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第八章「死の顎(あぎと)」 二

 何度となく変転する状況に、初めワッツは事態が好転したのかすら疑った程だ。

 だが黒竜は、炎の中で苦しそうに身を捩っている。翼の薄い膜の辺りが、炎に焼かれ、崩れ始めていた。

 矢も剣も、雷撃すら通さない黒竜の鱗を焼く、紅煉の炎。


「――炎帝公か……」


 ワッツはアナスタシアの振る舞いを諫めたが、それは自分の測り違いだったと、そう思った。彼女は確実に、アスタロトの炎を継いだ存在であり――炎を支配する、炎帝公だ。


「焼き尽くす! 下がれ!」


 凜とした声は、すでに将軍の風格さえ備えている。

 離れていても感じる熱に、ワッツは数歩後退った。ウィンスターが池のほとりから、残っていた兵士を撤退させていく。




 アナスタシアはアーシアの背からそれを見下ろし、再び作り出した火球を黒竜へと放った。


 新たな炎に包まれ、黒竜が身を振り、苦痛の咆哮が響く。炎は確実に黒竜の鱗を焦がし、厚い鎧の下の肉を焼いていた。纏い付く炎を振り払おうと黒竜が身を揺するが、炎は張りついて身から離れなかった。怒り、苛立ち、焦り、そして恐怖――黒竜の混乱がワッツ達にも感じられる。


 息を飲む兵士達の前で、黒竜の巨体が音を立てて地面に倒れた。炎を消そうともがき、池の中に転がり落ちる。炎の熱に触れ、池の水が水蒸気となって激しく立ち上がった。

 大量の水は漸く、纏い付いていた炎を鎮めた。だがその上から新たな炎の矢が立て続けに降り注いだ。池の水が干上がるほどの水蒸気が、黒竜の姿を白く包み込む。



 ワッツは唖然としたまま、その光景を凝視していた。目の前で展開されているのは、最早自分達が踏み入る余地のない、別の次元の出来事だ。


 もうもうと辺りを包む水蒸気の中で、叫び、黒竜は翼を広げた。

 風を煽り、まだ消え残る炎を翼に纏い付かせたまま、黒竜は飛んだ。

 宿営地から驚愕のどよめきが起きる。零れ落ちる火の粉を雨のように振り注ぎながら、黒竜はアナスタシアに背を向けて、丘を目指した。


 思わず森を駆け出て、ワッツは黒竜がよろめきながら飛ぶ姿を、信じ難い思いで見つめた。


「……逃げて」


 あの強大な竜が、アナスタシアの炎の前に、尊厳すら捨てて逃げている。


 青い飛竜がその後を追って動いた。アナスタシアの横に幾つもの炎の矢が浮かぶ。それは彼女の瞬き一つで、逃げる黒竜目掛けて疾駆する。

 矢が翼を撃ち抜き、黒竜はぐらりと体勢を崩した。そのまま地上に向けて墜ちる。


「やった……!」


 何という幕切れか――

 だが、歓声が響く中、一人厳しい目をしたのは大将であるウィンスターだ。


「違う」


 黒竜が丘に激突する。

 ――いや、激突したかのように見えて、黒竜の巨体はそのまま丘に呑まれるように沈んだ。


 黒竜が最初に姿を現わした時、酸の息で穿たれた穴が、黒竜の目指していたものだったのだ。アナスタシアの炎から逃れ、黒竜は暗黒の空洞へと姿を消した。


 一度退いただけだ。迂闊に追えば、黒竜の息に迎え撃たれる危険は高い。特に縦穴に入ったところで下から死の息を受ければ、避ける事すらできない。


「アスタロト公! 一旦お退きください!」


 ウィンスターが張り上げた声は、アナスタシアまで届いたようだ。丘に口を開けた巨大な縦穴の上で青い飛竜は一度旋回した。



「――何とかなったかな。あれで斃せたと思う?」


 自分で口にしながらそうは思えず、アナスタシアは眼下に、池の淵から森へ向けて走る死の息の傷痕を見つめた。その傷痕は森の中を、およそ半里は続いている。


 瞳を転じれば、黒竜の消えた縦穴は、傾いた陽の光が落とす影により黒々と口を開けていた。淵に向かって石や岩の欠片が滑り落ち、暗闇に飲まれていく。

 深い闇の沈黙は、却って不気味な空気を纏っていた。


「どうしよう……追おうか」

「いえ。一度お退きになった方がいいです。もしかしたら、このまま封じる事もできるかもしれませんし」

「うん――」


 池の淵に立ち、アナスタシア達を見上げているのは、先ほどアナスタシアに退けと呼び掛けた相手だ。ワッツとは違うが、その傍へ駆け寄るワッツの姿も見えた。


「あれが中将か、大将かな。とにかく降りよう」


 レオアリスはどうしただろう、とアナスタシアは眼下を見渡しながらその姿を探した。アナスタシアからは、レオアリスのいる場所は樹々に隠されて見えなかったからだが、宿営地に残った兵士達の間にはその姿は見当たらず、アナスタシアは息を吐いた。


(いない――もういないのかも)


 安堵と、ほんの少し落胆を覚えながらも、アナスタシアはアーシアに視線を戻した。


「アーシア、降りよう」


 アーシアが大きく旋回して池の淵に降りようとした時、アナスタシアは視界の端に、光るものを捉えた。

 もう一度目を凝らすと、確かに光を放っている。


「アーシア、あれ!」


 アナスタシアの興奮した口調に、アーシアは彼女の指が示す先を追った。アーシアの瞳も、黒竜の落ちた穴の縁に、虹色に光る石を見つける。


「あれって、もしかして……」


 アーシアは頷いた。


「あれが宝玉です」


 竜の息が凝った宝玉――色を移ろいながら輝くそれは、今、他の石に紛れ斜面をゆっくり穴の縁へと転がっていく。


(レオアリスの――)


 御前試合の出場資格だ。

 あれを手に入れれば、レオアリスは御前試合に出る事ができる――


 ゆっくり、光を弾きながら、宝玉は縁へ引き寄せられていく。


(落ちちゃう……!)


 それだけが頭を過り、アナスタシアは急かされるままに、アーシアの背を蹴って丘の上へ飛び降りた。


「アナスタシア様!」


 狼狽えるアーシアの声を背に、アナスタシアは斜面を駆け寄り、それから走るのさえもどかしくなって斜面を滑り降りた。アナスタシアの身体を追うように、小さな石や砂が斜面を滑る。

 縁に辿り着く前に、アナスタシアの右手が宝玉を掴んだ。


(やった!)


「アーシア!」


 アナスタシアは喜びに顔を輝かせてアーシアを振り仰いだ。アーシアが降りてくる。

 アナスタシアは宝玉を目の前に掲げた。


 熱を持っているのではないかと思っていたが、ひんやりとしていて、確かな存在感が手のひらに感じられる。


「あいつ、怒るかなぁ」


 余計な手出しをするなと彼が怒ったのは、まだこの昼の事だ。それでも、こんな機会は二度と無いかもしれない。


「いいや、目の前にあったんだし、何とか言いくるめて」


 ぎゅっと大事そうに宝玉を握り締め斜面に立ち上がった時、音を立てて亀裂が走った。


 足元が深い縦穴に消え、アナスタシアの身体もそのまま一度宙に浮いた。

 瞳が丸く見開かれる。


「!」


 伸ばした腕は掴むもののないまま空を切り、そのままアナスタシアは落下した。


「アナスタシア様!」


 一瞬の内に、斜面は縦穴に向かって崩れ、砂煙を上げて雪崩落ちていく。丘の斜面そのものが、岩を割るような破砕音と共に、次々と陥没する。


「アナスタシア様っ!」


 アーシアは縦穴に飛び込もうとしたが、それよりも早く、注ぎ込んだ土砂が縦穴を塞いだ。

 土砂に突き当たる寸前で身を躱し、アーシアは埋まった縦穴の上で、茫然とその無常な光景を見下ろした。


「そんな……」


 力が失われていくように、アーシアの姿が飛竜から、もとの少年の形に戻る。


「そんな」


 再び呟いて、アーシアは土砂の上に膝を付いた。

 伸ばした指が、砂を掻く。砂は容易く掘れたが、すぐに落ちかかり、掻いた跡を隠してしまう。


「アナスタシア様……」


 砂を掻く。

 砂はアーシアの掻いた跡を容赦なく埋めていく。


「アナスタシア様――アナスタシア様」


 掘れば、砂は落ち掛かる。両手で掘れば、その分の砂が落ちてくる。

 幾度となく繰り返す内に、爪に砂が入り込み、爪を割り、血が滲んだ。


 アーシアは何度も何度も、何度も土砂を掘りながら――

 悲鳴を上げた。




 兵士達が駆け寄りその身体を無理矢理引き離すまで、アーシアはずっとアナスタシアの名を叫びながら土砂を掘り続けていた。







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