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第七章「それぞれの意志」 五

「お辛くはございませんか?」


 リンデールの問いかけに、何の事を指しているのだろうと、アナスタシアは首を傾げた。


「本来、貴方様をお歩かせするなど、礼を弁えない行為ではございますが」


 何だ、そんな事かと笑いたくなった。


「平気」


 大体、今二十名もの兵士に大事そうに囲まれて、この他に何の気配もなく静まり返った森の中を歩いている自分は、恐ろしく滑稽だとすら思う。

 皆、アナスタシアの形にばかり捉われて。


 でも多分、そんな事をしてくれなくてもいいのにとか、それさえ、アナスタシアのような立場では言ってはいけないのだ。

 彼等の前にいるのは「アスタロト公爵家のアナスタシア」 「次期正規軍将軍」なのだから。彼等の前でそれらしく振る舞うのは、アナスタシアの義務でもある。


 この先結構辛いかもしれないな、とアナスタシアはぼんやり思った。

 周囲が崩れ落ちた狭い足場に立つ。そんな光景が頭を掠めた。


「申し訳ございません。少し広い場所がこの先にございます。そこで転移の陣を敷きます故」

「――うん」


(転移――)


 どこまで――やはり王都まで飛ぶのだろう。

 判って歩き出したはずなのに、心が騒ぐ。

 後ろに置いてきた彼等――

 自分の意志を果たせないままに、王都へ戻る事。


 王都へ戻る事自体は、もうそれほど嫌ではない。最初に王都を飛び出してきた理由など、今の状況に比べれば、本当に頑是無い子供の我が儘のようなものだったと、アナスタシアは既に気付いていた。


(気付かされたんだ。――この森で)


 多くの事から。

 自分の小ささも、力の無さも。


 黒竜の気に当てられて苦しんでいるアーシアを助けたのは、アナスタシアよりもレオアリスだ。

 レオアリスが術の最中に倒れた時に、アナスタシアには何一つ、できる事が思い付かなかった。

 アナスタシアが森に入ったせいで、二百五十もの兵が、命を危険に晒す事になった。


(王都に帰って、もっと)


『俺は、王都に行くからな』


 あの時、レオアリスは確かにそう言った。

 その後ろに続けられなかった言葉があるのを、多分アナスタシアは知っている。


『だから、王都で会おう』と。


 それが単なるアナスタシアの思い込みではなく、自分の事を知ってなお、彼がそう言ってくれるのであれば――王都に戻る事は無駄ではないと、そう思う事ができる。

 もしこの先彼と再会する事が無くても、そう言ってくれた事実は、アナスタシアを後押ししてくれる気がした。


 王都に戻って、ワッツに言われたように、自分のできる事をするのだ。

 何ができるのか、明確に判っている訳ではない。でもそれは、誰に聞くのでもなくアナスタシアが考えるべき事だ。


(それで――それが、いいんだ)


 アナスタシアは顎をもたげ、瞳をまっすぐに、見えない王都へ向けた。





 

 アーシアは少し複雑な思いで、アナスタシアの横顔を見ていた。

 アーシアが天幕の外で待っている間に、リンデールやワッツ達とどんな会話がなされたのか、アーシアには判らない。

 ただ天幕から出てきたアナスタシアはひどく打ちひしがれた顔をしていて、掛けるべき言葉が咄嗟に見つからなかった。


 今、昂然と頭を持ち上げ、黒髪を弾ませて歩く姿は、一見全て自分の中で納得しているからのようにも見える。

 ただ、時折不安定に揺れる瞳が、アーシアの心にひっかかっていた。


 アナスタシアの瞳には常に、炎が宿っている。

 ゆらりと揺れ立つ炎の光。肌を焦がし身を焼き、あらゆるものを焼き尽くす力を秘めながら、彼女の瞳の中に踊るそれは、どこか儚い。

 幻想のように儚くて、強い。


 強く、激しく、そしてゆらゆらと不安定に揺れる。

 美しい、アナスタシアそのものだ。

 彼女の気儘さも奔放さも、苛烈さも、その炎ゆえのものだ。

 だからアーシアが常に一番に望むのは、その炎がいつも、力強く瞳に踊っている事だった。


 今のように少し、どこか躊躇いがちにさえ見える炎は、彼女の中の躊躇いや不安をそのまま表しているようで、それがアーシアの心に訴えているのだった。


(何かあったら、僕がお助けする)


 その何かは、アーシアの中でも明確ではない。ただ、アナスタシアの望む事に従って、それを助ける。アーシアは自分の役割をそう決めている。

 だからアーシアは、アナスタシアの瞳から些細な変化も見逃すまいと、改めてそう心に誓って、アナスタシアの隣を歩いた。


 




 あの宿営地を経ってから半刻近くは歩いただろうか。

 アナスタシア達は急にぽっかりと開けた草地に出た。どうやらここが、兵士達が目指していた場所のようだ。

 兵士の一人がリンデールに草地の広さを確認し、リンデールが頷くと、別の兵士がアナスタシアの前に跪いた。


「ご無礼を。リンデール中将が法陣を整えられるまで、こちらでお休みください」


 兵士の指した場所では、もう早速日除けの布が張られて始めている。


「――そんな事までしなくたって」


 あまりの徹底振りに気恥ずかしささえ覚えたが、アーシアは少し苦笑しながらもアナスタシアを促した。言葉には出していないが、アーシアの表情は彼等の行為を無駄にするべきではないと言うようだ。

 仕方なく彼等の後について日除け布の下に行き、敷かれた布の上に座った。


「お飲み物を」


 堪らずアナスタシアは両手を上げて遮った。


「いや、いい! いいから――皆も休んでて」


 さっと、兵士の顔の上に喜びの色が浮かぶ。それは休めと言われた事にではなく、アナスタシアが彼等を気遣った事によるものだ。

 僅かなたった一言が意外な力を持っている事に、アナスタシアは気恥ずかしさと共に、驚きも覚えた。

 結局、野外に似つかわしくない程の立派な陶器の杯を差し出され、アナスタシアは礼を言ってそれを受け取り、辺りを見回した。

 少し横長の、片側がざっと七、八間――兵士達が五、六十人はここで休めそうなくらいの広さがある。片側は低い段になっていて、その先はまた樹々が枝葉を茂らせている。


 リンデールはその中央に立ち、法陣を描き始めていた。手にした小さな壺から白い粉を掬いだして足元に撒き、数歩歩いてまた撒く。

 アナスタシアの場所からも、草の上に落ちた粉が微かに光を纏っているのが見えた。

 アナスタシアはさほど詳しくは無いが、転移の法術は非常に高度な技だ。

 軍に属する方術士は当然ながら、主に攻撃、防御といった戦闘系の術を身に収めた者達が多い。そしてまた、リンデールのように部隊や物資を移送するための法術を学んだ者も重宝される。

 多くの法術士は軍よりも、法術院での仕官や研究を選ぶのが主流だが、それでも軍に属する法術士の力が劣る訳ではない。

 リンデールはその中でも中将位を得ている優秀な術士で、転移の術を最も得意としていた。


(レオアリスが見たら、興味津々だろうな)


 そんな事も思う。あの辺りで立って、じっとリンデールのやり方を見ていそうだ。ただ、リンデールは嫌がりそうだが。


 リンデールはこの空き地全体を使って、広い陣を敷こうとしている。少し時間はかかるのだろうが、陣が完成すれば、もうアナスタシアは王都へ飛ぶ事になる。

 おそらく一瞬。

 それで、アナスタシアはこの地から去るのだ。


 今更ながらに、心が揺れた。

 王都ですべき事は沢山あるだろう。ワッツの言う事は正しい。おろそかにしてはいけない事だ。

 けれど――


 目の前にある事を放り出して、見ない振りをして自分だけ安全な場所に帰る。

 それは本当に正しいのだろうか。


 『貴方自身の意志で』


 優しい母の、最後の言葉。

 あれは、自分勝手に生きればいいと言っていた訳ではない。

 公爵家という枠に捉われず、自分の意志で選択しろと、そう言ったのだ。


(私の意志――)


 アナスタシアは迷った。

 何が一番自分の望む事なのか、それすら判らず迷う、そんな自分を情けないと思う。

 しかし、ある意味彼女の迷いは、誰もが突き当たる、とても当たり前の事だ。

 自分が何をすべきか、答えを始めから持っている者などいないのだから。


 そんなものは誰も持っていない。用意されてもいない。

 暗闇の中で手探りするように探して、触れたものを必死で掴んで、それすら違う事もある。

 違えば、引き返し、或いはまた別のやり方を探せばいい。

 そしてそれはどれも決して間違いではないのだが、それを納得できるのは自らの後ろに、通ってきた道を振り返った時なのかもしれない。


 アナスタシアもまた、暗闇の中で自分の手に触れる、不確かなものに迷っていた。

 例えば経験という光は、暗闇に微かに道を浮かび上がらせる標となるが、アナスタシアはまだたったの十四歳で、その光も手にしてはいなかった。


 リンデールの詠唱が始まる。法陣が輝く。

 アナスタシアが帰るべき時が来たと告げている。


「公女。そろそろご用意を」


 兵士がアナスタシアの傍らに跪いて告げた。


「私は――」


 どれを、何を掴むべきなのか。

 法陣の輝きに引かれ、それが標の光のように、アナスタシアは立ち上がった。


 踏み出そうとした時、アーシアがふいに、声を震わせた。


「ア、アナスタシア様」


 振り返ったアナスタシアの瞳が、蹲っているアーシアの姿を捉える。


「アーシア? どうした?」


 見ればアーシアの顔は、血の気が引いて真っ青になっている。


「アーシア?!」


 虚ろな瞳を見開き、恐怖を押し出すように、アーシアは呟いた。


「来る――」


 その時、森が揺れた。






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