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第十一章「剣(つるぎ)」 一

 天空に、ぽかりとまるい夜空が覗いている。切り取られた夜空に散りばめられた星とちょうど中天に上った月が、奇妙なまでに美しかった。

 風の音は既に止んでいた。

 黒竜の吐いた酸の息が、人の手と自然が作り上げた風穴を地上まで吹き溶かしたからだ。


 黒竜の咆哮は再び穿たれた深い縦穴の岩壁に反射し、幾重にも降り注ぎそこにいる者達の耳を聾した。

 磨き上げられた黒耀の鱗を纏う、太古の竜。光を弾く金の両眼には一切の慈悲も無い。

 おそらくこの西の地の竜達にとってさえ、黒竜の存在は脅威ではなかったのかと、レオアリスはそんな事を思った。


 レオアリスやアーシア、ワッツ、兵士達にボルドー等法術士達、そこにいる誰もがその存在から放たれる圧倒的な力の前に、呼吸を忘れ、凍りつき立ち尽くしていた。足元の黒竜はその巨体には狭いと感じさせる地底の闇の中で、ゆるりと首を巡らせた。

 ボルドーの張った光の盾が、レオアリス達の足元で限界を訴えて瞬く。光が弱まる毎に、足元の黒竜の姿が透けて見えた。


「このままじゃ、落ちる」


 レオアリスが膝をつき足元の盾に触れるのを見て、ワッツも我に返った。彼等は十数名ほどが光の盾を筏のようにして、まるい夜空と地底の黒竜との間に不安定に浮かんでいる。

 川面に投げられ喰らい付かれるのを待つ、浮き餌のようだ。


「ボルドー中将!」


 ワッツはボルドーの名を呼んで上空を振り仰ぎ、削られ変わり果てた光景にぎくりと息を飲んだ。

 その一直線に穿たれた長い縦穴の途中に、ボルドー達もまた幾つかの光の盾に守られ、ワッツ達の少し上に浮かんでいる。


「――無事だ、全員……」


 無理矢理押し出された声は語尾が擦れている。ボルドーは黒竜の酸の息がもたらした結果に打ちのめされていた。たった一吹きがこれ程の破壊を生むとは、ボルドーの想定を越えていた。

 だが今二撃目を食らえば法陣は保たない事を、ボルドーも理解している。


 退くか、封じるか。

 封じる事ができるか。


 不安に駆られた心を、思いもかけない強い声が打った。


「全員無事なら、封術はできるよな」


 見れば、レオアリスがボルドー達を見上げている。自らも術を扱う少年ならではの、高位の術士に対する信頼に似たものが、その瞳の中にある。


「――可能だ」


 ボルドーは早口で答えた。レオアリスは嬉しそうな顔をして、隣にいたワッツにそれを向ける。


「なら、俺達で術ができる場を整えればいいんだ」

「……何が俺達でだ。ガキが首突っ込むんじゃねぇ」


 ワッツは苦虫を噛み潰した顔でレオアリスの頭をはたいたが、その上にはいつもの彼らしい表情が戻っていた。他の者達もまた、レオアリスの単純すぎるとさえ言える明確な言葉に、呪縛から解かれたような顔をしている。

 結局それしかすべき事はないのだ。

 怯えている時間はない。


(にしてもこのガキ、怖くねぇのか。いや)


 つい先程までは、黒竜の姿に、確かに息を飲んでもいた。だが今はもう、レオアリスは漆黒の瞳に光を刷いて、黒竜を見据えている。

 その光は、彼の瞳に見えているものは、ワッツ達とは全く違うものなのではないかと、そう感じさせた。

 黒竜の脅威ではなく、黒竜を封じる為のはっきりとした道筋だ。

 その瞳の色に導かれるように、ワッツの中にもまた、微かな道筋が浮かぶ。


「――降りる。ボルドー中将、俺達が先払いする、盾をこのまま降ろせるか?」

「その状態ではもう無理だ。新しく盾と、降下の手段を作ろう」


 ボルドーが頷いて傍らの術士に目配せし、術士が詠唱を始める。ワッツはレオアリスを押しのけて、彼が不服そうな顔をするのを構わず、兵士達を見回した。


「とにかく、奴が動く前に動く。酸の息は厄介だが、吐くまでに時間がある。光が見えても、そこから潰せる」


 その潰す事自体が困難で、例え酸の息を止めたとしても黒竜の身を傷つける術をワッツ達は持っていなかったが、ワッツはそれには触れずに兵士達を鼓舞するように強い口調で言い放った。


「半刻耐えろ。凌ぎきれば、半刻後には奴は檻の中だ」


 流れていた詠唱が止む。

 しゅる、と何かの擦れる、小さい音が聞こえた。音の方を探れば、縦穴の壁から、青く細い蔦が幾筋も伸びている。


「これで降りろってか。まるで降下訓練だな」


 ワッツは呆れて、剃り上げたごつい頭を撫でた。

 頭上の動きを感じ取っているのか、黒竜はゆっくりと身を揺すり、低く喉を鳴らした。金の両眼が一人一人の上を過ぎる。

 その眼には、彼等が何をしようと無駄だとでも言うような、――それどころか、全く意に介していない、まるで石くれでも見るのにも似た光が浮かんでいる。

 たった今呼び起こされていたはずの希望が、再び萎縮していきそうだ。


「中将、封術の準備を」


 再び黒竜に圧倒される前にと、シアンが早口でボルドーを促し、仲間の術士達を振り返った。


「地上の部隊に伝令使を飛ばして。皆配置に着く……」


 空を切る鋭い音と共に、尾が光の盾を掠めた。縦穴の岩壁を撃ち、砕く。

 黒竜は広げた翼を震わせた。


 飛ぶ。


 風を巻いて浮かび上がると、黒竜は丸い空を目指した。飛び立つのに邪魔な物を振り払うように、盾目がけて長い首が打ち付けられ、その衝撃に盾は呆気なく砕けた。乗っていた十数名が縦穴に放り出される。

 だが黒竜も盾の最後の力に押し返され、再び闇に降りた。


 咄嗟に術士が術を唱え、壁から下がっていた蔦が急激に伸びて、落下する兵士達の身体に巻き付く。ワッツは腹に巻き付いた蔦に振り子のようにぶら下がりながら、手近な兵士の腕を掴んだ。


 レオアリスは盾の端に寄っていたせいで、遠くに弾かれた。目の前に伸びた蔦を掴もうとして、手が空を切る。

「ガキ!」 ワッツはもう一方の手を伸ばしたが、蔦は反動で大きく揺れ、掴みかけたレオアリスの腕を僅かに掠め、擦り抜けた。


 落ちていくレオアリスの眼下に、黒竜の(あぎと)が開く。


「レオアリスさん!」


 喰われる、と思った瞬間背中が硬いものに当たり、レオアリスの身体がふわりと浮かんだ。そこがアーシアの背の上だと気付き、レオアリスは身を起してほっと息を吐いた。アーシアはぎりぎり黒竜の牙を躱し、翔け上がる。


「助かった」


 だが一人、間に合わずに、悲鳴を引いて闇を落ちていく。

 ばくん、と重いものが閉じる音がして、悲鳴が途絶えた。


「誰だ、落ちたのは!」

「判りません! 多分、」


 ワッツの怒鳴り声に返したのは、恐らくクーガーだ。


「ちくしょうッ」


 誰かが叫ぶ。黒竜が再び翼を広げる。咆哮が湧き起こり、縦穴を突き抜け怨嗟の如き禍々しい音を引いて散った。


「黒竜を飛び立たせるな! ここで抑える!」


 吹き出した汗を拭い、ボルドーが声を上げる。ボルドー達の乗った光の盾も、咆哮を受けて波の上の木の葉のように揺れた。


「伝令使は!」

「飛ばしました、しかしまだ返答が」

「返答を待って動く時間はない! すぐに散開する!」


 上空ではボルドー達の声が行き交い、足元では黒竜が飛び立とうと翼を広げている。俄かに混乱が満ちた縦穴を、アーシアはレオアリスを乗せたままぐるりと旋回した。


 黒竜の向こう、広げた翼の奥に、揺れる紅い光が一瞬だけ視界を過った。

 闇の中で、微かに、だが確かに紅く踊る、――炎。黒竜の背中辺りだ。

 アーシアが急旋回し、翼が風を鳴らす。


「レオアリスさん、あれ!」

「見えた! 炎だ! カイ、あれだな?!」


 カイが高く鳴き、アーシアもレオアリスもさっと頬を引き締めた。あの炎の先に、アナスタシアがいるのだ。


「レオアリスさん、貴方は降りてください」


 炎に辿り着くには黒竜に近付かなくてはいけない。それは最も危険な、無謀な行為だ。


「お前まであのおっさんと同じ事言うなよ。大体こんな所、どこに居たって変わらないぜ」

「でも」

「どうせここまで来た理由なんて、全部ひっくり返ってるんだ」


 レオアリスがこの森に来た理由。王の御前試合に出る為だ。

 もう途切れた理由だが、まだその事はレオアリスの鼓動を早くした。その目的を達成する道はもう無いとさえ思えるのに、不思議と悔しくは無い。

 今やるべき事は、目の前にある。


「アナスタシアを救け出そうぜ。――これだけは、今さら退けない」


 アーシアは青い瞳に揺らめく光を湛え、それを伏せた。


「――行きます」


 一度上昇し、縦穴の縁から地上へ、月に飛び込むように抜け出す。

 レオアリスの瞳が、ぐるりと回った夜空の端に、幾筋もの旗が靡く様を捉えた。


 夜に溶ける、濃紺の旗。

 正規軍だ。


(封術が、始まるんだ)


 アーシアは翼を羽ばたかせ、急降下を始めた。


「少し、乱暴ですけど」

「一度振り落とされてる、慣れた!」

「掴まっててください!」


 一息に法術士達の脇を擦り抜け、ワッツの前を翔ける。


「ガキ、テメェ等! 戻れッ!」


 蔦が腹に巻き付き、まだ兵士の腕を掴んだ体勢のままワッツが怒鳴る。レオアリスは振り返って怒鳴り返した。


「アナスタシアがいる!」

「何だとォ」

「それと、軍がそこまで来てる!」


 打たれたようにワッツは上空を振り仰いだ。次いで足元の闇の先を探る。どちらもそれらしきものは見当たらなかったが、ぐっと奥歯を噛んだ。


「おい、上げてくれ! いや、降ろせ! 下だ!」


 叫んだものの、蔦からも術士からも、返る反応はない。その間にもアーシアは黒竜に突っ込んでいく。


「あの、馬鹿共ッ」


 黒竜が牙を剥き、翼をひと打ちする。アーシアの小さい身体が、黒竜の起こした突風に煽られ、態勢を崩した。アーシアは制御を失ったのか、切りもみ状態で落ちていく。

 黒竜はアーシアの身体を捉えようと、ズラリと牙の並んだあぎとを開いた。


 ワッツが奥歯を鳴らした時、アーシアの背から雷撃が走り、黒竜の顎を撃った。

 力を失っていたかに見えた青い翼がふいに息を吹き返し、迫った牙を直前で躱して、アーシアは見事なまでに黒竜の目の前から消えた。

 顎が虚しく空を噛み、アーシアを見失った黒竜の首が辺りに巡らされる。


「抜けた」


 安堵に力を抜き呟いたワッツの横を、光の筋が過った。


「今度は何だ?!」


 見ればそれは、法術士達だ。術を施しているのか、光を纏って次々と縦穴を降りていく。地底に降り、封術を始めるつもりなのだ。


「おいコラ、そんな術があるなら俺達を先にどうにかしやがれ! 護衛もくそもねぇじゃねえか!」


 ワッツは苛々と毒づいたが、実際にそれは非常にまずい展開だった。法術士は術の詠唱の間、僅かに無防備になる。

 好むと好まざるとに関わらず、ワッツ達護衛となる兵が付かなくては、術を仕掛けようとしても至近距離では分が悪過ぎる。

 ボルドーがそれを判っていないはずは無かったが、今の混乱で指示が追い付いていないのだ。黒竜がアーシアに気を取られている今が好機だと言うように、急いで降りていく。


「軍がそこにいるったって、地上は態勢整ってんのかよ」

「大丈夫です。布陣は完了してますから」


 ふいに身体かふわりと上がり、今の今まで兵の身体を抱えていた腕からも、掛かっていた負担が消えた。振り返ったワッツのすぐ横にシアンが浮かんでいた。彼女はにこりと笑って、ワッツの肩に触れた。


「下に降ろします。援護を」


 シアンの気丈なようで少し硬い笑顔は、これから来る最後の時への不安を滲ませている。

 封術が失敗すれば、後は無い。おそらくこれが、最後の一手だ。

 ワッツはにやりと笑い返した。


「任せろ」







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