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第十一章「剣(つるぎ)」 二

 黒竜の(あぎと)を躱し、アーシアは一直線に闇を翔けた。

 瞳に映っているのは背後の黒竜の牙ではなく、揺らめく炎だけだ。炎は地底近く、切り立つ壁の途中に燃えていた。

 アーシアが近づくとカイがレオアリスの肩から飛び出し、この場所だと示してくるりと回る。


「アナスタシア様!」


 翼が壁に触れそうな危うい距離まで近付いて、アーシアはアナスタシアの名を叫んだ。叫びは炎に吸い込まれ、返ったのは沈黙だけだったが、アーシアの瞳が輝く。


「ここです、この向こうに、アナスタシア様がいます!」


 アーシアははっきりと、この壁の向こうにアナスタシアの炎の揺らめきを感じ取っていた。

 強い炎だ。

 そう言ったアーシアの言葉に、レオアリスはただ頷き、アーシアに気付かれない程度に眉を顰めた。


(これじゃあ――)


 アナスタシアがこの奥にいるのは判った。だがこれでは、救け出す手立てが無い。この壁をどうやって崩すべきか――。下手に崩せば、逆に最悪の結果を招きかねない。

 風が唸り、黒竜の尾がレオアリス達のすぐ脇を掠め、岩を砕いた。黒竜が見失っていた二人を見つけたのだ。

 アーシアの身体が煽られ、宙でよろめく。

 再び風が鳴り、右斜め上で岩が砕ける。炎が風に煽られ、千切れるように揺れた。


「アナスタシア様!」


 アーシアが炎を庇い身体を寄せる。


(まずい)


 このまま二人がここにいれば、黒竜は壁を砕きつづけ、いずれその向うにいるアナスタシアまで傷つけてしまう。

 レオアリスは指先を闇に滑らせ、風切りの法陣を描いた。

 法陣から飛び出した風の刃が黒竜の尾を撃ち、黒竜の尾が止まる。


「アーシア、任せたぜ」


 アーシアの返事を待たず、レオアリスはアーシアの背を蹴った。動くレオアリスを追って、黒竜が向きを変える。


「レオアリスさん!」


 地底まではまだ相当な高さがある。アーシアは身を翻しレオアリスを追おうとしたが、黒竜の背中に阻まれた。


 急激に近付いてくる地面に向けて、レオアリスは術式を唱え身体の周囲に風を生み出すと、それを纏わせた腕を振った。敵を吹き払う為に用いる術の応用だ。

 迸った風は地底に当たって吹き返し、地底に激突する寸前にレオアリスの身体を受け止めた。

 くるりと身体を反して降り立ち、一瞬の停滞もなく足に感じた地面を蹴って走る。直後に、レオアリスのいた場所を黒竜の尾が打った。


 無事に地底に降り黒竜を引き付けたまではいいが、思った以上に暗く黒竜の攻撃が見えない上に、でこぼこと隆起した足元は走りにくい。

 次々と落石のように尾や脚が降り注ぎ、地面を砕く。止まればたちどころに捉えられ押し潰されてしまいそうだ。

 レオアリスは音と気配だけを頼りに、闇の中を走った。


 斜め前から音を感じ、咄嗟に飛び退いて地面を転がる。立ち上がる間もなく尾が振り下ろされ、レオアリスの頭を掠めた。ぞくりと身が縮む。


「――そんなでかい動きで当たるかよっ」


 そう吐き出したが、実際はかなり強がりに近い。何よりこの暗がりの中、黒竜は正確にレオアリスの動きを追っていて、一瞬も気を抜く暇が無かった。

 だが重要なのは、少しでも長く、黒竜の意識をレオアリスに向けさせる事だ。


 アーシアの様子を確かめようとしたレオアリスの瞳が、アーシアの姿を捉える前に止まった。

 黒竜の肩越しに、上空から、幾つもの光が降りてくるのが見える。法術士達だ。

 降り掛かる光に気付き、黒竜が首を巡らせた。

 レオアリスの指が法陣を描く。


「こっちだ!」


 法術士達が一人でも欠ければ、封術の成功は無くなる。

 この逃げ場のない縦穴はレオアリス達にとって著しく不利な場所だったが、この狭さが黒竜の動きを制限してもいるのもまた事実だった。ここで封術を完成させなければ、地上へ飛び立った黒竜を抑える事は、更に困難になるだろう。

 何とか、封術が完成するまで、黒竜の気を散らすのだ。

 せめて雷撃を使いたかったが、術式の長い雷撃を唱える余裕はない。ただ気を引き続ける為だけの風切りの術式を、レオアリスは再び唱えた。


 風の刃は黒竜の鱗に弾かれ砕けたが、幸いにと言えるのか、黒竜はレオアリスを先に構う事にしたようだ。術士達に背を向け、再び尾を振り上げた気配を感じた。

 風が鳴る。


 正面から振り下ろされると思った尾は急に角度を変え、飛び退いたレオアリスを真横から追った。尾の先が身体を庇って上げた腕を捉え、鋭く隆起した鱗が斧のように肉を切った。


「――っ!」


 衝撃に軽く数間も弾き飛ばされ、岩壁に叩きつけられる。

 その場に崩れるように倒れこみ、全身の痛みに唇を噛み締めながら、レオアリスは尾を受けた左腕に手を当てた。ぬるりとした血が流れている。


 幸いな事に尾は掠めただけで、折れた感覚は無い。逆に壁に叩きつけられたせいで、全身が麻痺したように力を失っている。

 黒竜がレオアリスを追って向きを変えた。その地響きが倒れている地面から全身に伝わる。


「やべぇ」


 擦れ声で呟き、無理矢理立ち上がろうとしたレオアリスの頭上で、光が激しく明滅し、辺りを照らした。黒竜が苛立ち唸る。

 白く照らし出された縦穴の底で、レオアリスは右腕をかざして瞳を細めた。強い激しい光が黒竜の眼を眩ます内に、術士達が次々と降りてくる。


「坊主、いいやり方だったぜ。このまま掻き回す」


 真っ先に術士と共に降りたのはクーガーだ。クーガーは剣を引き抜きながらにっと笑って見せ、降りてくる兵士達をレオアリスに示す。レオアリスの前方にも、光を纏った術士がふわりと降り立った。その傍らに厳しい顔をしたワッツがいる。


 ワッツは地面に立って肩を回し、腕から血を流したレオアリスを何とも言い難い顰め面で睨んだが、怒鳴り付けるのかと思われた口をへの字に曲げた。


「言いたい事は後だ。おい、腕を見てやれ」

「――大丈夫。もう血は止まってる」

「ああ?」


 誰の眼から見てもそれは深い傷のようだったが、レオアリスは腕を覗き込みあっさり首を振った。


「見せろ」


 レオアリスの前にしゃがみ込んで腕を掴んで検分し、ワッツは驚きに太い眉を上げた。

 傷は深い。だが既に肉は塞がり始め、血も固まりかけている。


(こいつは)


 信じ難いほどの治癒力だ。


『彼は剣士だ』


 ウィンスターの言葉が頭を過り、ワッツは首を振ってそれを払った。


(そんな事は関係ねぇ)


「――ふん、ならいい。とにかく今は術を完成させるのが先決だ」


 視界を取り戻した黒竜が、尾を振り上げる。ワッツは持っていた盾を尾を目がけて円盤のように投げ、走り出した。レオアリスがワッツを呼び止める。


「俺も手伝う。動ける術士が要るだろ?」

「てめぇはそこにいろ。」

「そんな事言ってる場合じゃ」

「今更止める訳じゃねぇ。お前はそこで、見計らって術を使ってくれ。酸の息を吐かせるな」


 レオアリスが力強く頷くのを見届け、ワッツは兵士達に声を張り上げた。


「奴はでかい図体でここじゃ動きが取りにくい! やる事は簡単だ! 当てさせねえ、飛ばさせねえ、たった二つだ!」


 黒竜の視覚を撹乱するように、九名の兵士達が縦横に走る。その間に術士達は、封術の布陣を取るために、静かに動いていく。

 黒竜は低く唸り、足元に散った兵士達に煩そうに首を巡らせた。尾を振り上げ叩きつけようとしたところへ、鉄の矢が放たれ黒竜の眼を掠める。振り返り噛み砕こうと迫れば、左右と背後の三方から再び矢が降り注いだ。


 面倒になったのか、黒竜は翼を広げた。飛び立とうとした黒竜の翼を、下から迸った雷撃が撃つ。

 黒竜は苛立って吼え、激しく身体を揺すった。


「いいぜ、焦ってきやがった」


 ワッツは走りながら口元を満足そうに歪めた。兵士達の剣もレオアリスの雷撃も、黒竜に傷を負わせる事はできない。まるで壁に向かって石を投げているようなものだ。

 だが、こういう戦い方もある。黒竜の首が向いた方とは違う方向にいる者がすかさず攻撃を仕掛け、それを絶えず繰り返す。手足を絡め取るように動きを封じ、相手の本来の力を出させないやり方だ。


 倒す必要はない。封術が発動すれば、ワッツ達の勝ちだ。

 全て順調だった。ワッツは周囲を見回し、術士達が配置に付いたのを確認した。


「あと一息だ! もう少しで終わる!」


 唐突に、黒竜はそれまでに積もった怒りを爆発させて吼え、身体を竜巻のように激しく振った。尾が辺りを薙払い、数名の兵士が捉えられ、弾かれた。


「ウェイン!」


 クーガーの叫びが遠くで聞こえる。


「くそッ」


 ワッツは地面を蹴り駆け出した。ワッツの影を追うように、地面に光の線が走る。


「何だ!?」


 ワッツは振り返り、その光が背後の術士の足元から伸びているのに気が付いた。ワッツを追い越した光は地底に白い帯を刻みながら、対角にいた術士へと辿り着く。

 術士が手を打ち鳴らし、地面に印を打つ。辿り着いた光は、角度を変え、再び地面を疾駆した。


 封術が、始まった。

 黒竜の身体が、急に襟を引かれたかのように動きを止めた。


 ぱん、と術士が手を合わせ、地面に印を刻み込む。

 一人、印を打つ毎に、白い光が地面を走り、黒竜の動きが封じられていく。

 だが、五人目まで来て、光はぴたりと走るのを止めた。


「何だ」


 慌てて止まった光の帯の先を睨み付けたワッツの耳に、ボルドーの焦燥を含んだ声が届く。


「シアン! どうした!」


 光が止まった位置にいたのはシアンだ。黒竜の尾が薙払った辺りだ。


「シアン!」


 返る返事はない。ワッツはぎり、と奥歯を噛んだ。必要な術士は十人。一人でも欠ければ、法陣は完成しない。


「――ここまできて」


 ワッツの横を小柄な影が走り抜ける。レオアリスだ。レオアリスは走りながら、ワッツを振り返った。


「俺がやる! 黒竜を引き付けてくれ!」


 黒竜はまだ足だけを止められた状態で、首は苛々と振られている。ぐ、と足に力を籠める毎に、僅かずつながら足への束縛も弱まっていくようだ。

 ワッツは兵士達を探して視線を巡らせた。無事に立っているのは半数ほどだ。


(かまわねぇ、あと少しだ)


 ほんの僅か、時間を稼ぐだけでいい。ワッツは近くに倒れている兵士に駆け寄り、その弓を取り上げると矢をつがえ引き絞った。


 レオアリスは光の止まっている位置に駆け寄った。シアンはその側で頭から血を流し倒れている。

 その傍に膝を着くと、うっすら眼を開けた。


「君」

「俺が代わる。どうやればいい?」

「……土は得意?」


 レオアリスは一瞬躊躇い、頷いた。


「やる」


 シアンは微かに笑ったが、指を上げて光の先を示した。


「そこに立って、手を打って」


 レオアリスは言われたままに立ち上がり、素早く手を鳴らした。

 その音に呼ばれ、行き場を失っていた光の帯が足を伝り合わせた手に辿り着く。じわりと手が熱を帯びた。重い。


 四人の術士を経由し蓄積された膨大な量の力が、次々と足元から昇ってくる。

 まるで巨大な鉛を括りつけたような重みに、合わせた手が震える。


(きつい)


 正規軍の術士達はこんなものを軽々と制御しているのだ。


「次は?!」

「簡単よ。そのまま五芒を切って、土に打ち込む」


(この状態で印を切るのかよ)


 レオアリスはぐっと唇を噛み、手を合わせたまま五芒を描いた。走り出そうとする力に手が振り切られそうになる。

 だがこれからだ。

 地面に打ち込んだ時、印が刻み込めるかどうか――


(じいちゃん)


 カイルの顔と厳しく暖かい声が脳裏を過る。


『向き合えば、土は必ず応えてくれる』


 五芒の最後の一角を形成すると、ぐん、と手が足元に向かって引かれた。

 重量に引き摺られ、レオアリスは印を打った。


 身体の中を力の奔流が駆け抜け、地面に付いた手のひらから流れ出ていく。


 光は地面に吸い込まれ、――音もなく消えた。


 これまでのように、地面を走る気配が無い。ここまで引かれて来た光の帯が不安定に瞬いた。


(まずい)


 レオアリスが息を飲み、屈み込もうとした時、足元に五芒の印がゆっくりと浮かび上がった。


 光を地面に刻みながら、一直線に走る。

 黒竜の足元を抜け、再び折り返し、地面を疾駆し続ける。


「ありがとう。上出来よ」


 肩で息をしながらそれを見つめていたレオアリスは、シアンの傍らにしゃがみ込んだ。


「あんたは」


 左肩が折れていて、それが一番ひどい。頭の傷は倒れた時に付いたもののようだ。


「大丈夫……上に、治癒を使える術士が来てるから。備えあればってやつね」


 ほっと息を吐いたレオアリスに、シアンはにこりと微笑んだ。


「封術が完成すれば、もう皆帰れるわ」


 光は走り続け、既に八本目の帯を刻んでいる。

 黒竜は怒り狂い、長い咆哮を上げたが、まるで地面に括りつけられたかのように足も尾も持ち上がらなかった。揺すっていた上体も、次第に動きを失っていく。


「――やったか……」


 ワッツは長い息を吐き、急激に湧き上がる疲労を覚えてその場にしゃがみ込んだ。残り二筋の光が法陣を完成させれば彼等の役目は終わり、あとは地上の部隊の仕事だ。

 邪魔の入らない地上部隊が術を失敗する事はない。

 黒竜はこの地に封じられる。


 戦いの終わりが、そこまで来ていた。


(長かったが、何とかなるもんだな)


 ワッツは黒竜の向こう側に立ち上がっているレオアリスに眼を向けた。レオアリスは肩で大きく呼吸を繰り返しながらも、憧れと尊敬の入り交じった瞳で術士達を眺めている。

 彼等が高度な術を使いこなしているのを羨ましがっているような顔をしていて、ワッツは状況も忘れて笑みを浮かべた。


「――全く、大したガキだ。軍にいたら二階級特進ものだぜ」


 レオアリスが黒竜の気を引き付けていなければ、法術士達もここまで降りて来られなかっただろう。彼がシアンの代わりをしなければ法術は完成しなかった。

 それにレオアリスはただ闇雲に動いていた訳ではない。すべき事を理解し、的確に行動していた。

 うっかりしていると自分を飛び越して昇進しそうだと、半ば嬉しい気持ちを覚えてワッツは首を擦った。


「まあ、もしかしたら法術士団に行くかもしれねぇし、……剣士だってのが本当なら」


 どのような道を進むのかワッツには想像も付かないが、いずれにしても確実にレオアリスはこの先王都へ上がるだろう。


「俺も王都に行くかな。面白そうだ」


 レオアリスが視線を上げた先をワッツも追って、気を抜いてばかりもいられない事に気が付いた。アーシアはまだ飛竜の姿のまま壁の前に浮かんでいる。壁を掘ろうとしているのだ。


(嬢ちゃんはあそこか)


 まだ全てが終わった訳ではなく、アナスタシアを救い出すという重要な任務が残っている。

 レオアリスはアーシアの方へ、そそり立つ壁へと近付いて、そこをどう登ってアーシアのいる場所まで行くべきかと思案している。ワッツも立ち上がろうと地面に手を付いた。


 その時動いていたのは、レオアリス一人だ。


 黒い影が頭上でゆらりと揺れた。

 一瞬の事だった。


 誰かが叫んだのが先か、ワッツの眼がそれを捉えたのが先か――


 レオアリスの身体に、黒竜の(あぎと)が喰らいついていた。

 牙が肉に食い込む濁った音が、流れる詠唱に交ざって、聞こえた。

 ワッツが、気付いた他の兵士が呆然と立ち上がる。


「――おい」


 ワッツ達が凍りつき見つめる先で、レオアリスは自分の身を捉える巨大な顎を見つめ、瞳を驚きとも苦痛ともつかない色に見開いた。








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