早く出せと急かすようだ。


(落ち着け――)


 歓声が一際大きくなり――やがて扉が叩かれた。

 ぎくりと立ち上がったレオアリスの前で、何の感慨もなく扉が無造作に開かれ、近衛師団兵が顔を覗かせる。


「次だ。準備はできてるな」


 事務的にそう尋ねると、レオアリスに付いてくるように促して、近衛兵は細い廊下を先に立って歩き出した。

 一瞬動くのを嫌がった足を、無理矢理踏み出す。固い靴底がカツンと冷たい石を踏んだ。


 ゆっくり歩くからか薄暗いせいか、さほど長くはない廊下は、どこまで行っても抜け出せないのではないかと思えてくる。

 それとも、この廊下を出たくないという願望か。


 だが、確実に廊下の先にある出口の光は近付き――レオアリスは薄闇と光の境界を抜けた。


 



 途端に、場内の喧騒が全身を叩いた。

 光に白く隠れた視界が次第に形を取り戻し、レオアリスの瞳に場内の様子がはっきりと映り込む。


 広い闘技場を観覧席がぐるりとすり鉢状に取り囲み、そこにひしめく大勢の人々。注がれる数千、数万の眼。意識。

 歓声、喧騒――、突風にうねる森の樹々ような、音の洪水だ。


「――っ」


 すごい、という言葉は、レオアリスが自覚しない内に、一際大きくなった歓声に掻き消された。

 息を飲んで立ち尽くしているレオアリスの背中を、案内の近衛兵の声が押した。


「挑戦者両名、中央へ!」


(両名――)


 はっと目を上げて前方を見れば、反対側の入り口から、男が一人進み出るところだった。レオアリスの対戦相手だ。


「中央へ進め」


 動かないレオアリスに、少し苛立った声がかかる。


「――」


 ぐい、と唇を引き結び、両手を握り締め、漸く、レオアリスは闘技場を中央に向かって歩き出した。


 鼓動は弾けそうに早く、周囲はひとりでにぐるぐると回っているようだ。喉がからからに乾いている。


「おい、あれ――」

「嘘だろ」


 現れた若い――若すぎる挑戦者の姿に、場内は騒々と揺れた。

 闘技場の中央に向かう姿は、誰がどう見てもまだ十代も半ばだ。がっちりと鍛え上げた体格の対戦相手、フォーゲルに対して頭一つ分もの身長差と体格差があり、余りに頼りなく見えた。

 あんな子供の出場を認めたのかと、登録を取り仕切っていた第一大隊の判断を訝しむ声も多い。


 クライフは観覧席の批判をひと睨みしてから、首を巡らせて闘技場の中央に立つ少年の姿を眺めた。


「こうして見るとまじぃなぁ。ガキが大怪我でもしたら俺にも責任あるか……?」


 試合が危険な方向に向かった場合、いつでも止められる用意をしておいた方がいいかもしれない。

 クライフが観覧席の段を降りようとした時、更に場内が騒めいた。

 クライフが居る側とは反対の一角が騒ぎ出した為に、最初は何を騒いでいるのか判らなかった。次第に観戦者達の言葉が波のように広がってくる。


「武器は」


 ぎょっとしてクライフは観覧席の一番下まで駆け降り、欄に手を付いて身を乗り出した。

 誰かが指を指して叫ぶ。


「あのガキ、武器を持ってないぞ――!」


 目を凝らしたクライフにも、確かにそれが見て取れた。

 今、闘技場の中央――王の玉座の正面に立ったレオアリスは武器を全く持たず、鎧すら身に付けていない。


「おいおい……」


 思わず口元に引き攣った笑みを浮かべ、クライフは上官のグランスレイを探して観覧席内を見回した。グランスレイは玉座の近くに立っている。

 今度はそのグランスレイへと階段を駆け上がろうとしたクライフの背後で、審判の声が流れた。


「王の御前である、礼を」






 中央で足を止めた二人の前に、審判役の近衛兵が立ち、高みにある玉座を示す。

 レオアリスは太陽の眩しさに瞳を細めながら、玉座を見上げた。


「――王……」


 うねる騒めきと煩いほどの鼓動の中に、王という言葉は、それらを圧してレオアリスの耳に響いた。

 周囲の音が消える。

 それまでの激しい鼓動も、消えた。

 見上げた視線の先、薄い布に覆われた玉座に、王がいる。


 どくん。


 心臓が――剣が脈打った。

 促されるままに、その場に膝をつく。顔を伏せていても、王の存在がはっきりと感じられた。

 鳩尾が熱を増す。ゆっくり、全身に温かい血が巡るようだ。

 剣が、慶びを得て、脈打つ。

 レオアリス自身にさえ理由の知れない、震えるような畏敬と歓喜が、静かに、止め処なく、身体の裡から湧き上がってくる。


 審判の声がかかり、挑戦者二人が立ち上がる。歓声と困惑の声が、場内に渦を巻いている。






「まずいって……、いくら何でも無茶だ!」


 クライフは階段を駆け上がった。

 だが、見上げたグランスレイの、その後方で、王は頷いたようだった。

 アヴァロンが片手を上げる。


「マジかよ」


 口を開けたクライフの周囲で、どう、と歓声がうねり、試合が始まった事を告げた。クライフは片足を階段にかけたまま、どちらへ向かうべきかと迷って視線を彷徨わせた。


(無理だ、止まらねェ)


 フォーゲルが距離を置き、腰の剣を引き抜いた。レオアリスは立ったまま、フォーゲルに真っ直ぐ向き合っている。

 二人の距離は一間――、たった一歩踏み込めば、おそらくフォーゲルの剣の間合いだ。

 クライフは玉座を振り返ったが、日除け布の奥の様子は伺えなかった。

 遣り場無く辺りを見回したクライフの瞳が、玉座の近くに、見覚えのある少女の姿を捉えた。アナスタシアだ。


 驚いたのは、この状況に真っ青になっていてもおかしくないはずのアナスタシアが、傍らに座る少年とまるでただの観劇にでも来ているかのように、嬉しそうに笑っている事だ。レオアリスを心配する様子は全く見えない。


「――何なんだ……?」


 クライフは立ち尽くし、最早王が止めるまで終わらないだろう戦いを、茫然と見下ろした。


 




 簡単に決着がつくと、誰もがそう思っていた戦いは、次第に観覧席の声を奪っていた。


 フォーゲルの剣撃は鋭い。あれを間近で避けるのはクライフから見ても少し苦労しそうだと、そう思える。

 だが、フォーゲルの剣先は一向にレオアリスを捉えなかった。


「しっかりしろ! 武器も持ってない相手だぞ!」


 初めは武器を持たない少年への驚きに満ちていた観覧席も、次第に呆れや苛立ちすら含んだ声に変わっていた。


「相手がガキだからって遠慮するなよ!」

「手を抜くな!」

「武器も忘れるような相手で、気が抜けちまったのか?」

「お前の名は飾りかよ!」


 呆れた観客達の遠慮のない野次が、闘技場のフォーゲルの耳にも届く。フォーゲルは苛立って観覧席を素早く睨んだ。


「勝手な事言いやがって……」


 手を抜いてなどいない。相手が少年であろうと武器を持たなかろうと、それを選んだのはこの少年自身だ。フォーゲルが遠慮する理由は無い。

 御前試合はただ勝てばいいものではなく、自分の持っている力をこの場で示す事が重要なのだ。


 ただ、当たらない。


(ちくしょう……どうなってんだ)


 どれほど機会を狙って剣を振るっても、まるで影を斬ろうとしているように、剣はレオアリスの身体を掠めもしなかった。





 レオアリスは身を掠めて過ぎる切っ先を、冷静に見つめていた。

 剣筋は驚くほど見えた。

 剣が起す風の動きを肌に感じるような、微かで、はっきりとした切っ先の気配。それらが手に取るように感じられる。


 レオアリスは一度深く深呼吸をした。

 あっと声が上がったのは、それまでその場で攻撃を避けるだけだったレオアリスが、地面を蹴って距離を取ったからだ。

 すっと立ち上がり、フォーゲルと向かい合う。


 右腕が上がり、鳩尾に当てられた。

 間合いを詰めようとしたフォーゲルの足が、見えない何かにぶつかったかのように、ぴたりと止まった。


 レオアリスはちらりと、観覧席に視線を注いだ。アナスタシアの姿が、小さく、だがはっきりと見える。

 瞳が合った、気がした。


(見てろ――証明してやる)


 戦いの最中に一体何をしようとしているのか、観戦者達が身を乗り出して覗き込んだ時――レオアリスの右手の辺りから、青白い光が零れた。


「――何だ……」


 光に圧され、場内がしんと静まり返る。

 青白い光は彼等の顔を薄く染め、高みにある玉座の日除け布にも差し掛かった。


 飲まれたような静寂の中、ずぶり、とレオアリスの右手が沈んだ。

 その手が、何かを掴んでゆっくりと引き抜かれる。

 細い青白い光が現れるごとに大気が震え、見えない圧迫感が観覧席を叩く。

 声もなく凍り付く観戦者達の目の前で――


 それは、姿を現わした。



 青白い光を纏う、一振りの長剣――



 レオアリスの身体を、剣と同じ光が薄く取り巻いている。

 場内を支配したのは、畏怖にも似た感覚だ。


「おい、あれ……」

「――まさか」


 長剣が纏う光に煽られるように、レオアリスの足元の砂が吹き上がる。その姿はまるで、彼自身が研ぎ澄まされた一振りの剣のように、見る者を捉えた。


 剣を右手に提げてレオアリスが一歩踏み出し、場内を覆っていた呪縛が消えた。


「剣士――」


 驚愕がさざ波のように広がり、再び騒然と沸き上がる。


 目の前に現れた剣、それはまさしく、そこに剣士が存在する証明だ。

 戦闘種と呼ばれる種の中でも、最も高い戦闘能力を持つ、稀な種族。

 多くの者が、初めて目の当たりにする剣士とその剣に、驚きと、畏怖に、身を震わせた。


 だが、剣士の剣は通常、左右のどちらかの腕に宿る、はずだ。

 これまで、剣士とはそういうものだと考えられていたはずだ。


「これは」


 アヴァロンは傍らの玉座に視線を向けた。薄い布の向こうで、王の横顔が見える。

 黄金の瞳は面白そうな光を湛えて、眼下のレオアリスに注がれている。

 その視線の先で。


 更に、レオアリスの腕が上がる。

 左腕――


 鳩尾にぴたりと当てられ、光が零れる。

 観戦者達がそれの意味するものに、ぎくりと息を飲んだ。


「おい、まさか」


 クライフは欄を掴んだまま掠れた声で呻いた。


「有り得ねぇ……」


 既に現われている右の剣が共鳴するように、強い光を纏う。

 左手がゆっくり引き上げられ、光が剣の形を成していく。

 二本目――


 右手の剣を鏡に映したような、左の剣。


 突風の如く、剣気ともいうべき鋭い風と光が場内に吹き荒れ、観戦者達はまるで剣そのものを突き付けられたかのように、咄嗟に身体を庇い眼を覆った。

 一瞬、光は眼も眩まんばかりの輝きを発し、

 ――不意に消えた。


 恐る恐る瞳を開いたクライフは、レオアリスの手元を見て、あっと身を乗り出した。

 たった今引き出したはずの左の剣は、再び消えている。


「何だぁ」


 レオアリスは右手に一振り残った剣を提げたまま、じっと俯いて動かない。


「……止めたのか」


 左の剣が姿を消した事に、クライフはほっと息を吐いた。観覧席の上にも同様に安堵の色が漂っている。

 二本目――あれをこの場で使われたら、それだけで御前試合という域を超えてしまう。


 黒竜が正規軍によって倒されたと聞いた時は、クライフは強い興味を引かれた反面、眉唾物だという思いもあった。だが、今の彼の姿を目の当りにすれば、何の疑いもなく頷ける。

 炎帝公と、剣士。

 よくそんな時に、その顔触れが揃ったと感心するほど、稀な取り合わせだ。


「――正規は、運が良かったな」


 そう呟いてから、運がいいのは自分達も同じかと、クライフが口元を歪める。

 もしその二人の存在がなければ、今頃クライフ達はこうして御前試合を眺めている余裕などなく、黒竜との戦乱の中にいたかもしれない。

 見上げれば王の玉座が、吹き抜ける風に日除け布を揺らしている。

 王は彼を観に来たのだと、すっかり納得しながら、クライフは再び闘技場の剣士に視線を戻した。



 



 右手の剣を地面に押さえ込むように下ろしたまま、レオアリスは肩で呼吸を繰り返していた。


(駄目だ)


 二本目の剣は、抜き出しただけで意識を持っていかれそうになった。慌てて戻し――戻せたのが不思議な位だ。

 そうしている間にも右手を伝わる剣の力に、レオアリスは眉を寄せた。

 重い。

 そのくせ、力を込めて握り込んでいなければ勝手に跳ね上がりそうだ。

 ただ、もう一振りがおとなしくしているせいか、それとも二度目だからか、あの地底で、黒竜を前に初めて剣を手にした時よりは、剣は落ち着いていた。


(前よりは落ち着いてるからいいかって……どうなんだ?)


 納得がいかない。レオアリスは剣の制御に集中しながら、対戦相手へと視線を向けた。

 フォーゲルは驚愕と恐怖と叩きつけられる圧力に、どこか困惑した様子すら見せて後退った。だが実は、戸惑っていたのはレオアリス自身でもある。

 間合いがどれほどなのか、剣を振り抜いた時その力がどれほどの範囲に亘るのか。レオアリスはまだ、自分の剣を全くと言っていいほど知らない。

 どう扱っていいのかが、こうして剣を手にしている今も、さっぱり判らなかった。


 躊躇っているレオアリスを見て取り、上から眺めていたアナスタシアが、立ち上がっていきなり大声を張り上げた。


「レオアリス! 遠慮すんな、思いっきりふっとばしちゃえ!」


 周りはぎょっと振り返ったが、一番慌てたのは傍らにいたアーシアだ。


「ア、アナスタシア様っ」


 アナスタシアの腕を抑えて引っ張る。あれは黒竜を裂いた剣だ。レオアリスが何の加減もなく剣を振り抜けば、観覧席まで巻き込まれ兼ねない。


「いいじゃん、迷ってるよりそれが一番いいんだ」

「良くありません、相手は黒竜とは違うんですから――レオアリスさん下手したら王都にいられなくなっちゃいますよ」


 アーシアもクライフと同じ心配を、レオアリスの剣を既に見ている分、それより強い懸念を抱いていた。闇雲に振り回し観覧席に被害を及ぼせば、御前試合どころでは無くなる。

 観覧席には大勢の人々と――王がいるのだ。

 アナスタシアは周囲を見回して、彼等の恨めしそうな顔に細い眉をしかめた。


「んもう、めんどくさいなぁ」


 ただ、この場の誰一人として、レオアリスが剣士である事を疑う者はいない。誰もが、初めて見る、若い二刀の剣士に、呼吸を奪われるように見入っている。

 それで我慢する事にして、アナスタシアは再び闘技場を見下ろした。


「――じゃあ、お前、降参しろーっ!」


 今度は対戦相手に向かって叫ぶ。



 アナスタシアの声は場内の騒めきを飛び越え、しっかりレオアリスの元まで届いた。


「あの女、ああいう性格かよ……」


 こっちは必死で剣を抑えているのにと、苦笑が洩れる。ただ、このまま睨み合いをしていても仕方がない。

 結局レオアリスは、目の前の対戦相手より先に、剣を抑えなければこの試合に勝つ事すらできないのだ。

 アナスタシアは観覧席で、他に負けない程の声を張り上げている。


「少しはらしくしろってんだ」


 あれが半月後には公爵かと、もう一度苦笑を零したが、結局あれが一番アナスタシアらしいのだ。いつでも、何の飾りも無い。


(――このままじゃ、また笑われちまう)


 そうさせるのは嫌だった。レオアリスは再び、ぐっと剣の柄を握り締めた。



 アナスタシアの怒鳴り声は当然フォーゲルにも届いていた。

 目の前の少年が剣士だという驚きと、その存在から叩きつけられる鋭い刃のような圧力はフォーゲルの身体を氷のような手で縛り付けていたが、アナスタシアの言葉は逆にフォーゲルを我に返らせた。

 フォーゲルは剣を手元に引き寄せ、まだ驚愕と畏怖の張り付いた視線をレオアリスに向けた。

 レオアリスはフォーゲルの動きに気付いて身構えたものの、動く気配はない。


「何で動かねぇ。舐めてんのか?」


 フォーゲルなど、剣士から見ればいつでも倒せる相手のはずだ。それに高を括っているのか、それとも、何かを狙っているのか――

 フォーゲルの額を、冷たい汗が伝う。

 こうして対峙しているだけで喉元に刃を突きつけられているかのように、払い難い恐怖を感じていた。


 だが、動きを止めたままのレオアリスを注意深く観察していたフォーゲルは、ふと眉を上げた。レオアリスはフォーゲルを侮って動かないのでは無いように思えたのだ。


(もしかして、動けないんじゃないか……?)


 理由は知らないが、手にした剣を持て余しているように見える。


「――」


 剣士と聞けば、誰でも二の足を踏むだろう。剣士一人いれば、百の兵を抑えるとさえ言われる。

 できれば――いや、一生向き合いたくない相手だ。名も無い少年だと思っていた相手が、蓋を開ければ剣士だったなど、フォーゲルは自分の運の悪さを呪った。

 ただフォーゲルにも、これまでの経験と竜の宝玉を手に入れてきたという自負がある。

 フォーゲルの手が、馴染んだ剣の柄を握り込む。手のひらに汗が滲んでいるのが判った。


(……剣士が、どれほどのものだってんだ!)


 身体を捉える恐怖を断ち切るように声を上げ、フォーゲルは地面を蹴って走った。場内がどよめく。レオアリスは身構えたが、その場を動かない。


(行ける!)


 間合いを詰め、フォーゲルは剣を横薙ぎに振り抜いた。レオアリスの喉元を目掛けてフォーゲルの切っ先が奔る。


「っ」


 レオアリスは膝を沈め、剣を両手で掴んだ。長剣が重そうに動き、迎え撃つ。

 刃が打ち合った瞬間、フォーゲルの剣は呆気なく砕けた。衝撃を受けて、フォーゲルが弾き飛ばされ、地面に叩きつけられる。

 どよめきが上がった。

 レオアリスの剣が奔ったあとの地面に、くっきり一直線に亀裂が生じている。

 フォーゲルは呻きながら起き上がり、完全に砕けた剣と感覚を失っている右腕、それから地面に走った亀裂を茫然と見つめた。


「――っはぁ」


 レオアリスは振り抜いた剣を引き摺るようにして戻し、喉を反らして身体全体で荒い呼吸を繰り返した。


「きっ……つい」


 制御に、ただ一振りするだけの事に、いちいち全身の力を振り絞っている。相手がもう試合放棄してくれないかと、そんな事まで頭に浮かぶ。


(――だから、そんなんじゃ駄目だ!)


 きつく眼を閉じ、レオアリスは自分を叱咤した。

 それでは意味が無い。

 剣の力を抑え、制御した上で、欲を言えば周囲に被害を出さずに――勝つ。それでなければ意味が無い。


 閉じた瞳を開ける。抜けるように青い空が映る。

 どよめきはいつの間にか、歓声に変わっている。この剣士の力を見たいと、場内は総立ちになっていた。


「倒せ!」

「遠慮するな、力を見せる場だ!」


(そんな事言われてもなぁっ)


 あと一振りでもしたら、自分の制御を振り切りそうなのだ。

 剣はせかすように明滅している。何で自分を使えないのかと非難するようだ。


(くそ、こいつ本当に俺の剣か?)


 何だかいい加減、レオアリスは腹が立ってきた。大体黒竜と対峙したあの時、一旦は自分の手に収まったと思ったのに、これから毎回こんな消耗する思いをしなければならないのだろうか。

 周囲にも気を遣って、重い剣が勝手に切り裂こうとするのを抑えながら――


 いっその事、思い切り、何も考えずに振り切りたいと、そう思った時だ。


「気にする事は無い。振れ」


 ふいに静かな、だが朗々とした声が場内を打った。


 場内の視線が騒々と揺れながら声の主を探し――玉座の上で止まった。

 王が立ち上がり、玉座の前にその姿を現わしている。

 王はゆったりとした暗紅色の長衣を重ね合わせた長身に、ただそこに立つだけで辺りを圧する威厳を纏っていた。


 レオアリスもまた、立ち尽くして玉座を見上げる。初めて目にする王の姿に、全身を包むような懐かしさを覚えた。

 鼓動が鳴り、剣が鳴る。

 その瞳は黄金の光を帯びていると、見えないままに何故だかそう思った。


 王の冷厳とした面に、微かな笑みが浮かぶ。


「力を示せ」


 観覧席と闘技場の間に、突如として黄金の光の壁が立ち上がる。

 観戦者達の驚愕の表情だけを残し、周囲の音が消えた。




 見回せば、対戦相手であるフォーゲルの姿さえなく、その場にいるのは剣と、レオアリスだけだ。

 剣が振動する。

 お前に自分を抑えられるのかと、そう問い掛けている。レオアリスの制御などいらないと言わんばかりだ。


(この――)


 剣が自分を必要としなくても、レオアリスにはこの剣がいる。

 ここまで来た、その望みの為に。

 黄金の瞳に。


「いい加減――」


 ぐいと剣を睨み付け、一旦肩に担ぎ上げるように重い剣を振り被り――


「おとなしくしろ!」


 レオアリスは一息に剣を振り抜いた。


 剣から光がほとばしり、地面を砕きながら走る。それは深い亀裂を刻み、闘技場を二つに裂いて、黄金の壁に撃ち当たった。

 壁は一度微かに光を増しただけで、激しい剣風を苦もなく受け止める。


 瞬きすら忘れてその光景に見入る観戦者達の前で、黄金の壁に堰止められた剣光は渦巻いて霧散し、消えた。

 呼吸の音さえ憚る静寂がその場を支配する。アナスタシアでさえ、息を潜めてじっと闘技場の一点を、レオアリスの姿を見つめていた。


 レオアリスはゆっくりと、肺の奥から息を吐き出した。

 気が付けば手の内の剣から、先ほどまでの重さは失せ、激しい明滅も収まっている。


「――見事だ、剣士」


 はっとして振り仰ぎ、レオアリスは玉座を見上げた。既に王は玉座に戻り、薄い幕がその姿を覆い隠している。

 顔など見えるはずもない距離で、レオアリスは王がその黄金の瞳を自分に向け、笑みを浮かべているような気がした。

 どくん、と再び手の内の剣が鳴る。

 ただ、そこから感じられるのはもはや、レオアリスの制御を振り切ろうという意志ではなく――

 喜びだ。

 レオアリスの制御を受け入れる事と、もう一つ、目の前の存在への、深い喜び。

 この瞳の前に立つ為に自分はあの厳しい道を辿って来たのだと、理由すら思いつかないままに、ただ心からそう思った。


 傍らのアヴァロンが、代わって闘技場を見下ろす。


「この勝負は決した。双方、剣を収めよ」


 レオアリスの手から剣が掻き消える。

 一度、身体の裡で剣の鼓動が鳴った。

 レオアリスがその場に膝を付き、静かに玉座へと礼を捧げる様子を、観戦者達が息を飲んだまま見つめている。


 促され、彼がその場に立ち上がりその若い顔を上げる。


 束の間の静寂の後、一際大きな歓声が広い演習場の建物を震わせた。









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