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第三章「炎舞う」 四

 アナスタシアが王都を飛び出したという知らせを受け、駆けつけたエレノア・コットーナ伯爵夫人と長老会筆頭ソーントン侯爵は、アナスタシアの残した壁の文字の前で、しばし呼吸すら忘れた。


 エレノアはようやく一呼吸した後卒倒し、ソーントン侯爵は禿げ上がった頭に血管を盛り上がらせたが、肝心のアナスタシアが目の前に居ないのでは、怒りのぶつけようもない。


 ソーントン侯爵はしばらく身悶えんばかりにアナスタシア出奔の事実を反芻していたが、半刻後、漸く少し冷静になった頭で、事態の重大性に思い至った。


 当主の出奔。


 長引けば、王の前で行われる爵位継承式が取り止めになるどころか、爵位返上の大問題だ。


「と――とにかく、当面対外的にはご旅行中としておくのだ」


 急遽招集され青ざめた長老会の面々を見渡し、ソーントン侯爵は努めて強い口調で告げた。


「出奔などとは、間違っても口にしてはならん」

「それはその通りですが、肝心のアナスタシア様をお探しするのはどのように……」

「各所領に伝令をし、めぼしい街を探させるしか」


 長老達はお互いの顔を見合わせたが、ソーントン侯爵は彼等の対応を一蹴した。


「南方になど絶対に足を踏み入れんわ」

「では、他の三家に極秘裏に協力を求めて……」


 ソーントン侯爵は発言者をじろりと睨みつけた。


「そんな事が出来る訳がなかろう。アスタロトの恥を晒す気か?」

「では……」


 では、と問われてすぐに出せる答えはなかった。

 ただ、まず最初にやらなければならない事がある。

 関係者への徹底した箝口令だ。


 結果として、ファーガソンを初めとしたアナスタシア邸の者達は当面の間邸内に留め置かれる事になり、図らずも、アナスタシアの画策は一義的に実現する形となった。




 

 

 軍の上層部だけに、その情報がもたらされたのは、丸一日経ってからの事だった。

 僅かひと月後に新たな将軍を迎える準備に追われていた彼等にとって、それは正に晴天の霹靂だ。

 もちろん、アスタロト公爵家長老会は次期当主の家出……もとい、出奔を伝えた訳ではなく、とにかく曖昧に言葉をぼかしつつ、「旅行中の公女の安全確保」を要請した。


 一方、そうして言葉を濁したにも関わらず、苦虫を噛み潰したようなソーントン侯爵の前で、正規軍副将軍タウゼンは物分かり良く頷いた。


「必ず、公女の御身をお守り致します。無事にご旅行からお戻り頂きます故、どうかご安心を」


 タウゼンは自信たっぷりに請け負うと、ようやく肩の荷を少し降ろしたようなソーントン侯爵が総司令部を出るのを出口まで見送り、溜息を吐いた。


(――母娘ともに、良く似ておいでだ……)


 先代アスタロト公も時折、気儘に旅に出ていた事を、タウゼンは思い返していた。アナスタシアが生まれてからはその放浪癖も無くなったが、以前は度々出奔し、その都度同様に捜索をかけては、辺鄙な街の屋台で何やらぱくついて居る所を確保したりしたものだ。

 タウゼンは何度と無く血管を切りそうになり……十度目くらいに、アスタロト公爵を北方の温泉で発見した辺りで、悟る事にした。


 アナスタシアの奔放ぶりも、タウゼンや他の将軍達は良く知るところだった。


(血は争えん……)


 だが、軍に長い者ほど、それに対しての不満は少ない。

 アスタロト公爵家の直系は、本来が奔放なのだ。アスタロト公爵家に連綿と受け継がれる、炎の特性と言うべきかもしれない。

 その苛烈さと奔放さ、美しさこそが炎であり、アスタロトだ。


 そしてまた、あの炎を持つ限り、アナスタシアの身に危険が及ぶ事はあり得ないと、彼等は考えていた。


 すべき事は一つ。捜索し、早期に無事保護する。それだけだ。


「早急に『ご旅行』先をお探しせよ」


 定例の会議の最後に、タウゼンは四人の将軍達にそう指示した。


「念の為、末端の兵達には公女の身分は伏せるよう徹底させるのだ。余計な混乱を与えるからな。ただ、くれぐれも手荒な真似はせぬよう、それを厳重に守らせよ」


 東方、西方、南方、北方各将軍も良く心得ていて、タウゼンの指示に質問もなく頷くと、それで会議は終わった。

 


 

 


 正規軍の動きは、ごくひっそりとではあるが、近衛師団へも流れていた。

 どれほど極秘裏に動こうと囲いをしたところで、必ずどこかからは水は洩れるものだ。


「やるなぁ、次期将軍!」


 何故か生き生きと眼を輝かせた同僚を眺め、ヴィルトールはいつもの溜め息をついた。


「何で喜ぶのか、それが判らないな」


 クライフは何故判らないのかと逆に眉を上げる。ヴィルトールの手元の杯に酒を注ぎ、それから自分の杯を満たした。


「おもしれぇじゃん。やっぱ熱いねぇ〜炎帝公!」


 だいぶ酔っているようにも見えるが、まだ店に入ってから半刻も経っていない。これはもともとのクライフの性格だ。


「正規には災難だろう。おおっぴらにする訳にもいかないし、でも捜して無事連れ戻さなきゃいけないからね」

「一人くらいこんがり焼けて帰ってくるかな」


 近衛師団の彼等にとっては、正規軍の混乱は基本的に酒の肴だ。単に冷たいと言うのではなく、正規軍の管轄には要請が無い限り近衛師団は関わらず、その逆もまた然りと、それが不文律だからだ。


 二人はそれぞれ近衛師団第一大隊の将校で、今日も仕事帰りに肴を楽しみつつ、酒を酌み交わしているところだった。

 ヴィルトールは右軍中将で三十代半ば、クライフは中軍少将で二十代前半。だがお互い気の合うせいで、任務外ではこうして良く酒を飲む間柄だ。


 クライフを諫めるが、ヴィルトールも対応的に大差はない。


「まあうちの総将はかっちりしたお方だし、一隊の大将はもうご高齢だからね。その点じゃあのんびりしたものだ」

「あんな美人ならともかく、じじいが飛び出したってはなから捜す気ねぇよ。ま、正規の話はいいけどよ、」


 クライフはもう一本葡萄酒を注文してから、卓の上に身を乗り出した。今度行われる御前試合の方が彼等にとっては重要なものだ。

 王の御前試合を取り仕切るのは近衛師団の役割だ。


「今回の御前は、ライモン・タナトゥスが出てくるらしいぜ」

「ああ……聞いた事はあるな」


 タナトゥスは南方のユーフェリア地方で名を馳せている傭兵だ。

 南方出身のクライフ程ではないが、ヴィルトールも聞き及んでいる程だから、今回の御前試合の最有力候補の一人だと言える。


「でも、資格が竜の宝玉だろう? 私ならやりたくないなぁ」


 ヴィルトールの口調は何とものんびりしていたが、実際今回の条件は厳しい。


 ただ、御前試合に出るという事は、最低でも軍の幹部候補、もしくは法術院の官位が約束されたも同然で、それに賞金は五十万ルスとかなりの高額だ。

 当然、王の覚えもめでたくなり、だからこそ危険を冒して挑む者は跡を断たなかった。


 近衛師団で言えば、ずいぶん前だが第二大隊大将トゥレスが御前試合出身者だ。彼は入団後、僅か十年足らずで大将位に昇っている。


 クライフはと言えば、五年前に入団したが、御前試合に挑戦しなかった事を今でも悔やんでいた。御前試合は二年に一度行われるのだが、クライフは急いで、中間年に通常の入団試験を受けてしまった。

 後から考えれば、試合に出る方が断然面白そうに思えた。


「俺はやってみてぇ! 竜なんて滅多にお目にかかれねぇし」


 一人だったらどの程度まで行けるかな、と想定し出したクライフの前で、ヴィルトールは彼の物好きさ加減に呆れている。


「それに西は今、風竜いねぇじゃん。いい機会だよなぁ」

「いたらあんな条件は出せないよ」


 ヴィルトールは肩を竦めた。


 風竜――クラリエッタがレオアリスに告げた言葉の中にも出てきた名だ。

 この国には多くの竜達が棲み、その名は常に、畏怖を持って語られる。

 中でも特に強大な力を持つ古い竜を、各方面とその特徴毎に、東の地竜、西の風竜、南の赤竜、北の黒竜と呼んでいた。

 恐れられる竜達の中でも最も高位の、最も出会いたくない相手だ。


 その一角の風竜は、四百年前の大戦の折り西海バルバドスに付き、一人の剣士に弊されるまで長く王国に甚大な被害をもたらした。

 だから正確には現在は三頭という事になるが、大戦の伝承は今でも恐怖を帯びて語られる。


「そんな大物がそうそう出てくる事もないだろうけどね、御大っていうのは基本的に動かないものだし。と言うより、今他の三頭がどこにいるかも実際は判ってないからなぁ」

「寝てんじゃねぇの? どっか地下でさ」

「そうかもね。それはともかく、あんな条件で何人出てくるやら私は疑問だね。まあ、倒してこいと言わないだけましだけど。取りあえず今回は術士の方が分がいいだろうね」

「うちも術士を補強してぇから、それはそれでいいけどな」

「御前の術士が軍に入る訳ないよ。全部法術院に持っていかれる」

「それなんだよなぁ。いっそ御前の勝者を賭けて御前試合するってのはどうだ? 竜でもいいけど」

「……面倒だよ」


 ヴィルトールは本当に面倒くさそうに顔を逸らした。


「ちぇ。やる気ねぇなぁ」


 そんな会話と酒を交わしながら、彼等の話題はまた別のものへと移り、やがて紛れていった。



 

 

 

 東方の辺境に連なる険しい山脈をミストラ山脈と言い、その一帯をミスティリア地方と言う。

 正規軍東方第七大隊の駐屯地、ミスティリア地方最大の軍都サランバードにも、アナスタシア出奔の報せは届いていた。


「公女が家出した?」


 そう聞き返した後、正規軍第七大隊「辺境軍」大将、レベッカ・シスファンは喉を反らせて笑った。


「シスファン大将、少し言い方を考えてください、肝が冷えますぜ」


 彼女の副将イェンセンは眉をしかめて室内を見渡した。広い大将執務室内には彼等二人だけしかいないのだが、万が一兵達に聞かれでもしたら、さすがにあまり具合のいいものではない。


「『ご旅行』です、『ご旅行』。伝令文にもそう書いてあるでしょうに」

「はははっ! お元気そうで結構!」

「大将……貴女がこんな辺境にいる理由が何となく判りましたよ」


 歳上の副将の呆れた目にも、シスファンは全く気にした素振りもない。


「有能故さ。――それで、公女をお探しするのに何隊出せと言って来てるんだ、王都は」

「いえ、今回うちは用無しみたいですね。公女は北か西に向かったとあります」

「何だ、つまらんな。公女は一人でお出になったのか?」


 イェンセンは短い顎髭を引っ張り、手にした書状を覗き込んだ。


「いえ、近侍を一名お連れになっております。アーシアという少年で」

「――。駆け落ちか?」


 イェンセンは今度こそ慌てて辺りを見回し、シスファンはまた笑った。


「まあ案ずる事はない。あの方は先代公より更に強い炎をお持ちだというしな。御身の心配には及ばないだろう」

「しかし最近は、暖かくなって野盗も増えてますからな」

「野盗の身を心配するんだな」

「――まあ、そうですな」


 イェンセンも頷くと、持っていた書簡を畳み、懐に仕舞った。



 

 

 アナスタシア出奔の噂はそうして各軍の上層部に素早く伝わりつつも、どこもあまり深刻に受け止められないまま、出奔からはや二日目を迎えようとしていた。







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