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第二章「春の嵐」 一

 貴方の思うように生きなさい、と母は言った。


 とても美しいひとだった。

 それが、アナスタシアの自慢だ。





 春も半ばを過ぎ、樹々や草々の花は満開。

 この新緑の月、春を祝う祝祭を華やかに終え、王都アル・ディ・シウムは、また賑やかで忙しい日常が戻る頃だ。


 ただ今年は例年とは違い、二年に一度の王の御前試合が催される事と、もう一つ、王都の住民だけではなく国内、特に南方地域の領民達にとって大きな関心事があった。


 国政が、非常に重要な変化を向かえる。

 ほぼひと半月後、アスタロト公爵家に新しい当主が生まれるのだ。


 アスタロト公爵家はこの王国の最高位に位置する貴族、四大公爵家の一つで、南方の国土を所領する大貴族だ。そしてまた正規軍将軍の役割も担っていた。

 アスタロト公爵家が担う軍務の他に、この国を安定して支える体制として、主に政務を司る内政官房、財政を司る財務院、土地や治水、人々の暮らしを管轄する地政院、大別してこれら四つの機関がある。


 半年前の秋の終わりに先代アスタロト公が御罷って以来、正規軍将軍の座は空席のまま、副将軍タウゼンがその代理を努めていた。


 今回、先代公爵の喪が開ける初夏に、アスタロト公爵家の継承式が予定されていた。

 アスタロト公爵家の一女、僅か十四才のアナスタシアが、母親の後を継いで公爵に叙され、同時に新たな正規軍将軍となる。





 アナスタシアはとても美しい少女だった。

 艶やかな漆黒の髪は下ろせば腰の辺りまで流れ、二重瞼の丸く大きな瞳はアスタロト家の特徴である深紅の色。抜けるように白い陶器のような肌、すんなりとした手足、楽器の音色のような澄んだ声。

 あと数年もすれば、絶世と謳われた先代アスタロト公爵に勝るとも劣らない美しさになるだろうと言われている。


 新たな、美しい公爵。若い力に満ちた『炎帝公』――正規軍将軍。多くの国民が、その誕生を心待ちにしていた。





「腹減ったー! アーシアぁ、おやつは?」


 恥じらいとは無縁の、良く言えば開けっ広げで快活な声が庭に面した扉から駆け込んできて、アーシアは苦笑して振り返った。もちろん手には既に茶器の載った銀の盆を用意している。


 少し息を弾ませている少女を眺め、青い髪の優しそうな少年は、頬ににこりと笑みを刻んだ。


「ございますよ。先ずはお茶をどうぞ」


 細い腕がさっと延び、差し出された盆から白い茶器を取り上げ、ひと息に飲み干す。ちんと高い音を立てて、まだ盆の上に載ったままの受け皿に戻された。


「せめて卓に置いてからにしてください。作法の先生にまたお叱りを受けますよ」


 そう注意しながらも、お茶そのものは一気に飲み干してもいいように、少し前に注いでぬるめにしてある。アーシアは再び、今度は湯気の立つお茶を茶器に注いだ。


 白い陶器の器は透けるほど薄く、優美な細い筆で花模様が描かれている。アナスタシアのお気に入りのうちの一つだが、いつも同じものを喜ぶわけではない、少し気紛れなアナスタシアの好みをアーシアが見誤った事はない。

 他の者だと器が気分に合わない時などそっぽを向いてしまう事があるが、アーシアの差し出したものはまずアナスタシアの気に染むものだった。


「ふー、やっぱアーシアのいれたお茶は一番美味しい」


 満足そうな笑みを顔一杯に浮かべて呟く少女に、アーシアは穏やかな頬笑みを返した。


 この少女が、アスタロト公爵家の次期当主――数年もすれば絶世の美女になるだろうと目され期待される、アナスタシアだ。

 世間的な期待と少し、ずれてはいるが、美しく育つ事は間違いないと言えた。


「おやつはー?」

「はいはい、すぐに。でも召し上がり過ぎは良くありませんよ。もうすぐお昼ですし、先日衣装合わせをされたばかりでしょう? 継承式までに体型を維持されないと、貴方が泣く事になるんですから」


 急かされて菓子皿を取りに戻り、それを取り上げてアナスタシアの元に戻る間、アーシアはしっかりアナスタシアを戒める事も忘れない。


 アナスタシアは庭に置かれた椅子に座り、足をぶらぶら揺らすという礼儀作法の教師が見たら十年勤めた職場の離職を考えそうな仕草で、アーシアが菓子皿を運んでくるのを待っている。

 館の南側に面した庭は、昼の日差しを受け若葉が青々と輝いていて、時折爽やかな風が抜けてとても気持ちが良かった。


 それにアーシアの柔らかい笑み、それを見るだけで、アナスタシアはとても落ち着いた幸せな気分になれる。ずっとこのまま居たいなぁ、とアナスタシアはのんびり頬杖をついて瞳を閉じた。


「いいの。作法だしきたりだって煩くてさ。それだけで痩せちゃうよ」

「それ以上に召し上がってますよ、貴方は」

「太んないよーだ」


 アナスタシアは舌を出し、それから目の前に置かれた菓子皿に眼を輝かせた。色とりどりの一口大の焼き菓子が、眼にも鮮やかに盛り付けられている。どれほど食べ過ぎると太ると言われても、甘いお菓子はとても魅力的だ。


「うまそう。どうしたの?」

「頂き物です。ベルゼビア公爵家のご次男、ブラフォード様から」


 アーシアは慎重な口振りだったが、アナスタシアは「ふぅん、また?」と首を傾げただけで、早速一つ摘んでぱくりと頬張った。


 ブラフォードは同じく四大公爵家の一つである、ベルゼビア公爵の次男だ。二十も半ばの青年からの贈り物など、意味するところは一つしかないのだが、アナスタシアにとっては単なるお菓子でしかないようで、ブラフォードだけではなく他の青年達からの贈り物も、個人を認識された事は一度もない。


 花や服から始まり、装飾品や小物置物、果ては家具の類に至るまで、毎日のように届く数々の贈り物の内、こうしてアナスタシアの手に触れる物は僅かだ。

 ほとんどの者とは面識もなく、アナスタシアの好みも知らない。その中で的確にアナスタシアの好み――要はお菓子や珍しい食べ物などを送り届けるのが、ブラフォードだった。


 どこから情報が出ているのか、アーシアには推測出来るが、彼が口を出す範疇ではなかった。

 アーシアはアナスタシアに実質一番近い位置にあるものの、官位も何も持たない、一介の従者でしかない事を良く判っていた。


 もっともアナスタシア自身は、アーシアの事を従者だと思った事はないだろう。「アナスタシア様はアーシアを自分だけのものだと思っていらっしゃる」と、公爵家に仕える者達は苦笑と微笑み半分に言う。

 そのくらいアナスタシアはアーシアを傍から離す事が無かった。


 アーシアはアナスタシアより歳は二つほど上、まだ十五・六歳ほどだが、穏やかでいつも笑みを絶やさずアナスタシアを支えている。

 鮮やかな青い髪と青い瞳は、この国では珍しい。どこの生まれなのか、親はいるのか、周囲の者達は誰も知らなかった。


 彼は十一年前に、アナスタシアが連れてきた。まだ三つほどのアナスタシアが、ある日、当時十歳ばかりの少年の手を引いて館に連れて帰ってきたのだ。

 当の本人達はもう覚えていないだろうが、暑い夏の日の明るい陽射しの中、少年はずっと静かに泣いていて、幼いアナスタシアはそれを慰めようというように、小さい手でぎゅっと彼の手を握り続けていた。


 どうしたのと聞いても、アナスタシアの言葉は要領を得ない。アーシアはアナスタシアに助けられたのだと、そう言った。


 少年には名前がなく、アナスタシアは彼をアーシアと名付けた。アーシアというのは、アナスタシアの愛称だった。幼い頃のアナスタシアは自分の名を上手く言えずに、そう発音していたからだ。


「もうアーシアは、おねえさんになるから、アーシアはアーシアにあげるの。だからこの子がアーシアで、アーシアはアナ、えーっと、あなしたすあなの」


 たどたどしい言葉で一生懸命にそう言って自分よりも大きい少年を守るようにしがみつき、戸惑う大人達に、アーシアをここに置くようにと主張した。


 最初は素性も知れない者をアナスタシアの近くに置く事を躊躇っていた周囲の者達も、幼いアナスタシアの熱意と真剣な眼差し、そしてアーシア自身の年齢より大人びた物静かな態度に、次第にアーシアを受け入れていった。

 何よりも母であるアスタロト公爵は、アナスタシアの傍に彼がいる事を喜んでいるふうだった。


 公爵家の一人娘であるアナスタシアは生まれた頃から大人ばかりに囲まれて、跡継ぎとして大切に、掌中の玉のように――礼を欠かない距離を持って育てられてきた。母公爵は政務に忙しく、その中でなるべく娘との時間を作るように努めていたものの、一般の家庭のように接する事は無理がある。


 アーシアが来た事でアナスタシアは本当に楽しそうに笑うようになった。そうした育てられ方をした事で、裕福な家庭に有りがちな我が儘放題な娘に育つかと思われてもいたが、アーシアの言う事は素直に聞く。


 周囲の者達も今では、例えば一刻の学習時間をきちんと座って聞かせたいときや、形式に煩い一族の者達が館を訪ねてきたときなど、アーシアに頼り切る始末だった。


 半年前――アナスタシアが母を失った時も、アナスタシアの傍に近寄れたのはアーシアだけだった。アーシアはアナスタシアに笑顔が戻るまで、眠りもせず、ずっと黙って傍にいた。


「今日は、庭の中央の雪柳が綺麗に咲いてたよ。白い小さいのが鈴なりになって。本当に雪が降ったみたいで、すごく綺麗だよね」


 庭に顔を振り向けながら、アナスタシアは弾んだ声で花の色や咲いていた本数など、アーシアに説明してみせる。

 敷地内に数ある庭園の内この館に面した「春の庭園」は、その名の通りこの時期なると次々に新芽や蕾を綻ばせ、美しく咲き乱れる。雪柳も中央の一角に群れをなすように植えられていて、細かな花を連ねて枝を広げる様子は、春の庭にそこだけ真っ白な雪が積もったように見えた。


「それなら、何枝か切って、お部屋に飾りますか?」


 問いかけるとアナスタシアは、少し迷ってから首を振った。


「――いいや。あそこで見る方が綺麗」


 アナスタシアの言葉に、アーシアはにこりと笑う。言葉使いや仕草はほんのちょっと乱暴でも、もともと優しい少女なのだ。


「そうだ、午後は衣装合わせがありますよ」

「継承式のなら、こないだやっただろ?」


 あれほど楽しみにしていたのにもう忘れてしまったのかと、アーシアは可笑しそうにアナスタシアを見つめた。


「そうではなくて、三日後の夜会のお召し物です。西の迎賓館で開かれる。今日出来上がってくるんですよ。素敵な仕上がりになっているといいですね」


 アナスタシアは思い出して大きな瞳を輝かせた。

 それは、アナスタシアが主として賓客を迎える、初めての夜会だ。まだ継承式前であるため、小範囲に招待状を出す内々のものだが、それでもアナスタシアにとっては心華やぐに十分だった。


 アナスタシアの後見人である大叔母は、その為に新しく美しい華やかな衣装を仕立てさせた。

 滑らかな最高級の絹をふんだんに使った、裾がすうっと長くて、少し襟刳りも多めに取られた大人っぽい衣装で、それを着るのは年頃に差し掛かったアナスタシアには何より楽しみな事だった。

 それに、華やかな夜会。


 何度か行った事がある夜会や園遊会は、皆美しく着飾って、音楽が鳴り響いて、しかも美味しいものが食べられ、いい思い出ばかりだ。ちなみにアナスタシアはそこまで知らないが、夜会などはその家の面子にかけて、どこも普段の晩餐より上等な食卓を用意する。

 とにかく豪華だろう食卓とこれから来る衣装を思い浮かべ、アナスタシアはうきうきと声を弾ませた。


「あの服は、青い色がいいよな。アーシアの髪と、目の色。キレイ」

「貴方は、どんな色でもお似合いになりますよ」


 アーシアの言葉を受けて、アナスタシアは一層頬を輝かせた。


「誰がくるんだっけ? 同い年のヤツとか来る?」

「今回は内々の御披露目ですから、恐らくどの家もご当主がいらっしゃると思いますよ」

「……つまんなーい。新しい知り合いが出来ると思ってたのに、親爺どもばっか?」


 頬を膨らませてぷいと横を向いたアナスタシアの、僅かに曇った深紅の瞳に、束の間アーシアは言うべき言葉を探した。

 アナスタシアが悔しそうな顔で帰って来たのは、つい十日ほど前だ。


『皆、私とはもう会えないって。騙してたとか言うんだ』


「――すぐ、色々な方とお知り合いになれますよ。ご当主をお招きしていますが、そのお家のお子様方もご一緒されるのは良くある事ですって。ですから、きっとお年の近い方がいらっしゃるのではないですか?」


 アナスタシアはこれまで度々、周囲の眼を盗んでは、城下の街に遊びに行っていた。そこで会った同年代の子達と仲良くなったと、アーシアにだけこっそり、嬉しそうに耳打ちし、「今度皆を、アーシアにも会わせてあげるんだ」とニコニコしていた。

 生憎アーシアが彼等に会う機会はかったが、ここ一年くらい、アナスタシアはそんなふうに笑っていただろうか。


 それが、つい先日、今にも泣きそうな顔で帰って来て、部屋に閉じこもりしばらくはアーシアの呼び掛けにも答えなかった。

 何があったのかはアーシアにも想像は出来た。

 彼等はアナスタシアの身分など知る由もなく、それだから、アナスタシアがアスタロト公爵家の娘だと判った時に、驚いたのだろう。


 アナスタシアにとってはもう当たり前で、言わなくても気にならない事でも、アナスタシアが公爵家の娘である事、それは厳然とした事実として、周囲と大きな隔たりを生むものでもある。

 この国の最高位の貴族として、眼には見えない、けれども明確な線が一つ引かれてしまう。

 それ以来、アナスタシアは街に出掛けなくなった。


 そっと扉が叩かれ振り向くと、女官の一人が両開きの扉の片方を開けて立ち、静かに頭を下げた。


「アナスタシアお嬢様、コットーナ伯爵夫人がお見えです。こちらにお通しいたしますか?」

「ああ、そうして」


 アナスタシアは女官に頷くと、大叔母を迎える為に、座っていた窓際の椅子からぴょんと降りた。美しい庭園とはいえ、身分のある相手を迎えるのはやはりきちんとした卓でなくてはいけない、とアーシアから何度も言われている。

 アーシアは広い居間の中央に置かれた、これも部屋の大きさに比例して長い卓の一方の椅子を引いた。すたすたと歩み寄り、アナスタシアがアーシアの引いてくれた椅子に腰掛ける。


 アーシアが新しい茶器の準備に部屋を出るのと入れ違いに、廊下に面した扉が開き、大叔母エレノア・コットーナ伯爵夫人が姿を見せた。


 ふくよかな体型に、少し目尻の下がった薄い灰色の瞳でニコニコと笑いながら、エレノアは両手を広げてアナスタシアに歩み寄った。


「元気そうで何よりですこと、アナスタシア」


 改めて立ち上がったアナスタシアをぎゅっと抱き寄せ、品の良く高い声でそう告げる。

 アナスタシアにとっては大叔母、先代アスタロト公爵にとっての叔母だ。先代アスタロト公爵は血縁が少なく、アナスタシアには一番近い親族だった。

 というよりアナスタシアは、他の親族など顔も大して覚えていない。単純に、理由は、嫌いだから。


 エレノアはアナスタシアが爵位を継ぐまでのごく短い期間ではあるが、アナスタシアの後見人を任ぜられていて、アナスタシアに代わって式典の準備を負っている。


「エレノア叔母上も、お元気そう。……何かいい事があった?」


 この大叔母はいつもにこやかだが、今日は特別、そんな印象を受ける。結構強く抱き締められて多少の苦しさを覚えながら、アナスタシアは何かあっただろうかと思いを巡らせた。


「あらあら」


 エレノアはアナスタシアを放すと、卓の反対側まで行って、案内の女官が引いた椅子に座った。


「貴方と、明後日の夜会の段取りを話しに来たのよ。それに衣装も出来上がってくるでしょう? 楽しみで」


 丁度戻ったアーシアが丁寧に置いた茶器に手を延ばす。丸いふくよかな手が、指先まで非常に優美に動く。


「そういえば今日は、ブラフォード様から贈り物が届いたのではなくて?」

「そう?」


 アーシアはエレノアに見えないように苦笑を浮かべ、そっとアナスタシアの耳元に囁いた。


「先ほど召し上がったでしょう」

「あっ、あれね! 旨かった!」


 エレノアは何やらひどく残念そうに溜息をついた。


「貴婦人がそのような言葉使いをなさるものではありません」


 エレノアはすぐに貴婦人という言葉を使う。貴婦人はこうでなくてはいけない、貴婦人はああしてはいけない。

 アナスタシアにとっては面倒な事ばかりで、第一何を以て貴婦人というのか理解し難いものがあるのだが、反論すると倍になってお説教が帰ってくるので、とりあえず言い直してみた。


「美味しかった」


 隣でアーシアが「それも違います」と小声で囁く。エレノアはやや引き攣りながらも穏やかな笑みを崩さず頷いた。それが貴婦人の嗜みというものらしい。


「……それは良かったわ。それで、お礼状など、もうお返し?」


 まるで考えてもいなかったアナスタシアは、きょとんと大叔母を見返した。


「何それ」


 エレノアは信じられない言葉を聞いたと言わんばかりに、長い長い息をついて額に丸い手を当てる。


「アナスタシア……。贈り物を戴いたら、お礼状をお返しするのは礼儀ですよ。――まさか、今まで一度もお礼をお伝えしていないのではないでしょうね」

「うん」

「――」


 エレノアは黙り込んだ。


「だって全部返してたらそれだけで一日終わるじゃないか。勝手に送ってくるんだもん」


 悪びれる気配のないアナスタシアを眺め、灰色の瞳に呆れた色を浮かべて、エレノアは何度も首を振った。

 アムネリア――先代アスタロト公はアナスタシアを自由に育てすぎたのだと、エレノアはアナスタシアと会話する度にそう思う。


(それは、あまり構ってやれる時間はなかったかもしれないけれど……)


 ふう、ともう一度息をつき、エレノアはアナスタシアを真っ直ぐ見つめた。


「勝手にって――。とにかく他の方はともかくも、ブラフォード様には貴方、お返ししなくては」

「何でブラフォードだけ返すのさ」

「それは、貴方」


 当然、ブラフォードがベルゼビア侯爵家の次男だからだ。アスタロト公爵家と並ぶ四大公爵家の一つと他の青年達とでは、当然それなりの対応の仕方がある。そうエレノアが言うと、アナスタシアは一瞬、眉を顰めた。


「そういうもので判断するのは間違いなんじゃないの? お礼を言うなら全部に言うべきでしょ。でもそうしたら一日ずーっとお礼言ってなきゃいけないし、別に向こうが勝手に送りつけてくるんだから、お礼が欲しいならお礼を言ってくれる相手に贈るべきで、要は贈る相手を間違えてるって事なんじゃん」


 何となく理に適っているようでやはり乱暴とも言える物言いに、エレノアは溜息をついて膝の上に両手を組み、椅子の上で背筋を伸ばした。


「いいこと、アナスタシア。我々貴族社会のお付き合いとはそうしたものではありません。貴方はもう公爵の位を継がれるのですよ。そうなれば、誰彼となく気儘にお付き合いできるものでもありません。貴方はこれまで度々館の者達の眼を盗んで城下へ降りていらしたようですけれど、そのような事は今後一切してはなりません。この先どなたとお付き合いをしていくか、それはとても重要」

「うるさいな!」


 噛んで含めるような大叔母の言葉を途中で遮って、アナスタシアはぷいと横を向いた。


「私はこれからだって好きな相手と付き合うし、好きじゃない相手とは付き合ったりしない」

「まあアナスタシア、そのような訳にはいかないのですよ。公爵家というのは」


 また長くなりそうだとアナスタシアが弓なりの眉を顰めた時、扉が叩かれ、再び先ほどの女官が顔を出した。


「お話中失礼いたします。アナスタシアお嬢様、衣裳のご試着の準備が整いました。二階の南翼の採寸室へお越しくださいませ」

「はーい」


 アナスタシアはこれ幸いとさっと立ち上がり、大叔母に舌を出して見せてから、悪びれずにっこりと笑った。


「いきましょ、叔母上。試着を楽しみに来てくださったんでしょ?」


 そう言うとアーシアを伴い、すたすたと部屋を出て行ってしまう。エレノアとしては、何も今日に限るわけではないが、もう少しゆっくりこうした話をアナスタシアとしたかった。


 例え公爵家というこれ以上にない位にあったとしても、周囲との付き合いというのは疎かにできないものだ。特にアナスタシアはまだ十四になったばかりだ。言ってしまえば個人の下地はない。

 公爵として社交界や政治の場に出て行く以上、相手を厳選した上で、相応の付き合い方を身に付けていく必要があるのだが、アナスタシアは全て一から始めなくてはいけない。


「……明後日の夜会が滞りなく進めば、少しはその心配も減るのでしょうけど」


 一度首を振って、エレノアはアナスタシアの後を追って重い身体を上げた。







 執事のファーガソンへ明後日の夜会の手順を全て伝え終わると、エレノアは一旦コットーナ伯爵家へ戻る為に席を立った。明日、また夕刻には入って、それからは夜会の準備にかかりきりにならなければいけない。


 本来はアナスタシアも同席させて采配を学ばせたいところだが、今回ばかりはアナスタシアが居ない方が都合は良かった。

 この場に居てエレノアの意図を知ったら、昼のあの調子であればおそらく夜会など取り止めにすると言い出すだろう。


「皆様、ご出席のお返事は頂いた?」

「はい。ご招待した方は全て、喜んでとお返事がございました」

「ベルゼビア公爵家と、ヴェルナー侯爵家も?」

「はい」


 ファーガソンは微かな懸念に近い色を浮かべたが、エレノアはそれを聞いて、にこりと満足そうに笑った。

 ここでその二家とも欠席となっては、せっかくの夜会が台無しになってしまう。エレノアの調整能力の無さ故と、一族の謗りも買うだろう。


「そう、それは良かったわ。アナスタシアの盛装はとても綺麗だったから、お二人とも気に入ってくださるでしょう。あの子は本当に、アムネリアに似て綺麗。……あと少し、貴婦人としての自覚を持ってくれればねぇ……」


 アナスタシアの言動を思い出して、エレノアは深く息を吐いて肩を落とした。


「それも、あの方らしくてお可愛らしゅうございますよ」

「それは、あなた達はねぇ。すっかり甘やかしてしまって」


 ファーガソンは黙って頭を下げた。

 とにかく明後日は、宴席の主として恥ずかしくない立ち居振る舞いを、と口を酸っぱくして伝えてある。ほんの少し、いや、多大に心配はあるものの、アーシアにも先ほど言い含めてはいる。アーシアから言われれば、アナスタシアも少しは大人しくしてくれているだろう。


 ただ―――、アーシアが言えば素直に聞くのは有難いのだが、いつまでもあの二人も一緒に居させるのは問題がある。


 エレノアとしてもアーシアを厭う訳ではないが、今度の事が決まれば、おそらくアーシアをアナスタシアの傍に置いておく事はできなくなる。それをどうアナスタシアに納得させればいいだろう。


「やれやれ、継承式までに随分と先が思いやられるわ」


 そう呟いて、ファーガソンに見送られて、エレノアはアスタロト公爵家を後にした。





 ファーガソンはアナスタシアが暮らすこの館の一切を取り仕切る執事だ。白髪を清潔に撫で付けて、服装も態度もアスタロト公爵家に相応しい落ちつきと慎みがある。

 繁忙な館内の諸事をこなす傍ら、アナスタシアの生活についても、ファーガソンが手を抜く事は無かった。


 アナスタシアがそろそろ睡眠の準備を整えるころになると、ファーガソンは部屋へ就寝の挨拶に伺う。その時刻は常に正確だ。

 まだ起きていたいと思っても、容赦なく就寝を告げられ、着替えの為の女官達を素早く送り込まれる。


 扉の叩く音と共に、今日もファーガソンは時間ぴったりにアナスタシアの部屋へ訪れた。


「アナスタシアお嬢様、就寝のお時間でございますよ」

「もうちょっと。今アーシアと決戦中なんだ。私が勝って締めくくるんだ」


 窓際に置かれた卓をアーシアと向かい合って座り、アナスタシアは顔を上げる余裕もなく手元の札を睨んでいる。アーシアは少し困った笑顔のまま立ち上がり、ファーガソンへお辞儀した。

 その様子を受けて、ファーガソンは顎を上げて澄まし返ると、一つ咳払いをした。


「アーシアに勝つまででは、夜が明けてしまいましょう。明日になさいませ」

「勝つんだったら!」


 アナスタシアはむきになってつんと顔を反らせる。その頬の色とへの字になった口元で、今日の彼女はずっと勝っていない事が伺えた。


 自分からアーシアを誘うくせに、敗けが込むとアナスタシアは次第に不機嫌になってくる。アーシアの方がいつも上手で、アナスタシアは基本不機嫌だ。だが、アーシアがわざと敗けようものなら、翌日のお昼まで口を聞かなかった。

 ファーガソンは少し厳しく顔を引き締めてみせた。


「いけません」

「――やだぁっ、もうっ!!」


 敗けた状況のまま終了を託宣され、アナスタシアは自棄を起こして札を宙に撒き散らした。


「アナスタシア様」


 アーシアが嗜めるように眉を寄せると、アナスタシアは再び顎を反らせる。

 ファーガソンはそんな様子さえ、慈しみと、一抹の淋しさを持って眺めた。


 継承式が済めば、アナスタシアは当主として本邸に移る事になる。アナスタシアがこの館で過ごすのは、もうあと僅かの間だ。

 それは誇らしい事でもあり、淋しい事でもあった。


「もうすぐ継承式なのですね……」


 つい涙ぐんでしまい、ファーガソンは胸元から取り出した手布で目頭を押さえた。


「蝶よ花よとお育てし、お仕えしてきたお嬢様が……」


 ふと顔を上げたファーガソンの目の前には、足を投げ出して卓に頬杖をつき、ふてくされておもいっきり頬を膨らませているアナスタシアの姿がある。

 ファーガソンはがっかりと肩を落とした。


「……このように――」

「なんだよっ!」


 深い悲哀の溜息を洩らした執事を睨み、失礼しちゃうなぁっとアナスタシアは唇を尖らせ、アーシアが隣で乾いた笑いを浮かべる。


 やはりもうこの光景も自分が見る機会は少なくなるのだと、ファーガソンはまた目尻を押さえた。アナスタシアはふてくされていた事も忘れたように、ファーガソンに寄って、その肩に手を置き彼の顔を覗き込んだ。


「……そんなに淋しがるなよファーガス。ちょくちょく戻ってくるからさ。同じ敷地内なんだし」


 当然アナスタシアはそのつもりでいる。何と言っても、この館の皆はアナスタシアにとって家族のようなものなのだ。


「ちゃんとお菓子を用意しておいてよね。アーシアの分もね」


 にっこり笑ったアナスタシアに、ファーガソンもアーシアも顔をほころばせて頷いた。






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