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第九章「声」 三

「ここだ」


 ワッツは天幕の布を持ち上げ、レオアリスに入るように促した。一歩足を踏み入れて、レオアリスはぎくりと動きを止めた。


 暗い天幕の中に、ぼんやりとした人影が見える。寝ているのかと思っていたが、アーシアは入り口に背を向けてじっと座り込んでいた。その後ろ姿は思わず息を飲む程、全く生気が感じられない。

 首を垂れ肩を落とし、ぴくりとも動かない様子は、呼吸をしていないのではないかと思える。まるで人形が置かれているようだ。


「アーシア……」

「……表にいるぜ」


 ワッツはそう言って、持ち上げていた入口の布を戻した。


 躊躇いがちに、レオアリスはもう一度、そっとアーシアの名を呼んだ。アーシアは身動ぎ一つしない。

 ゆっくりと回り込み、正面にしゃがんで、俯けた顔を見つめる。青い前髪が頬にかかり、アーシアの表情を隠している。


「アーシア? 大丈夫か?」


 ふと、膝の上に投げ出したアーシアの両手が目に止まり、レオアリスは息を詰めた。十本の指には包帯が巻かれ、その全てに、赤く血が滲んでいる。

 崩れた土砂を掘り返そうとした跡だ。


 視線を上げると、アーシアの見開かれた瞳と視線が合った。

 ぎくりとして、それから、その瞳が自分を映していない事に気付く。

 アーシアの瞳は何も映していない。瞬き一つせず、ただの硝子玉のようだ。そこにはあの穏やかな、柔らかな光の面影は全く無かった。


「――」


 アナスタシアを目の前で失った事で、アーシアは全ての感覚を――、生命すら手放してしまったかのようだ。


 アーシアと話す為に――尋ねる為に来たのだが、それはできそうもなかった。

 今更ながらに、何故自分はあの時、宝玉などと余計な事を言ってしまったのかと、怒りが沸き上がってくる。


『剣光が証明している。お前は剣士だ』


 胃の辺りがどくりと脈打ち、熱を増す。


 青白い光を纏う長剣。


 ぎり、とレオアリスは唇を噛みしめた。


(剣士だって言うなら――)


 初めからそうだと判っていたら――戦えたら、良かったのだ。

 チェンバーもアナスタシアも、アーシアも、もっと違う結果があったのではないか。


(俺は、何にもしようとしなかった……)


 ウィンスターの言葉を信じなかったのはレオアリス自身だ。

 あの時信じたからといって、何ができたという保証もない。だが、今のレオアリスの頭にあるのはそんな事ではなかった。


 自分に抑えようのない苛立ちを感じる。殴り付けたい程だ。

 ぐっと両手を握り込み、剣など現われそうもないその腕を振り上げ、足元に叩きつけた。


「ちくしょう……」


 鈍い音にもアーシアはぴくりともしない。


「……俺が」


 悔しい。

 何もできない自分が。


 誰かの苦痛を前にして、こうして苛立ちをぶつけるしか術の無い自分が。


 何よりも悔しかった。


(――)


 何の術もないとしても――

 レオアリスは床に額を落としたまま、絞るように呟いた。


「俺が必ず、アナスタシアを連れ戻して来るから」


 変化は劇的だった。


 アナスタシアの名を聞いた途端、それまでぴくりとも動かなかったアーシアが、唐突に叫び声を上げた。


「アーシア!?」


 驚いて瞳を見開いたレオアリスの前で、アーシアはまるでそこがアナスタシアが落ちた場所だというように、ひたすらアナスタシアの名を呼びながら、布で覆われた床を掻き毟り始めた。

 既に壊れていた爪先から、新しい血が飛び散る。


「アーシア!」


 慌ててアーシアの身体を抱き止めようとして、思いもかけない力で弾き飛ばされた。


 騒ぎに天幕の布を繰って、ワッツが飛び込む。だが丸太のようなワッツの腕すら弾いて、アーシアは叫び続け、足元を掘り続けている。

 涙もない叫びは悲鳴のようで、余りの悲痛な響きは、聞く者の心を鷲掴みにして潰そうとする。


 レオアリスとワッツは二人掛かりで漸く、アーシアを床から引き剥がした。床を覆う布は引きずるような血の跡を残して捲れ上がり、引きちぎられている。


「アーシア! アーシアっ! 落ち着けよ!」


 レオアリスはアーシアの肩を掴み正面から覗き込んだ。だがレオアリスの声など全く届いていない。

 アーシアは虚ろに瞳を見開き、焦点の定まらない乾いた瞳を宙に向けてアナスタシアの名を叫び、尚も足元へ腕を伸ばす。


「アーシア、聞け!」


 アーシアの手がレオアリスの胸を打ち、レオアリスは弾かれた。倒れ込んだそのまま、レオアリスは身を起こす。


「っ……アーシア!」

「無理だ、止めろ!」


 ワッツは闇雲に腕を振り回すアーシアの身体を羽交い締めにして遠ざけようとしたが、レオアリスは腕がぶつかるのも構わず、もう一度アーシアの肩を掴んだ。


「アーシア! ――アナスタシアは生きてる!」


 びくりとアーシアの動きが止まった。唐突なレオアリスの言葉に、ワッツは唖然として、不安そうにアーシアの向こうにある顔を見つめる。


「おい……そんな事言って」


 だがレオアリスはアーシアの意識を引くように、肩を揺さ振った。本当はそれを告げる為に、彼に会いに来たのだ。

 アーシアになら、それが判るはずだからだ。


「お前、言ってたじゃないか! アナスタシアがお前に力をくれてるって!」


 アーシアの瞳に、微かな光が過る。レオアリスは術を紡ぐように、言葉に力を籠めた。


「お前が今、生きてるんだ。それは、アナスタシアからの力が途絶えてないって事だろ?」


 息を飲み、事情を飲み込めないまま二人を見比べているワッツの前で、レオアリスは一言一言区切りながら、はっきりと告げた。


「だから、アナスタシアは生きてる。お前が一番、判るはずだ」


 がくりと、アーシアの身体から力が抜ける。


 瞳の焦点がゆっくりと結ばれ、乾いた瞳に涙が沸き上がった。


「……アナスタシア様……」

「そうだ」


 黒竜の気配に遮られた事で、アナスタシアがあれ程近くに居ても意識を失ったのだ。アナスタシアが命を落としたとしたら、更にひどい事になるのではないかと、そう思い、ワッツの言葉に対して疑問が生じた。

 悲しみに打ち拉がれていても、今、瞳に光を宿したアーシアを前にして、レオアリスの予想は確信へと変わっていく。


「生きてるよ、絶対」


「――生きて」


 完全に力の抜けたアーシアから、ワッツが腕を解く。


 放心したような長い沈黙の後、アーシアは喉を詰まらせ、身体を丸め、堰を切ったように泣き出した。

 ワッツは戸惑って、アーシアから離して浮いた手をどこへ持っていくべきかとあちこち動かす。


「おい、一体何なんだ。お前、何の話をしてたんだ?」

「――後で話すよ。俺、落ち着くまで暫くアーシアを見てるから」


 レオアリスの言葉にはどこか有無を言わさない響きがある。ワッツはレオアリスとアーシアを見比べ、躊躇いながらも頷いた。


「後で事情を説明してもらうからな」


 そう言い指してワッツが天幕を出るのを見送り、レオアリスは再びアーシアに視線を戻した。


 アーシアはまだ身体を震わせて啜り泣いている。その嗚咽を聞いている間、レオアリスはアーシアの背中をなぜていた。


 次第に嗚咽は小さくなり、やがて呼吸を落ち着かせて、アーシアは身体を起こした。


「――すみません」


 自分の状態をどれほど覚えているのか、アーシアは恥ずかしそうに顔を伏せている。


「謝る必要ない。――」


 レオアリスはアーシアの腫れ上がった目元をじっと見つめた。

 深い疲労は見えるものの、先程までの抜け殻ような状態とは全く違う。

 アナスタシアが生きていると確信し、ただその事で、アーシアは血の通った存在になった。


「アーシア、アナスタシアは」


 確認するように尋ねるレオアリスの言葉に、アーシアは跳ねるように、力強く頷いた。


「力が、途絶えてません。本当に……アナスタシア様は――、生きています」


 ほっと息を吐き出し、レオアリスは知らず知らずに身体に込めていた力を抜いた。


「そうか――」


 良かった、と声にならないまま呟く。


「僕、助けに行かなくちゃ――」

「待てって! 今言ったって、軍に任せろって言われるに決まってる」


 レオアリスは立ち上がろうとしたアーシアの手を掴んで止めた。

 本当は軍に任せた方がいいのかもしれない。だからこれはレオアリスの勝手な思いだ。チェンバーのあの姿を見た時から、決めていた。


「軍に言う前に聞きたいんだ」

「え」

「アナスタシアがどこにいるか、お前は判るか?」


 レオアリスの眼差しは、アーシアにはそれが判ると始めから信じている色がある。アーシアは暫く迷い、頷いた。


「多分、まだ丘の辺りに。近付けば、はっきり判ります」

「近付けば、か――」


 レオアリスは眉を寄せ、口元に手を当てた。

 それでは困る。近付かなければはっきり判らないのでは、アーシアがいなければ話にならないという事だ。


(カイなら判るか……?)


 アーシアから視線を外し、天幕の向こうを透かし見た。

 その先にある、丘。

 唇を噛みしめるように引き結ぶ。

 今は生きている事さえ確認できれば、それでいい。アーシアを連れていく訳には行かなかった。


(別の入口も、カイなら軍より先に探せる)


 そのやり方は間違っているかもしれない。愚かなやり方かもしれない。ただ、例えばワッツに告げたら、彼はレオアリスが行く事を認めないだろう。

 いっそウィンスターにでも言えばいいのかもしれないが、軍と共に行動して、また自分を庇わせるのも嫌だ。剣士だと言われても、どうすればいいのかすら判らない。

 それにレオアリスは、今すぐにでも探しに行きたかった。


「ありがとう――軍に言えば、対策を考えてくれるはずだから」


 今軍に告げても、軍が動くまでにはまだ時間がかかるはずだ。今の兵力では、黒竜と対峙する決め手が無い。

 援軍が来ると言っていたが、まだその気配は見えず、地底への入口を探すのも、おそらくまだ時間が必要だろう。


(探索なら、俺一人の方が早い)


 大勢でいくよりも、ずっと黒竜にも気付かれ難いはずだ。

 できる限り早く、アナスタシアを見つけて、連れて帰る。

 レオアリスは立ち上がった。


 急がなくてはいけない。アナスタシアは生きているとはいえ、どんな状況かまでは判らないのだ。

 ただ、生きている――、その事がレオアリスを急かし、力を与えていた。


 アーシアはレオアリスの表情から何かを察したのか、色を取り戻した青い瞳をレオアリスに向けた。


「レオアリスさん、何をするつもりなんですか?」

「――」


 黙っているレオアリスに膝を詰める。


「アナスタシア様を探しに行くつもりなんじゃ」

「そんなんじゃない、俺は」


 内心の焦りを隠して首を振ったが、アーシアには通らなかった。瞳の奥に、暗い中でさえ強い光が過る。


「僕も行きます!」

「お前は駄目だ!」


 言ってしまってから、レオアリスは慌てて口元を抑えた。


「いや――そうじゃなくて、」

「行きます、一人でも」

「駄目だ、軍に任せて」

「嫌だ!」


 激しく声を上げ、アーシアは光る瞳でレオアリスを睨んだ。


「――」


 レオアリスはアーシアの瞳を見つめた。

 どんな言葉も自分の意志を変える事はできないと、そんな光がその瞳の中にある。

 そもそも、アーシアがアナスタシアを助けようとするのを、レオアリスに止める権利もない。

 レオアリスはもう一度だけ、アーシアの瞳を見据えたが、それは止める為ではなく、覚悟を聞く為だった。


「俺は、確信なんか無いんだ。必ず辿り着いて無事助け出だせる自信だってない。自分で行った方がいいって、それだけだぜ」

「僕も、自分で行きたいんです。絶対に」


 一筋の迷いもない瞳に、レオアリスは息を吐いた。


「――判った」


 アーシアは顔を輝かせ、深く頭を下げた。


「ありがとうございます! すぐに」

「いや、軍にばれないように出ないと、止められちまう」


 アーシアを落ち着かせるようにそう言って、レオアリスは腕を組んで考え込んだ。

 どうやってここを出るか、それが問題だ。ここにいる彼等の目を誤魔化さなくてはいけない。アーシアと二人して出ていくとなると下手な嘘は通用しないだろうし、追いかけられて捕まったらもうその後は、抜け出す事は不可能に近くなる。


「何かねぇかな、上手く抜け出せて、追いかけられない方法……」

「寝てる時にそっと出るとか……」


 アーシアの言葉に、レオアリスはきっぱり首を振った。


「全員寝ないよ。絶対見張りが立つ。大体、寝るのなんて待ってられない――」


 呟いて、レオアリスはあっと声を上げた。慌てて口元を抑え、天幕の入口を振り返る。布が持ち上がる様子はなく、ほっと肩を落とした。


「レオアリスさん?」

「……いい方法がある。耳貸せよ」


 アーシアは耳を近づけ、レオアリスの囁いた言葉に目を丸くした。







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