第一章「春待つ雪」 一 (二)
「いやぁ、本当に腕は確かだな。この村は腕がいいって仲介屋が言ってたよ。最初はお前みたいな若いのが、大丈夫なのかと思ってたが」
来た道を今度は逆に辿り、村の外れへと向かう。晴れたせいで雪は少しぬかるみ始め、遅いながらも確実に春が近い事を教えている。
「まあ、十年やってるからね」
この、厳しく静かな村の中で、ずっと。
いい村だ。冬場は満足な食糧もなく生活は厳しいが、その分短い春や夏が盛大に生命を謳歌する。
萌える若葉、咲き誇る花々は、刹那であるが故にどこにも負けない程力強く、美しい。
それでも――こことは違う土地が、確実にあるのだ。
「もっと都会に出れば稼げるぜ。せっかくだから教えてやるけど、もっとずっと南へ上がれば、今日の術だって倍近く取れるからな」
それに答える代わりに、レオアリスは別の事を尋ねた。
「……王都はどんなとこ?」
想像の王都はただただ華やかで、果てしなく遠い、別世界のような場所でしかない。
レオアリスの問いかけに対してハモンドは眼を見開き、照れ臭そうに頭を掻いた。
「ああ――実は俺も行くのは初めてなんだ。どんなとこかは分かんねぇ。とにかくここから遠いから、急いで宝玉取って向かわないと、さ来月の新月までに間に合わないのは確かだな」
「あとふた月か。ギリギリだね」
どこかで飛竜を借りるかしないと馬では間に合わないだろう。
(カトゥシュ森林まで行って馬で半月ちょっと、そこから宝玉を取って……何日かかるかわかんないけど、――残りひと月あるかないかだな……)
ぼんやりと、その遠さを思う。
村外れまで来ると、ハモンドはその先の雪で見分けにくい街道を眺め、うんざりと肩を落とした。
「こいつぁ迷いそうだなぁー。お前が飛べれば良かったな」
見下ろされて、飛竜はハモンドの足元で翼を広げてみせた。
「いや、無理だから」
ハモンドは両手を振ってその申し出を断る。レオアリスは笑って、それからふとある事を思いつき、少し言いにくそうにハモンドに眼を向けた。
「ハモンドさん、ものは相談なんだけど」
「相談?」
「餞別をやるからさ、その代わり、――その剣を譲ってくれないかな」
ハモンドは一瞬何の事か判らなかったようで、レオアリスを見返した。
「剣?」
何故術士が剣など欲しがるのかと、ハモンドの目には不思議そうな色がある。
「いや、大事なものならいいんだ」
思いつきで言った面も大きく、少し恥ずかしくなってレオアリスは手を上げかけたが、ハモンドは意外にもあっさり頷いた。
「間に合わせで買ったからそれほど価値もないし、まあ構わねぇっちゃ構わねぇけど……餞別次第だな」
「ホントに?! マジで?!」
勢い込んで顔を輝かせたレオアリスに、ハモンドが押されるように一歩退がる。
「交換するモノによるって……」
「よっしゃ、見てろ」
くるりと身を翻し、レオアリスは街道へと向き直った。呆気に取られているハモンドの前で、低く素早い詠唱が流れる。
風が見る間にその周囲に渦巻き始めた。
「おいおい、何――」
「悪いけど、剣は次の街で新しいのを買ってくれ」
そう言うと、レオアリスは大きく息を吸い込んだ。
鋭く、命じる。
「散らせ!」
瞬間、突風が吹き抜け、ハモンドの外套が煽られ、宙を舞った。
「な――」
ゴウと音を轟かせ、雪煙が吹き上がる。
一直線に南へと走った風は、次々と積もった雪を吹き飛ばしながら、真っ白な林の中に道の帯を生んでいく。
王都へ伸びる、街道の石畳だ。
「――」
言葉もないハモンドへ、レオアリスは満面得意そうな笑みで振り返った。
「どうかな? 迷わず行けるぜ」
グィノシス大陸の西端に位置するアレウス王国は、大陸に数十ある国々の中でも、特に古い歴史を持つ国だった。人々が数え挙げられる歳月だけでもおよそ五百年近く、現王のもと国が続いている。
五百年だけが確かな歴史として人々に語られるのは、四百年前、アレウス王国と国境を接する西海バルバドスとの間に戦乱が起り、百年に渡って続いたその激しく凄惨な記憶が、人々の中で語り継がれてきたからでもある。
国土と人命に甚大な被害を齎し、そして人々の心に深い疲弊と悲嘆を齎した西海との戦乱は、両国間に不可侵条約が締結される事により終結したが、それ以前の歴史は語り継がれる事なく薄れ、恐らくは王都の王立文書宮の奥深くで、歴史を抱えた書物が眠るのみだ。それを紐解く者はごく限られている。
アレウス王国と西海との戦乱に例を見るように、絶え間なく小国が興っては消え、常にどこかで戦乱が続いているこの大陸に於いて、アレウス王国が長く続いてきた理由には、王の政と国の堅牢な体制によるものの他にもう一つ、地理的な条件によるものがあった。
アレウス王国はその四方の地理により、他国とある意味隔絶している。
国境の西と南は海に面し、西には古の海 海皇が治める西海バルバドス、南には南海沿岸に沿うように熱砂アルケサスが広がっている。
東には峻険ミストラ山脈が鋭い峰を連ねて行軍を阻み、そして北には、広大な黒森ヴィジャが、溶ける事のない雪を抱いて広がっていた。
故にアレウス王国は、西海との間に不可侵条約を締結して以来、他国との戦乱から無縁のまま、肥沃な大地の恵みを受けながら豊かに繁栄してきた。
広大な国内では四季の巡りも土地ごとに違う。
王都には今既に春が訪れ、南方の辺境部では既にうだるような暑さが戻ってきている。
そして北の辺境では、まだ雪が固く溶ける気配が無かった。
手に入れた剣は手に馴染む重量感を持っていた。
レオアリスは満足そうに、剣を陽に掲げてみる。
「これは、どうかなぁ」
疑問交じりに呟いたのには、それなりの理由がある。この村の剣は脆いのだ。
使っている土が悪いのか、製鉄のやり方が違うのか、それは判らないが、一、二度斬るとすぐに折れてしまう。
使うのは主にレオアリスばかりで――それは森での護身であったり獣を獲る為であったり、そんな時にだが――祖父達は剣が無くても困らないせいか、一向に改善してくれない。
逆にレオアリスが剣を持つ事を喜ばず、護身と狩りという理由の元に、無理を言って打ってもらっていた。
祖父のカイルは術と剣、どっち付かずになるとレオアリスを諫めるが、実際、レオアリスの興味は完全に二分されている。
法術はもちろん、祖父から受け継いだ業で、誇りがある。もっと腕のいい術士になりたいし、そうなればもっと多くの収入を得られもするだろう。
ただ、剣は無性に惹かれるのだ。
同世代の少年達がそうしたものに憧れるように、レオアリスも憧憬を抱いて手に入れた剣を眺めた。
吹き抜ける冷たい風に押されるように歩き出しかけ、ぴたりと足を止める。
少し迷って、結局レオアリスはハモンドから譲って貰った剣を、村外れの木のうろの中に隠すことにした。
理由は、多分祖父に怒られるから、だ。
「またよろしく」
子供の頃から何度となく、色々なものを隠してきてくれた木の幹をぽんぽんと二度ほど叩いて、レオアリスは満足そうな笑みを浮かべると、村へ足を向けた。
僅かにぬかるんだ雪は却って重く足に纏いつくが、剣を手に入れたせいで気持ちは単純に弾んでいる。
自分で取り引きして手に入れて、その上祖父に内緒なのがワクワクさせられるところだ。別にそれが何になるわけでもないのだが、十四の少年にはそれだけで十分価値があった。
すぐにでも剣を振ってみたいという気持ちを抑え、いつどこで使おうかと、レオアリスは思いを巡らせた。
狩りの時に。
それとも、黒森に行って、腕試しでもしようか。
それとも――
『御前試合に出るんだよ』
先ほどの男の言葉が頭を巡る。
どくん、と心臓が鳴った。
正直に言えば、王都には憧れる。一生に一度くらいは行ってみたい場所だ。
世界の中心で、華やかで、多くの人々が集まっていて――この国の、王が、いる。
鼓動が早まる。
王とは、どんなひとなのだろう。
それは幼い頃からの純粋な興味と、憧れだ。
王都からは毎年春先に、様々な書物が送られてくる。使者が木箱に詰めた書物を二箱ほど運んでくるのだ。
それはいつもレオアリスの誕生日と同じ日で、その日が近づくとレオアリスは二重に心が躍った。例年通りであれば、今年ももうそろそろ届くだろう。
祖父達は儀礼的にそれを受け取り、目録を付け、暫くしたらレオアリスにも読ませてくれた。その多くが前年に書かれた新書で、だからこの村の知識はかなり新しい。
使者が来る時はカイルたちが数人で対応し、レオアリスが同席させてもらった事は無かった。大抵その時は、使者に僅かな顔見せ程度の挨拶だけして、レオアリスは村の誰かに連れられ森や山に出かける。
一日狩りをしたり、術を教わったり、大きい術を試したり、また帰ってくればその時に最大限用意できるご馳走――ご馳走は使者とは全く関係は無い、レオアリスの誕生日を祝うものだったが――が待っていた。
だからそれはそれで楽しいのだが、残念だったのも事実だ。できるなら王都の話などを聞いてみたかった。
一度、使者は黒い軍服を着ていた事があった。もう何年も前の事だろうか。
それを見て、祖父のカイルは使者をそのまま追い帰さんばかりに怒ったが、あれは北方軍の制服とは違うものだった。北方軍なら、濃い群青だ。
祖父が怒った理由は分からないが、黒い軍服が何を現わすのかくらいは、レオアリスでも知っていた。
黒は師団――王を守護する、近衛師団の色だ。
それ以来、軍服の使者が訪れた事は無いが、書物を送ってくるのは、もしかしたらずっと王に近い存在なのではないかと、そう思った。
(もしそうだったら、すごいよなぁ)
こんな小さな村とどんな関わりがあるのかは知らないが、もし本当に王に近い存在が関係しているのなら、それはどういう理由からなのだろう。
いくら聞いても祖父も村の他の老人達も、答えてくれた事は無かった。
「王都か」
つい口から出た声にはありありと羨望の響きがあって、思わずレオアリスは周囲を見回した。
雪の上には見渡す限り兎一匹いなくて、ホッと胸を撫で下ろす。祖父達に聞かれたらまずいと、そう思ったからだ。
王都への憧れは、裏を返すせばこの村を出たいと言っているようで、何となく口に出しがたかった。
一方で、それを抑えきれないほどに、その想いは次第にレオアリスの中に広がり始めていた。
御前試合。
それを聞いてしまったからだ。
言葉に色があるとしたら、それは明滅する強い金色の光のように、レオアリスの意識に瞬き続けた。