表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/71

第三章「炎舞う」 八

 おなかが、空いた。


 アナスタシアはぐうぐう鳴っているおなかを抱え込んだ。

 道端に座り込み、暮れかけた空と、自分のおなかと、隣に心配そうに寄り添っているアーシアへ、ちょっと涙の溜まりかけた紅い瞳を向ける。


「……おなかすいた……」


 もう本当に、アナスタシアの胃は限界に近づいていた。今日は昼から何も食べていない。

 あり得ない事だ。

 それに寒い。


 昨日はアーシアが用意してきた食料やお菓子を、アーシアが作ってくれた焚き火なんかの傍で楽しくいただき、夜も開き始めた花の香りの流れる草原で、アーシアの用意してきた毛布に包まって、満天の星を眺めながらわくわくと心を躍らせて眠ったりした。

 長老会や叔母に腹が立ったから飛び出してきた割には、ちょっとした旅行気分だった。


 アーシアが持ってきた食料は、もうない。

 アナスタシアは今朝までに全部食べてしまった。

 今ではアーシアの背負った鞄には、調理用のお鍋と、香辛料の類しか入っていない。

 外套もない。


「寒いよう……お腹減ったよう……」

「アナスタシア様……」


 膝を抱えて身を縮めたアナスタシアをいたわるように、アーシアはそっと肩に手を置いた。


 しかし何と言うべきか……、この場の様子だけを眺めれば悲哀を誘う情景だが、事情を知っている者が見れば、少し情けない状態だ。

 ファーガソンなどは目頭を押さえるに違いない。


 それはともかくも、先ほどからアーシアは、どうしたらいいのかずっと考えていた。

 あの服飾店から追い出されたのは、お金が無いからだ。通りの店や屋台も、お金が無ければ何も買えない。それは先程果敢に挑戦し、敢えなく撃退されたところだった。


(僕はバカだ。アナスタシア様をこんなところに座り込ませて……僕のせいだ。)


 アーシアにもっと知識や経験があれば、アナスタシアにこんな思いをさせなくて済んだのだ。

 それが何より悔しい。


(お屋敷に戻る事をお勧めすべきかもしれない。)


 このままではアナスタシアに不便な思いをさせるばかりで、今のアーシアは、それを何とかする手段は持っていない。

 それでも――。アーシアは傍らの主を見つめた。

 アナスタシアは帰ろうとは一言も言わない。


 二人はそれぞれの想いにがっくりと肩を落とし、夕暮れの街に座り込んでいた。通りを行き過ぎる人々は、道の端に座り込んだ少女と少年を見ないようにして、足早に去っていく。


(どうしよう……)


 このままでは、宿にも泊まれないのは確かだ。昨夜の地域よりも北に近づいた分ぐっと寒さが増していて、この中を野外に寝るのは無理だろう。風邪をひいてしまう。


「おなかすいたぁ……」


 憐れだ。


 アーシアが腑甲斐なさに泣きたくなったとき――ふわりと、何かを煮込む暖かくて食欲をそそる匂いが漂ってきた。

 見れば、いつの間にやら通りの少し先に出た屋台で、煮込み料理の鍋がくつくつ煮えている。


「……ごはんだぁ」


 アナスタシアはふらりと立ち上がった。


「アナスタシア様?」


 アーシアも立ち上がり、彼女の後を追う。アナスタシアは夢遊病者のようにふらふらと、流れてくる匂いを辿って屋台の前に立った。


「らっしゃい!」


 屋台の奥の若い男が忙しく手を動かしながら、威勢よく声をあげる。だが、目の前に立った客が何も言わないので変に思ったのか、顔を上げた。

 アナスタシアは俯き、じーっと屋台に置かれた鍋に視線を注いでいる。


「――買うの、買わないの?」


 店主はアナスタシアを不思議そうに眺めた。ずいぶん立派な身なりをしているが、……変な少女だ。

 アーシアは慌ててアナスタシアの前に出て、店主へ首を振った。


「あ、その、買いません、すみません」

「何だよ、じゃあ商売の邪魔だから、そっからどいてくれよな」


 客ではないと判ると、店主はがっかりしたように片手を振った。


「すみません。さ、アナスタシア様、行きましょう?」


 だがアナスタシアにはアーシアの声も届いていないようだった。鍋に顔を向けたまま、地面に根が生えたかのように動かない。

 店主は肩の辺りでお玉をぶるんと回した。


「……ちょっと。邪魔だって。買うんなら買ってよ。金持ってんでしょ?」

「いえ、持ってないんです」

「はぁ?」と店主は胡散臭げに二人、特に俯いたままのアナスタシアを眺め、それから肩を竦めた。

「何言ってんだ、そんな良いモン着てぇ。金持ってないわけないじゃないの。うちのお代いくらだと思ってんのー?」

「はあ……」

「あ、忘れたの? 忘れたんなら、取ってくれば? 親から小遣い貰えんでしょ? 待ってるからさー。ちゃんと美味いのよ、これ。俺の自信作。今日は特に自信作。買ってくれるんなら俺も有り難いしねぇ」

「いえ……その、遠くて」

「……家が?」

「ええ、そう」

「ちぇ……」


 店主は心底残念そうに唇を突き出した。それから、ふとアーシアの耳飾に眼を止める。


「じゃあ、その耳飾一つ置いていってよ」

「……え?」

「ホントはさぁ、その彼女の耳飾って言いたいところなんだけど、俺結構善人だからね。彼女のじゃ値が張り過ぎらぁな。君の耳飾くらいなら、引き換えにしても悪くはないっしょ?」

「え、これ?」


 アーシアは自分の耳飾を指差した。


「そうだよ。ま、それも結構いいもんっぽいからさ、おかわりしてもいいし、良かったら麺も魚も付けちゃうけど、どう?」

「……こんなものでいいんですか? だってお金じゃないし」

「……金が無ければ、モノでしょ」


 何を寝ぼけた事を言っているんだと言わんばかりに、店主は呆れて眉を顰めた。


「ああ、あんた等いいとこのお嬢さんと従者って感じだもんなぁ。あんま自分で買い物とかしないんだ?」

「すみません……」

「俺に謝られてもねぇ。で、どうするの?」


 アーシアは飛び付くように頷いた。こんなにいい方法があったとは思ってもいなかった。外す手間さえもどかしく、耳飾りを屋台の上に置く。


「じゃ、商談成立ね」


 店主はにこにこ笑って木のお椀に煮込み料理を汲み入れ、湯気の立つそれをアーシアに差し出した。


「ほい、どうぞ?」


 冷えきった心を温めるような、優しい彩りの料理に、アーシアは嬉しくなった。


「アナスタシア様」


 お椀を受け取ってアナスタシアを振り返る。アナスタシアはまだじっと俯いたままだ。


「アナスタシア様、ごはんですよ」


 とたんに、アナスタシアは弾かれたように顔を上げた。


「ホントに!? 食っていいの!?」


 そこで初めてアナスタシアの顔を見て、店主は途端に顔を真っ赤に染めた。とんでもない美少女だ。思わず屋台ごと差し出すように手を延べる。


「いやもう、食えるだけ食っちゃって!」


 まだ若い店主は、アナスタシアがずっと俯いていてちょっと不気味だなぁ、と思っていた事などすっかり忘れた。


「おいしぃ〜!」


 美少女が本当に嬉しそうに頬を綻ばせたので、店主はまた顔を赤くした。


「お代わりどうです?」


 もうすっかりアナスタシア専用の屋台になったように、自分が使っていた椅子まで差し出し、アナスタシアが頷く毎にお代わりを椀に注いでいた。アナスタシア一人で食べつくしそうな勢いだ。

 アーシアは自分は食べもせず、アナスタシアの様子をにこにこ見つめている。


「君は? 食わないの?」

「いえ、僕はいいんです」


 アーシアはそれが当然のように首を振った。


「だって君も腹減ってるだろ? あ、もしかしてお嬢様と同じもんは食べないの? 決まり?」

「いえ。僕はあまり食べない方なんです」

「……でも、美味いよこれ。ねえ、お嬢様」

「うん!アーシアも一杯くらい食べろよ」


 アナスタシアは力一杯頷いた。アーシアは微笑み返し、それから「じゃあ、」と、手を伸ばしかけた。

 その時――


「いたぞ、あそこだ!」

「あの屋台だ!」


 鋭い叫び声が上がり、路地の角に数人の男達が姿を見せた。我先に屋台を目指して駆けてくる男達を見て、店主が妙な声を上げる。


「ひゃあ! 警備隊だ! もしかして俺? 俺何にもしてないよー」


 だが、それ以上に慌てたのは、アナスタシア達だった。


「アナスタシア様、まずいです!」

「げっもうバレたの!?」


 アナスタシアは一瞬手にしたお椀と迫り来る警備隊士達を見比べ――、結局逃げる方を選択した。


「行くぞっアーシア!」

「はいっ!」


 二人は脱兎の如く駆け出し、ついで三人の隊士達が屋台の前を駆け抜けていく。


 店主は呆気に取られたまま、その光景を見送った。






 アナスタシア達は細い路地を飛ぶように駆け、いくつもの角を曲がって逃げ続けた。だが慣れない街に、相手はこの街の警備隊士だ。元々分が悪い。

 みるみる追い付かれ、袋小路に追い詰められてしまった。


 警備隊士達は完全に入り口を塞ぎ、肩をぜいぜい言わせながらも、ゆっくり近づいてくる。


「行き止まりだぞ、観念しろ!」


 壁の前で振り返り、アナスタシアは彼等を睨み付けた。アーシアはさっとアナスタシアと彼等の間に立つ。


「ファーガソン達はどうなったんだ! ちゃんと条件どおりにしてなきゃ、私は戻らないからな!」


 語気鋭く問いかけられ、警備隊士達は顔を見合わせた。


「? 何の事だ?」

「さあ」


 隊士の一人はアナスタシアの問いを無視して、ずいと寄った。飛び掛かれば押さえられる距離だ。


「さっきトートー服飾店でお前達が服を盗もうとしたと通報があったんだ! 特徴は十四、五の、身なりが良くて、長い黒髪の少女と青い髪の少年。お前達に間違いないな!?」


 今度はアナスタシアとアーシアが顔を見合わせる。


「盗むって……失礼な!」


 アーシアはさっと顔をきつく引き締めた。そんなつもりは全く無いし、アナスタシアにそんな言い方をするのは聞き捨てならない。


「何が失礼だ、金を払おうとしなかったんだろう」

「店主から事の次第は聞いてるぞ!」

「そ、それは」

「とにかく、事情を聞かせてもらおう。おとなしく」

「なあんだ、正規軍じゃないんだ」


 場違いに明るい声で、心配して損したと言わんばかりに、アナスタシアは溜めていた息を吐き出した。


「軍?」


 軍と聞いて、隊士達が驚いた顔を見交わす。が、彼等が想像したのは別の事だった。


「おい、こいつらもしかして手配者か?」

「単なるコソ泥じゃあないのか」


 少しだけ隊士達はおののいて身を退いた。あんまり大きな事件は扱った事がないのだ。アナスタシアはむっと頬を膨らます。


「誰がコソ泥だ! お前等ちゃんと確認してから来い!」

「アナスタシア様、もっといけません」


 隊士達に確認されてしまったら、ずっとまずい事になる。そうは言ってもこの時点でもう既に、この街には居られないが。


「アーシア!」


 アナスタシアは高らかに呼ばわった。


「はい」


 アーシアが頷き、すうっと息を吸い込む。青い瞳が瞼に閉ざされた。


 アーシアの形が空気に溶けるように揺れた。


 警備隊士達は、目の前に起こった信じられない光景に息を飲んだ。

 少年の姿が、ゆっくりと変わっていく。


 玉を磨き上げたような、青い、青い鱗。長い首と長い尾。


 広い翼――


「ひ……飛竜……!?」


 そこに居たのは、濃紺の美しい鱗を連ねた、少し小柄な飛竜だった。


 アナスタシアがさっとその背に飛び乗る。


「行こう」


 飛竜――アーシアは、答える代わりに青い瞳をきらめかせ、大きく翼を広げた。






評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ