前編
薄暗い部屋。
私の上下左右を塞ぐ鋼鉄の汚れた壁は、重々しい雰囲気を醸し出している。壁は細長く伸び、上下と左右の視界を塞ぐ代わりに正面はどこまでも見通すことができる。
とは言っても一定間隔で並べられた小さな穴から差し込む光、およびにその直近以外は暗くてはっきりとは見えないんだけど……。
ガシャン! ガシャン! と規則的に鳴り響く轟音は、音というよりは衝撃波のように私を攻撃してくる。いや、実際に地震のような振動も少し前から感じている。不快な雑音に合わせて大きく揺れるのだ。
低速で動く床は座り込む私を震源へと連れていく。この床に揺られ始めてからもう数十分が経過しているだろうか。長旅のお供は私のすぐ隣を流れる用途不明の棒。何かのパーツだと思われる白く頑丈そうな棒だけど、その他一切のことはわからない。
あともう一つ、私の正面にあるこれは鉛筆削りだろう。ハンドルが中途半端なところで折れ、左右で2つ付いているはずのウサギの耳のようなパーツは片方だけしか見当たらない。これでは鉛筆削りの役割を果たすことはできないだろう。
ガシャン! ガシャン!
さっきまでよりもはっきりとした雑音。振動も強い。その音源、震源の正体がやっとわかってきた。
それはまたも鋼鉄でできた四角い物体。動く床の上で上下運動するそれはまるでスタンプだ。鋼鉄で巨大で、いかにも重そうなスタンプを捺すのはこれまた鋼鉄の機械。
しかし、スタンプを捺されるのはお手紙でも落書き帳でもない。私の前を進むガラクタたちだ。スタンプが持ち上がった時に見えた彼らは粉々に砕かれ、もはや事前の趣を一切残していない。もともとそれは何だったのかは疎か、どんな形をしていたのかなんていうことすら分かりはしなかった。
やがて私もああなるのだろうか?
なるのだろうか? ではない。絶対にああなるのだ。それも数分後には粉々になって私は私ではなくなるのだろう。彼らのように粉々になって、私なんて存在は誰からも認識されなくなる。
そんなことをただ呆然と考える。
そうしている間にも私はスタンプに近づいていく。
恐怖はない。私は恐怖を感じるようにできていないから。
本当にそうだろうか?
そもそもそれを言うのならば、私にものを考えるなんてことはできないはずだ。
でも、本当に私には恐怖なんてなかった。その代わりに、それ以上の心残りを感じている。消えちゃう前にどうしてもしたいことがある。
でもそれが叶うことは永遠にないのだろう。
最後になるのならどうしても伝えたい。
(ありがとう……)
ガシャ―――――――――
ふと目を開けると、オレンジの光が瞳に飛び込んできた。
「眩しっ」
なんて声がついつい漏れる。光から視線を外して辺りを見回すと、そこは閑静な住宅街だった。ピンクや黄色、水色なんかのパステルカラーの家々が黄色いレンガの道に沿うようにして並んでいる。オシャレという単語がよく似合う街並みだ。
どうやらさっき眩しかった光は太陽のようだ。真横から差し込んでいる感じから朝か、夕方だと思うんだけど…………その時、どこからともなく鳴るキーンコーンカーンコーンという鐘の音が街に響いた。
この音には聞き覚えがある。『ゴジの鐘』と呼ばれるもので、この鐘が鳴ったら家に帰らなければいけないという合図だ。と、いうことはどうやら現在は夕方らしい。
と、まあ、時間がわかったのはよかった。
でも今はそんなことよりも、だ。
……私はどうしてここにいるのだろうか? そして一体私はどこのだれで何者なんだろうか?
名前だけは憶えている。いや、正確には憶えているわけではなく、何度も心地よい風鈴のような少女の声が私の名前を呼ぶのだ。『リボン』と。
「わぁー、あなたアカネと同じお洋服だね!」
そう、ちょうどこんな声だ。どこまでも透き通るような―――
「うわっ」
下からニュっと私の視界に生えてきたのは、ギリギリ10歳くらいに見える幼い少女だった。にこにこと楽しそうに微笑む彼女は私よりもやや身長が高く、手入れの行き届いたきれいな黒髪は左右の耳の下でそれぞれ結っている。
そんなおさげな彼女の言う通り、私たちのドレスそのものはほぼ同じものだ。黒を基調としたドレスを純白のフリルやリボンで飾っている。複雑な衣装なのにも関わらず私たちのドレスは全く同じものだった。もしかしたらこのドレスは普通に売られているものなのかもしれない。
彼女との大きな違いといえば、私は頭をドレスに似合わないピンク色のリボンで飾っているのに対して、彼女はやる気無げに根元でふにゃりと折れたとんがり帽子をかぶっていることだろうか。
「だいじょうぶ?」
ぼーっとしてしまっていたのだろう。彼女は心配そうに私の顔を覗きこんでくる。
都合、急接近した彼女の顔からどことなく懐かしい感覚を覚えた。もしかしたら記憶が無くなる前に彼女とはなにかしらの接点があったのかもしれない。
「……うん、なんともないよ。えーと、君は?」
「アカネはね、アカネっていうの。あなたは?」
どうやらアカネの方は私のことは全く知らないらしい。
「リボン」
「リボンちゃん? ……めずらしいお名前だね。やっぱり外国から来たの?」
アカネは私の金色の髪を物珍しそうに見ている。
「そうかもしれないけど、違うかもしれない」
正直、記憶がない私はこれ以上の回答をすることはできない。案の定アカネは「?」と首をかしげてから、考えることを諦めたかのように元の無邪気な笑顔に戻って、
「髪、とってもきれいだね」
と、話を変えてきた。
『リボンの髪はとってもきれいね』
頭の中でそんな澄み切った声が聞こえた。過去の記憶だろうか。
「カ、アカネの髪もきれい」
「ふふっ、ありがと。これね、いつもママがやってくれるの」
アカネは自慢げにおさげの片方を手に取って見せつけてくる。
このしぐさもか。どうも彼女の挙動の多くに私は既視感を覚えてしまう。
「アカネは、本当に私のこと知らないの?」
あまりに不自然な質問かもしれないけど、既視感が抜けない以上やはり私と彼女は知り合いだったのではないかと思ってしまう。
「ん、どこかで会ったことあったっけ? ごめんね、アカネお友達の顔は忘れないと思うんだけど……」
突拍子もない私の質問だが、アカネはむむむ……と申し訳なさそうな表情で思い出そうとしてくれている。しかしその結果は芳しいものではないようだ。
「変なこと聞いてごめんね。私の勘違いだったみたい」
私が謝ってもまだ唸りながら思い出そうとしてくれているアカネに、むしろこちらの方が申し訳なくなってきて、「ところでさ」と私は話題を変えようと試みる。
「ん?」
よし、アカネは考え事を中断してくれた。
「もう『ゴジの鐘』はなったけど、アカネは帰らなくていいの?」
私の質問に対して、アカネはえっへんというように胸を張って、
「今日はハロウィンだからご近所までなら許されるのだ!」
そう勢いよく言い放った。
ハロウィンっていうとたしか、小さい子供が近所の家々を回って、お菓子をもらうという行事だった気がする。
私の脳裏に映像がよぎる。それもまたオレンジ色の夕方のことだった。
『とりっくおわとりーとぉ』
呪文を唱えるような声が背後から聞こえて、正面のおばあさんがキャンディーをくれる。それからおばあさんは私を見てこう言った―――
『あら、今日はリボンちゃんとおそろいのお洋服なのね。とっても似合ってるわ』
なぜか私はそれに答えない。その代わりにまた背後から誰かが答える。
『そうなの。ばあばが縫ってくれたの』
えへへと背後の声が照れるように笑うと、私の視界はゆらゆらと揺れた。どうも自分で立っているにしては不自然な揺れ方だ。例えるならば、船に揺られているような―――
「また、ぼーっとしてるよ。リボンちゃんやっぱりどこか悪いんじゃない?」
アカネは体勢を低くして、私の顔を覗きこんでくる。
「なんでもない。それよりアカネ、お菓子をもらいに行くなら私も付いていってもいいかな?」
さっきからの既視感や、謎の声や映像。私の記憶と思われるそれらは、アカネと一緒にいることで結構思い出せるかもしれないと考え、私はそうお願いした。
「全然いいよ。一人より誰かといた方が楽しいもんね」
アカネは考えるような間もなく、相変わらずの笑顔で了解してくれた。
そして彼女は、「じゃあ、行こうか」とこちらに手を伸ばしてきたので、私はその手を握る。と、同時にアカネが急に駆け足を始めるものだから私は半ば彼女に引きずられるようについていく。
「まずはこのじゅーたくがいの端っこまで行って、それから戻りながらお菓子を集めるの」
アカネは夕日の方向へと黄色いレンガの道を、私のことを引っ張りながら駆ける。彼女の言う住宅街というのは、この黄色のレンガの道沿いに建てられた家々のことだろう。
実際にしばらく走った後に、レンガと砂浜の境目でアカネはぴたりと止まった。ここまで引っ張られてきた私はというと、お菓子集めはこれからだというのに、もうヘトヘトでゼェゼェと肩で呼吸しているような状態だ。
「わ、近づくとやっぱり夕日きれいだね」
アカネは特に息が上がることもなく、そんなことを言う。私ではない、夕日の方を見つめながら。
その視線をなぞるようにして私も顔を上げると、そこには遥か遠くに見えるオレンジ色の水平線と、そこに沈む大きな太陽があった。
「川?」
川というと、もっと細く、流れがあるようなイメージだったけど、この川は違った。対岸なんて見えなければ、流れなんてものは感じられなかった。強いて言えば静かな波が不規則に砂浜に乗り上げているくらいだ。
そんなことを考えていたら、隣のアカネがププっと笑った。面白いことなんて何もないこの状況で笑い出した彼女に私は訝しみの視線を送る。
「川じゃないよ。海だよ」
「……うみ?」
「そう、海。うーんとね、川と違ってしょっぱいの。夏はみんな海で泳ぐんだよ。あと海を渡ると外国にも行けちゃうんだよ」
「なるほど……」
またもやデジャヴだ。楽し気に海について教えてくれるアカネの姿は、私の記憶の中の少女と重なった。そして最後に彼女はこう言った。
『今度、一緒に行こうね』
透き通った声は何も変わらないけど、さっき聞いたものよりかなり落ち着いたトーンだ。
「じゃあ、まず一軒目」
アカネはすぐそばにあった水色の家の扉の前に立つと、インターホンがあるのにも関わらず元気よく扉を叩いた。
「おっばさーん!」
「はいはい。すぐ出るわね」
アカネの呼び声に答えるように家の中から聞こえたのは、少しかすれた、それでも優しそうな女性の声だった。
「ここのおばあさんとってもやさしいの」
「そう……」
アカネは楽しそうに笑いかけてくる。
しばらくすると扉が開いて、中から白髪のおばあさんが出てきた。彼女は孫が遊びに来た時よろしく嬉しそうに微笑んでいる。
「あら、アカネちゃん以外の子がこんな時期にこんなところにいるなんて珍しいわね。それに綺麗なブロンドの髪。外国の子なのかしら?」
彼女は私の姿を細い目に映すなり、物珍しそうにこちらを見据える。
「リボンちゃんっていうの、きれいでしょ」
私は紹介してもらったので、スカートの裾を持ち上げ、右足を引いてあいさつをする。
「まあ、丁寧にどうも。ヨーロッパの方の子ってことはアカネちゃんの親戚の子かしら? お洋服もお揃いだしね」
「あ、そんなことよりも、とりっくおわとりーとだよ」
アカネは思い出したかのように、例の呪文を唱える。おばあさんの話なんてまるで聞いていない。
そして目で私にも言うように促してくるので、
「と、とりっくおわとりーと」
と、少し恥ずかしかったものの言い切る。
「いたずらより、お菓子あげた方がいいわよね」
おばあさんは相変わらず嬉しそうに私たちそれぞれに両手から溢れんばかりのチョコレートを手渡してくれた。
「いたずら……? ありがと!」
おばあさんの言っていることが理解できなかったのかアカネは首をかしげてから、お礼を言ってチョコレートをポケットに詰め込む。かく言う私も、いたずらというのが何のことだか分からなかったけど、アカネをマネてポケットにチョコレートを入れた。
「ありがとうございます」
「じゃあ、次のおうち行こうか」
アカネは再び私の手を握って歩みだす。背中におばあさんからの「暗くなるから気を付けるのよ」という声が聞こえた。
次の目的地は隣の家―――ではなく隣の家をスルーしてアカネは進む。さらにその隣の家もスルーだ。
「ここの家は寄らなくていいの?」
「うん、ここの家は誰もいないからね」
少し寂しげにアカネは言う。空き家ということなのだろうか? こんなにきれいな家なのに……。
「あ、でも勝手に入っちゃダメだよ。ここら辺の家ってほとんどべっそうだから、勝手に入ったら持ち主さんが帰ってきたときにびっくりしちゃうからダメなんだって」
なるほど空き家ではなくて、別荘になってるのか。夏になるとこの別荘にやってきて海で遊ぶのだろう。
「じゃあ、普段はこの通りにはどれくらいの人が住んでるの?」
「うーんとね。さっきのおばあさんと、一緒に住んでるお姉さん。あとお隣のおばさん、おじさん。で、ママとアカネ」
「え、六人しかいないの?」
「うん、この間までお隣にお姉さんとお兄さんもいたんだけど、最近トカイに行っちゃったの」
アカネは寂しげではあるものの、飽くまで笑顔を浮かべたままそう教えてくれた。
「あ、でも寂しくないの。学校に行けばお友達……いるから」
私の表情が少し暗くなってしまったから、アカネは気を使ってくれたのだろう。しかし、自らを寂しくないと言う言葉とは裏腹に、彼女の表情はさらに暗くなり、ついにずっと見せていた笑顔までもがその顔から消えてしまった。もしかしたら学校に行っても友達と呼べるような人はいないのかもしれない。
アカネの性格ならすぐにでも友達なんてできそうなものだが。
「……大丈夫だよ」
私の口が反射のように自然に開く。
「一人じゃないから。私、アカネのこと大好きよ。私がこれからもずーっとあなたとお友達でいるから。そんなに悲しそうな顔しないで、アカネには笑顔が一番似合ってるよ。だから……笑って!」
私は最後にニコっとアカネに笑いかけた。いや、私が笑いかけたのはアカネではなかった。アカネに重なって見える別の少女だった。
それに今の言葉は、私の思考の外で発された言葉だった。正直なところ私は、励ます言葉なんて何も思い浮かばなかったのに、まるで何度も何度も胸の内で練習していた台詞であるかのようにスラスラとアカネを元気づけるような言葉を言い連ねたのだ。
饒舌すぎる台詞にか、もしくは私が初めて見せた笑顔にか、はたまたその両方にか。おそらく両方が原因だろう。アカネはキョトンという顔をしている。
「あ、ありがとう。リボンちゃんも笑うとかわいいね」
何はともあれ、最後にアカネは私に笑いかけてくれた。ただかわいいと言われてなんだか照れくさくて、私はサッと目を逸らす。
「次の家、行こうか」
「えー、もう笑うのおしまいなの? せっかくかわいいんだから、ずっとニコニコしてればいいのに」
アカネはからかうような笑顔を見せて、私の手を掴んで再び歩き出した。
さっき私が立っていた場所を通り過ぎて、しばらく進んだところにあったピンク色の家の前でアカネは立ち止まり、また扉をノックする。
待ってたとばかりにすぐ出てきたのは、中年くらいの夫婦だった。彼女らもやはりアカネを見ると嬉しそうに眼を細めた。それから私を見て、「アカネちゃんの親戚の子かしら」なんて言いながらも、特に驚く様子もなく二人ともにたくさんのお菓子を手渡してくれた。
そしてアカネが「ばいばーい」と手を振って、私もぺこりとお辞儀をしてまたレンガの道を踏み出す。
と、今度はすぐ隣のライトグリーンの家の前でアカネが立ち止まった。そしてスカートをふわりと浮かせながらこちらに振り返る。
「ここがアカネのおうち。ママ呼んでくるからちょっと待っててね!」
アカネはそう言い残すと、さらに身を翻して自宅だと言った家に駆けこんでいく。
「ただいまー!」なんて元気な声がドアが閉まりきる直前に聞こえた後、閉まってからも家の中からはアカネのものだと思われる足音がバタバタと聞こえてくる。
――――――2分くらい待った頃、再び扉が開かれた。そして玄関から漏れる光から出てきたのはアカネと、それに強引に引っ張られるアカネにそっくりな、でも落ち着いた雰囲気を漂わせるお姉さんだった。いや、
「ママ、お友達ができたの!」
と嬉しそうにアカネが話しかけているところを見るに、彼女はアカネの母親なのだろう。
「…………カノ」
そして私は彼女のことをよく知っている―――思い出した。アカネの母親ことカノを見ただけで忘れていた全てが、まるで花開くように思い出された。
私が名前を呼んだことでカノは私に視線を向け、それから目を大きく見開いた。
「あなた、リボン……なの?」