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第一章「春待つ雪」 四

 眠れない。


 暗い夜の帳の中で、レオアリスはごろりと寝返りを打ち、じっと壁を見つめた。

 土壁の内側に、少しでも寒さを凌げるようにと綿と布を張ってくれたのは、祖父だったかハースだったかと、ぼんやりと思い返す。


 御前試合に出たいと言ってカイルに叱られたのは、もう三日も前の事だ。それ以来、ずっと夜は眠れなかった。

 辺りは静寂にしんと冴え渡り、隣室の囲炉裏の炭が燻る微かな音が聞こえてくるほどだ。今日は梟すら狩場を変えているようだった。

 神経はすっかり覚め、眠気は全く感じられない。


 まだ早いと、祖父は言った。

 まだ学ぶ事はあると。

 それは判っている。

 でも、いつならいいのだろう。


 いつまで経っても、自分が祖父達から学ぶ事は無くならないだろう。ずっと、彼等から色々な事を教えて貰いたいと、そう思っている。

 でも、王都で御前試合があるのだ。


 今。


「―――」


 レオアリスは再び寝返りを打った。扉代わりの布を一つ隔てただけの隣の部屋には、祖父が囲炉裏の横で寝ているだろう。

 その姿を思い出し、セトやハース、メイ、ムジカ、剣を打ってくれるエンキ、それから他の、自分をこれまでずっと育てて来てくれた者達を思い浮かべても、その想いは薄れなかった。


(最低だ――)


 そう思ってみても何の効果も無い。藁の寝具の上で身体を丸め込む。

 身体の中心で急かすように鼓動が鳴っている。


 毎年送られてくる書物は、王都に漠然とした憧れを馳せるよすがになった。

 それでも、何故これほどに急かされるのか、レオアリス自身にも知れなかった。王都など想像も及ばないほど遠い場所で、御前試合など冷静に考えれば恐ろしい。


 王についてなど、もっと知らない。

 それで何故、こんなにも惹かれるのだろう。

 じりじりと意識を焦がすような焦燥、開いた瞳の先にさえ浮かぶのは、祖父達の顔よりも見た事もない王の姿だ。

 レオアリスは首に掛けた飾りを右手で握り込んだ。


 ただひたすら若く、己も周囲も知らぬ故の無謀さもあるのだろう。むしろレオアリスが己を知っていたならば、自分がそれほどに焦がれる理由も納得できたかも知れないが、彼はまだ一滴の玉ほども、自らの姿を知らなかった。


 ただ急かされる、その想いだけか現実のものだ。


(――)


 漆黒の瞳が、夜よりも深い色を湛える。

 レオアリスは一度ぎゅっと眼をつぶり、ゆっくりと開いた。


「戻ってくるんだ。これで最後な訳じゃない」


 自らに言い聞かせるようにそう呟くと、そっと音を立てないように寝台から滑り降り、手近な上着を羽織る。

 手元には、これまでに僅かばかり貯めた銅貨と、少しの触媒。それを麻の袋に詰める。


(これだけか……)


 余りの備えの無さに身も寒くなる思いだが、最早すっかり王都を見据えた瞳は揺るがなかった。

 机に寄り、墨の壺と筆を手にとって、少し考えてから数行の言葉をしたためる。一度見直して、それを二つに折り畳み机の上に置いた。


 一旦は窓から出ようと思って、再びレオアリスは考えるように動きを止めた。踵を返す。

 一目祖父の顔を見て、扉から出ようと思った。

 出るのも戻って来るのも、ちゃんと扉からだ。


 そっと布をからげ部屋を出ると、僅かに足元の床が軋んだ。どきりとして寝ている祖父に視線を走らせる。カイルは深く眠っているのか気付く様子が無い。

 急速に沸き上がった淋しさをぐっと噛みしめ、レオアリスは息を殺してその脇を抜けた。


 扉を開ける前に一度振り返り、ずっと育って来た家の中を見渡した。

 祖父の膝の上で聞いた物語や様々な言葉。どんなに寒い冬も、それだけで暖かかった。


(絶対戻って来るから)


 そう心の中で呟いて、レオアリスは扉を開けた。







 戸外は月の無い夜で、積もった雪のぼんやりとした白さだけが漸く見分けられる。それはまるで自分のこれからの不確かな道行きを暗示するようで、閉じた扉の前でレオアリスは少し躊躇した。


 今ならばまだ暖かい家の中に戻れる。

 でも多分、そうしたら二度とこの村を出ようとは思わないだろう。


 決別ではないのだと自分に言い聞かせ、無意識の内に王都に座す王の姿に想いを馳せて、さくりと闇の中の雪を踏んだ。





 闇夜でも慣れた村の中はレオアリスを容易く導き、あっけないほどすぐに街道の石畳に出てしまう。

 凍った石畳が返す硬い足音に、心臓の鼓動が重なって響く。


 歩むに連れて、夜の闇の中から薄白い木立がゆっくりと現われてくる。その先の闇は、まるで空気ではなく何かねっとりとした不気味な固まりのように感じられた。ひっそりと息を潜めた何かを孕んでぐっと迫ってくるようだ。


 辺りは死んだように静まり返り、何故今晩に限って鳥も鳴かないのかと不満すら覚えたが、この闇の中で梟の呼び声がしたら、逆にレオアリスは飛び上がっていただろう。

 自分が不安を感じているのだと極力意識しないように、レオアリスは首に巻いた布に顎を埋めるようにして、ただ視界に現われてくる街道を辿った。


(もう少し――)


 何度目かに闇の向こうに視線を凝らした時、漸くそれが見つかった。勢いを得て駆け寄る。

 それは先日剣を隠した木のうろだ。しゃがみ込み手を差し入れると、氷のように冷えた鞘が手に触れた。


「布か何か巻かないと凍傷になるな……」


 そう言いながらレオアリスは剣を引っ張り出し、じっとその姿を眺めた。

 無骨な、戦いの為だけに打たれた剣は厚く少し重過ぎるが、それで漸く、ほんの僅かに不安が薄れた気がする。


 息を吐き出し、首に巻いていた布で剣を被おうとした時、木のうろの中にまだ何かが入っている事に気が付いた。

 昔隠して忘れていたものだろうかと手を伸ばし、目の前に持ち上げる。小さな袋だ。少し重く、中でしゃらりと音が響く。それから、もっと別の硬い感触――


 雪の上にひっくり返すと、数枚の銀貨と、葉に包んだ幾つかの固まり、それから一冊の巻物が転がり落ちた。


「――」


 レオアリスは息を飲み、束の間言葉もなくそれを見つめた。

 書き置きも何もない。

 それでも、飛竜を借りるのに足りるだけの銀貨と、サラの根で作った保存食。巻物は見た事もない大気系の法術書だ。


 じわりと込み上げたものを振り払うように、慌ててそれをかき集めて袋にしまい、ぐいと顔を上げて立ち上がった。


 おそらくこの先様々な出来事に直面した、そのどんな瞬間よりも、この時が一番、レオアリスが彼等の許に帰りたいと、弱く、強く、願った瞬間だっただろう。


 頬から零れた滴が僅かに雪を溶かした、その跡に背を向けて、レオアリスは南へ延びる街道を力強い足どりで歩き出した。








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