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第七章「それぞれの意志」 一

「貴方の思う通りに生きなさい。他の誰でもなく、貴方自身の意志で」


 白い透けるような頬は、病にやつれて血の気が失せているせいだ。優しい手が延ばされ、頬を撫ぜた。


「母様……」


 同じ色の深紅の瞳。炎のような鮮やかな色。

 同じ事が自慢だ。


「貴方のものなのだから」


 優しい声。


 何てこの部屋は、白くて眩しいのだろうと思った。

 目が痛くて周りが滲んで、母様の姿がはっきり見えないじゃないか。こんなに傍にいるのに、光に溶けていってしまいそうだ。


「貴方が選びなさい」


 選ぶ。選ぶ事はもう決まっている。


 選んだのに。

 何よりも強く望んだのに、――何で。


 何故、母様は傍にいてくれなかったのだろう。

 傍にいてくれれば、それで良かったのに。


「――いで」


 死なないで。

 

 



 

 

 

 暗い。

 今まで光に溢れた部屋にいたのに、何でいきなり暗くなったのだろうと、アナスタシアは瞳を見開いたまま思った。

 それから、ああ、夢を見ていたのだ、と気付く。

 あの部屋、母を看取った部屋は光に満ちていたけれど、それは目を逸らしたくなる程の痛みのある白だ。


(だから、目を背けたのかな)


 今、この薄暗い場所にいるのは。

 しかしすぐに、これは現実なのだと気付いた。

 アナスタシアはゆっくり身を起こし、辺りを見回した。頭がぐらりと揺れる。


「――」


 どうやら薄暗い小さい部屋――四方を布で囲った天幕のような場所で、アナスタシアはその中央に敷かれた柔らかな毛皮の上に横になっていたようだ。


「アーシア……」


 小さく名前を呼んだが、アーシアの返事はない。確か、アーシアと森にいたはずだ。森で、彼と、レオアリスと別れて、それからもう一度戻ろうとしていた。

 次第に記憶が戻って来て、アナスタシアは立ち上がって声を上げた。


「アーシア!」


 あの森の中で、詠唱が聞こえて、すごく眠くなって――アナスタシア達は倒れた。

 その後の事は全く覚えていない。


「アーシアっ!」


 天幕の一角で、光の筋が揺れた。


「!」


 身構えた時、光の筋はくっきりとした、四角い空間になった。幕の一部が巻き上げられたのだ。

 そこに人影が差した。


「誰だっ」

「どうぞ、お気をお静めください、アスタロト様」


 女の声だった。どこかで聞き覚えがあるような気がした。

 アナスタシアが立ち尽くしている間に、女は恭しく数歩近付くと、長衣の裾を引いて跪いた。両手を身体の脇につけ、深く頭を下げる。


「お目にかかれて光栄に存じます。アスタロト様」


 女がアナスタシアをアスタロトと呼んでいる事に気付き、アナスタシアはさっと顔を強張らせた。


「誰だ」


 警戒と詰問の響きにも、女は上げた顔に柔らかい笑みを浮かべただけだ。

 茶色の髪を頭の後ろで丸く結い上げた、少し頬骨の張った細い面。三十前後の年齢だろうか。

 だがアナスタシアの記憶にはない相手だった。

 じっと探るように落とされるアナスタシアの視線を受けても、女に動揺する気配はない。


「私はクレア・リンデールと申します。貴方様の術士でございます」

「術士――」

「正規西方軍法術士団中将を任ぜられております」


 歌うようにそう言うと、リンデールは右腕を胸に当てる正規軍式の敬礼を施して、再び頭を伏せた。

 アナスタシアの脳裏に、あの歌が甦る。

 あの歌声――詠唱は


「お前か」


 女はただ頷いた。憤りが身体を走り、アナスタシアはリンデールに詰め寄った。


「何のつもりで……アーシアは!」


 リンデールがやんわりと片手を上げる。


「外におります。ご心配なさいませぬよう、先程の術はただのまどろみの術に過ぎません」

「ただの!? 術なんてかけておいて――」


 リンデールは面を伏せたまま、きっぱりと告げた。


「貴方様をお護り申し上げる為でございます。ご無礼、何卒ご容赦くださいませ」


 かぁっと頭に血が昇る。深紅の瞳を熾火のように光らせて、アナスタシアはリンデールを睨んだ。

 その熱が辺りを焦がしそうな程だ。


「護る? 余計なお世話だ! 護ってもらう必要なんて無い!」

「そんな事を仰るもんじゃございません」


 ふいに別の、低いしゃがれた男の声が割って入った。

 アナスタシアはさっと天幕の入口を睨み付けた。入口の幕を繰り上げて、男が肩の張った身体を縮めて天幕の中に入ってくる。

 男は天幕の天井に頭が付く程の大柄の身体を真っ直ぐに伸ばし、岩のような顔の中の緑の瞳をアナスタシアへ向けた。そこには厳しい光が浮かんでいる。


「貴方の為に多くの兵が、危険を冒して森に入ってるんですぜ」


 砕けた口調ではあったが言葉は鋭く、アナスタシアはぐっと息を飲んだ。


「ワッツ少将、膝を曲げよ。公女の前に無礼であろう」


 アナスタシアに対するものとは打って変わったリンデールの厳しい叱責に、ワッツは片方の眉を上げ、それでも素直に跪いた。

 右腕を胸に当て、深く頭を下げる。


「公女アナスタシア、ご無事で何よりです。すぐにでも王都にお送り申し上げます」


 アナスタシアは驚いてワッツを見返した。


「王都? 誰がそんな勝手な事……」


 ワッツはひょいと片手を上げて、剃り上げた頭をつるりと撫でた。

 外見に似つかわしくない澄んだ緑の瞳が、飄々とアナスタシアを見返す。


「アスタロト公爵家長老会からのご要請と、それを受けた正規軍副将軍タウゼン閣下の正式な通達によるものですなぁ」

「長老会――」


 唇を震わせたアナスタシアの前で、ワッツは太い首を手で擦りながら、また緑の瞳を閃かす。


「という訳で、我々の任務は貴方を無傷で保護し、王都へ無事にお送りする事でして。貴方は無事に保護する事ができたし、後は王都へお送りすりゃあ、この厄介な森ともおさらばって訳です」

「ワッツ少将!」


 リンデールはワッツの人を食った口調に、苛々と彼を睨み付けた。

 ワッツは首を竦めてみせたが、全く動じていないのは明らかだ。


「おっと済みません、何せ根が田舎者でしてね」


 リンデールは紅い唇を歪めて顔を背ける。それににやりと笑って、それからワッツは天幕の入り口を片手で示した。


「どうぞ、公女。王都までお送りする用意が整っております。精鋭二十名、皆若くて面のいいのを集めてますし、それにリンデール中将も同道されます。ご安心ください」


 何とも茶化したような、だが憎めない口調だが、アナスタシアは笑う代わりにぎゅっと両手を握り締めた。

 頬は血の気が引いて白く透けている。


「私はまだ帰らない」


 きっぱりと、自分の意志を宣言するように、ワッツとリンデールを睨む。


「この森に黒竜が来たのは知ってる。私は黒竜を倒しに来たんだから」


 その言葉を聞いてさっと青ざめたのはリンデールだ。リンデールは宥めるように首を振った。


「アスタロト様、ですが黒竜など、恐れながらいかに貴方様といえど危のうございます」

「そんな事を言って、だったら誰が黒竜を倒すんだ」


「軍にお任せんなってください」


 アナスタシアの言葉にも、ワッツにはどこ吹く風といった様子だ。

 まるっきり相手にもされていない事に、アナスタシアは苛立ちの余り足を踏み鳴らした。


「黒竜だぞ?! 軍にだって被害が出るのは判ってるはずだ! それを見ない振りして帰れるか!」


 ワッツは少し大げさに溜息を吐いた。


「我が儘言ってるだけのお嬢さんに、何ができるんです?」

「ワッツ!」


 リンデールが高い叱責の声を上げる。

 アナスタシアはワッツへと詰め寄った。

 遊びでこんな所まで来た訳ではないのだ。アナスタシアだって色々と考えた上での行動だ。

 それをまるでくだらない事のように言われるのは、我慢がならなかった。


「我が儘なんかじゃない! 私は次期正規軍将軍だ、私にはその責務が」


 ワッツはいきなり立ち上がった。


「舐めるんじゃねぇ!」


 立てばアナスタシアの遥か上に頭が来るような巨体だ。それが目の前に壁のように立ちはだかって、アナスタシアだけではなく、リンデールさえ怯んだ。


「あんたが勝手に森に入った事で、今、二百五十もの兵がこの森に投入されてる。森をうろつくだけでさえ黒竜を刺激するかもしれねぇってのに、敢えてだ。あんたを探す為だお嬢さん。それも黒竜が一吹きすりゃ、二百五十が一瞬で死ぬんだ」

「――っ」


 アナスタシアはワッツを睨みつけようとして失敗し、力なく項垂れた。

 二百五十人――それは、予想もしていなかった数字だった。被害を食い止めようと森に来たのに、逆に自分のせいで多くの兵が危険に晒される。

 ワッツの言葉に、アナスタシアは打ちのめされていた。黒髪が表情を隠すように頬に掛かる。


「ワッツ、貴様、公に対して――」


 リンデールはわなわなと唇を震わせたが、ワッツはしっかりとアナスタシアに視線を据えたままだ。

 ただ、次の言葉は諭すように柔らかかった。


「将軍ってのは、兵を死に追いやるのが仕事じゃねぇでしょう」


 今までの張り詰めた空気が打って変わって、だから余計にアナスタシアは泣きそうな気持ちになった。


「兵を思っての行動だっていうのは、良く判りました。だからこそ、最高責任者として貴方にしかできない事ってのは、他にあるはずです」


 王都にお帰りいただけますね? と穏やかに問われ、アナスタシアは首を振る事ができなかった。









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