涙
ソフィは長椅子に腰掛け、動かない右手をぼんやりと眺めていた。
親方にも既に怪我のことは伝えてある。
直接謝りたかったのだけれど、外出許可が出ないので、サラに代筆してもらい手紙を出した。
親方からは『戻ってくるのを待っている』という言葉だけが届いた。
「ごめんなさい、親方……」
ぽつりと呟く。
せっかく親方が待ってくれていても、もうあの工房には戻れない。
琥珀細工師にはなれない。
せっかくたくさんのことを教えてもらったのに、なにひとつ返せないままになってしまった。
涙で視界がぼやける。
親方には、いつか一人前になって恩返しをしたいと思っていた。
それができなくなってしまったことが辛かった。
それでも後悔はしていなかった。だから、涙なんて必要ない。
ソフィは溢れ出しそうになった涙を、左の指先でそっとぬぐった。
そのとき、部屋の扉がノックもなしに勢いよく開かれた。ソフィが驚いて顔を上げると、そこには小さな少年が立っていた。
「ジャン……」
「どういうことだよ。兄上との結婚は断るって、そう言ってただろ?」
そんな話もしたな、と懐かしく思い出す。
ふたり並んで、一緒にパンを食べたときのことだ。
「事情が変わったのよ」
ソフィはあえて淡々とした口調で告げた。
「それは……。でも、だからって……」
ジャンが言葉に詰まって、立ち尽くす。
相変わらず顔色が悪い。きっと無理をしているのだ。
夜も、あまり眠れていないのだろう。
そんなジャンの姿を見るのは辛かった。
「ジャン、これまでどうもありがとう。でも、もうわたしのことは気にしないで」
ソフィはジャンに笑顔を向けた。
「そんなことできるわけないだろ!」
ジャンが顔を歪めて吐き捨てるように言う。
「できるわよ。クルトさまはこんなわたしでもいいって言ってくれているわ。それに、彼と結婚すれば暮らしは安泰。そうでしょ? 右手が不自由でも、身の回りのことを手伝ってくれる人だっているわ。なにも問題はないのよ」
「問題はあるだろ? ソフィは兄上のことをよく知らないだろ? 兄上だって同じだ。まだ、手紙のやりとりをしただけじゃないか。それなのに、結婚を申し込むなんて……」
「よくあることよ。それに、もし結婚の話を断るとしたら、わたしはこれからどうすればいいの? 責任をとってくれるって言ったわね。でもあなたはまだ十三歳で、騎士見習いで、お兄さまと違って領地だって持っていない。それでどうやってわたしを助けてくれるっていうの?」
胸が締めつけられるように痛い。
それでも、ソフィは言わなければならなかった。
わずかに開いたジャンの唇が微かに震えている。
「わかった? ジャン、あなたじゃ無理なのよ」
ソフィは声が震えないようにするので精一杯だった。
なんとか最後まで言って、ソフィは顔をこわばらせているジャンから視線をそらした。
これ以上、自分が傷つけたジャンの姿を見ていることはできなかった。
目の奥が熱くなる。
零れ落ちそうになる涙を必死に堪えた。
どれほど時間が過ぎたころだろうか。
パタンと静かに扉の閉まる音が、ソフィの耳に届いた。
その音を聞いた途端、ソフィの目からは、せきをきったように涙が溢れ出した。




