出港前夜
そんな事を考えていると、突然、誰かに肩を叩かれた。
驚いて振り返ってみると、丁度真後ろに礼装服を着た人物が立っていた。
身長は日本人としては少々高い170cm弱、壮年を通り過ぎてしわが入り始めているにも関わらず、日に焼けて、色黒となっている顔つきからは、盛観さを感じさせる。
男は、驚いている俺を面白そうに見ると、ニヤリと笑った。
「俺は、この艦の航空隊の隊長に任命された永野政信少佐だ。戦友達からは政と呼ばれている。確か……兵長だったな。お前の中学校の入学式以来だから数年振りか。元気だったか?」
中学校の入学式?……そういえば、家族が行けないからといって、代わりの人が来ていたような気がするような………
「この通り、ピンピンしてますよ。」
取り敢えず俺は、政少佐に見せつけるように手足を振ったり、跳ねたりしてみせた。
「どうやらそのようだな。」
政少佐は、成長した我が子を見るかのように、目を綻ばせると、静かに頷いた。
「聞いているだろうが、お前は俺の航空隊に配属されることになったんだ。分からん事があったら何でも聞いてくれ。」
「了解しました。………ところで政少佐、英雄になる為にはどうしたら良いですか?」
何でも質問して良いと言われたので早速、中学校の頃から気になっていた事を聞いてみる。
「英雄か………」
しかし、政少佐の顔つきが、急に暗くなった。
「少佐?」
何かまずい事を聞いてしまったのかと思い、声を掛けてみると、政少佐は気を取り直したかのように、苦笑いをする。
「英雄か、お前は英雄になって何がしたい?」
「何が、ですか………」
急な切り返しに戸惑う。
英雄になりたいとは思ってきたが、その先なぞ考えて見たこともなかった。
「俺は先の大戦において、数多くの王国軍機体を撃墜して以来、撃墜王「日の丸の政」と呼ばれるようになったが、それも戦争が終わるまでだった。…………戦争が終わってしまえば、国民の認知度と評価が高い、政治家達から自分達の地位を脅かすだけの邪魔者と扱われるだけの人間だ。」
そこで政少佐は、言葉を切るとこちらを真っ直ぐに見据える。
その目は、先程とは打って代わって鋭い。
「所詮、英雄なぞ政府に都合の良い時に作られるプロパガンダに過ぎん。それでもなりたいのなら、まずは生き残ることだ。いくら優秀な戦闘機乗りでも、帰ってこなければエースとは言えん。たとえ、臆病者と呼ばれても、場数さえ踏めば実力は必ず付いてくる。功を焦って無茶をするような奴は早死にするぞ。」
大戦中……いや、その後も色々とあったのだろう。
顔を強張らせ、真剣に言い放つその言葉は凄く重く、心に響いた。
思わず、息を飲む。
と、突然、政少佐は俺の顔を見ると、その強張らせていた顔を緩めた。
「ここで話すのも何だ、紘鳥に乗艦してからにしよう。付いて来い。」
そして、それだけ言うと政少佐は船渠と紘鳥を繋ぐタラップの方へさっさと行ってしまった。
今まで気づかなかったが、こう後ろ姿を見ると、如何に体をしっかりと鍛えているかがよく分かる。
何と言えば良いか………簡単に言うと、隙の無い動きをしている。
俺のいた予科練の教官が柔道の黒帯だったから判るのだが、武道の達人というのはどういうわけか常人とは何か違う歩き方をする。
政少佐もそれだ。
多分、今、俺が後ろから殴りかかったとしても、あっという間に返り討ちに会うだろう。
「何をしている。置いていくぞっ!」
俺が色々と考えている内に、いつの間にかタラップを登り始めていた政少佐に声を掛けられた。
「今行きます!。」
一旦、思考を止めると、慌ててタラップへと走る。
「少佐、予定より早い御到着ですね。」
「なに、女房と喧嘩してな。家に居るに居られなくてな。俺は早く来る気はなかったんだが、いつの間にか着いてしまった。」
艦内に入ると政少佐は早速、すれ違った航空隊の隊員と世間話をし始めた。
話を聞くに、どうやら相手は大西という名の大尉らしい。
かなり政少佐と親しいようなので、恐らく昔の部下だったのだろう。
政少佐も自然と楽しそうにしている。
「ところで少佐、後ろに立っているその少年は何者ですか?………確か、少佐にはお子さんはいらっしゃらなかったと」
しばらくぼうっと二人の話を聞いていたら突然、俺に話題が向けられた。
「自分は……」
「彼は兵長二等兵だ。」
……………俺が反応するより先に、政少佐が答えてしまった。
「そうか………貴様が兵長だったのか。」
大尉は、初めて俺の方を向くと、頭頂から爪先に至るまでじっと見てきた。
「ふむ…………」
しばらく唸っていたが、やがて手を差し出してきた。
「俺は大西だ。階級は見ての通り大尉。第四次大戦では政少佐の元で戦っていた。第42航空隊所属と言えば大方、分かるだろう。」
第42航空隊!!
思わず大西大尉の顔を凝視してしまう。
最新鋭とは言え、僅か8機しかいない航空隊でありながら、前大戦において最も多くの撃墜数を誇る伝説の航空隊である。
政少佐に劣るにせよ、この人も撃墜王なのだろう。
俺は、無意識の内に大西大尉から差し出された手を握ると、固い握手を交わした。
「よろしくお願いします。」
「こちらこそな。」
それが終わると、大西大尉は俺に聞こえないような声で、政少佐に何かを囁いた。
僅かに政少佐の表情に変化が現れる。
「艦長が呼んでいるのか……………」
大西大尉は、静かに頷いた。
「分かった。直ぐ行く。」
政少佐は軍帽を正した後、済まなそうにこちらを向いた。
「済まんな兵長、色々と教えてやりたかったんだが、あいにく急用でな。悪いが、この大西大尉に後のことは聞いてくれ。俺はこれで失礼する。」
それだけ言うと、通路の角の階段を昇ってどこかへ行ってしまった。
見知らぬ仕官と共に置いてかれた…………
「……………………………」
「……………………………」
しばらくの間、気まずい沈黙が流れる…………
「………まあなんだ。」
その沈黙の中、最初に口を開いたのは大西大尉だった。
「少佐はいつもは人に任せるようなことはしないんだが………計画での立ち位地上忙しいのだろう。あの人は部下思いの人だ、くれぐれも勘違いはしないようにな。」
「承知しています。」
「そうか、それなら良い。それでは、早速だが付いてこい。」
大西大尉は、政少佐を弁護すると、艦内の案内を始めた。
「まずは食堂だ。」
しばらく歩いた後、大西大尉はそう言うと、真っ直ぐ来た突き当たりの二枚扉を開いた。
扉の中からカレーの良い匂いが漂ってくる。
大西大尉に続いて中に入ると、目の前に大きな空間が広がった。
その広さに一瞬、呆然としてしまった。
見渡す限り、机と椅子の列が続いている。
「この艦が誇る世界最大の艦内食堂だ。」
大西大尉は自慢そうに言うと、入り口直ぐ側のボタンを押す。
すると、室内に扇風機が回るのに近いがそれよりも小さい音が
響き始めた。
「ここは、一度に2000人は軽く収用できる上、空調を搭載しているため、夏場所でも涼しい。一級のホテル並みの設備を搭載したたぐいまれな食堂だ。」
どうやら先程のボタンは、空調の起動ボタンだったらしい。
「…………戦艦には国家の最先端の科学が結集していると言いますけど、まさにその通りですね。」
あまりに驚きが好奇心に勝ってしまい、咄嗟にそれだけしか言えなかった。
「これで驚くのはまだ早いぞ。次は我々の寝床だ。」
俺の反応に気をよくしたのか、大西大尉は嬉々として食堂を出ると、艦尾の方へ行ってしまった。
無論、空調を切る事を忘れてしまっている。
……………空調は切った方が良いのか?…………しかし、色々とボタンが付いていているので、どれがどれだか分からず、勝手に触るのも気が引ける………
さあ、どうしたものか
「どうした、兵長。早く来い。」
そうこうしている内に、俺が付いてこないことに気づいた大西大尉の呼ぶ声が廊下から聞こえてくる。
………よし、何も見なかったことにしよう。
君子危うきに近寄らず、怪しいものは触らん方が良いに決まっている。
「今行きます!」
そうと決まればさっさと行く。
食堂を出て、しばらく真っ直ぐに行ったところにある階段に大西大尉は居た。
大西大尉は、俺が来たことに気付くと、
「遅いぞ、全く。呼ばれたら早く来るもんだ。」
とだけ言って、さっさと階段を昇って行ってしまった。
今度は遅れないよう、急いで追いかける。
巨大な艦の割に狭い上、迷路のような艦内通路を行ったり来たりすること20分近く。
次に着いたのは居住区だった。
「見ての通り我々航空隊の寝床だ。」
先程とは打って変わって狭い室内に、ところ狭しと二段ベッドが並べられ、その間の通路にはハンモックが吊るされていた。
「狭いですね。」
「まあな。何せ、この艦は乗組員が多いからな。余裕を持って作っていたら間に合わんよ。」
大西大尉は、おもむろに側のベッドに近づくと、柱を叩いた。
「だが、品は上等だ。ここのベッドはチーク製なんだが、樹齢百年の物を使っていてな。鉄より固い。ちょっとやそっとでは壊れんよ。」
「木も侮れないもんですね。」
「その分、金も掛かっているがな。」
素朴な疑問が浮かぶ。
「大体1台辺りいくらなんですか?」
「そうだな……………」
大西大尉は、何かを思い出そうとするかのように首を傾げた。
「大方……………1台80円数十銭だったと思うな。詳しい事は俺も知らん。多分、この件に関しては政少佐の方が俺よりも把握しているはずだ。」
……………ここにあるものだけで一体、いくら掛かっているんだろう?
「まあ、何はともあれ私物は全てここに置いておくことだ。くれぐれも下手な場所に置いてごたごたを起こすことだけはさけてくれ。」
大西大尉が叩いている所をよく見ると、棚があった。
恐らく、あそこに整頓しておくのだろう。
「ベッドは、まだ空いている所を自由に選んで構わんが、くれぐれも同じベッドの奴と喧嘩はするなよ。二人まとめて叩き出すことになる。」
大西大尉は、本当に心配するように注意する。
「心掛けます。」
「頼むぞ。昨日までのたった三日間で既に7枚も始末書を書いたんだ。これ以上は書きたくはない。」
……………士官は苦労するんだな。
一瞬、大西大尉の顔に浮かんだ疲れた表情からそう察した。
しかし、大西大尉は直ぐに表情を元に戻すと、荷物を置いて来るように指示してきた。
なので、俺は最も入り口に近いベッドの下の段を選んだ。
自分からは確執を生みたくなかったので、上下段まだ誰もいないベッドを選んだ結果、ここになった。
ベッドには敷き布団が敷かれており、掛け布団の代わりに1枚の毛布だけが綺麗に折り畳まれた状態でぽつんと置かれていた。
恐る恐る敷き布団に触れてみると、学校に通っていた時に学生寮で使っていた綿布団のごわごわしていた感触とは違って、柔らかい手触りがする。
多分、純粋に羽毛だけでできた高級な布団なのだろう。
全く贅沢品だらけだ。
俺はなるべく布団が汚れないように毛布の上に荷物を置くと、入り口で待たせている大西大尉の元へ向かった。
「どうだ。寝るだけで、疲れが全てぶっ飛びそうな布団だっただろう。」
どうやら大西大尉は、俺がベッドに物を置くのに躊躇している所を見ていたようで、少し苦笑していた。
「自分にはもったいなくて使えませんよ。」
本心から出た言葉だった。
最低限の仕送りと、内職で遣り繰りをしていた中学校生活を振り返ってみると、自分には贅沢品を使って生活する何て事はできそうにない。
俺の反応が当然の事であるとばかりに大西大尉は頷いた。
そして、ベッドとベッドの間にあるハンモックを指差す。
「そう言う奴も沢山居てな、誰が始めたか知らんが見ての通り、わざわざハンモックを掛けて、そこで寝る奴が出てきてしまった。………全く、これでは何のためのベッドだか分からん。」
確かにそうだ………しかし、こんな高級品に堂々と寝られる図太い奴など早々居ないだろう。
「まあ、それでも問題なく戦えるのなら俺は気にしないがな。」
大西大尉はそれだけ言うと、つまらなさそうに部屋から出ていった。
その後を慌てて追いかける。
「大尉、次はどちらへ?」
「格納庫だ。面白いものを見せてやる。」
「格納庫………そう言えば、航空戦艦には何という戦闘機が配備されているんでしょうか?」
機体を整備する上で、どういった戦闘機が配備されるのか知っておく必要がある。
最近、日本の主力戦闘機となった「鷲」か、はたまたまだ知られていない最新鋭機か………
「見てみれば分かる。ここで知ると驚きが減るぞ。」
しかし、大西大尉は、その青年の面影を残した顔をニヤリとさせてはぐらかしてしまう。
果たして何が出てくるんだろうか?
気になって自然と緊張してくる。
自分で言うのも何だが、出張から帰ってきた父親の土産を期待する息子みたいだった。
居住区を出て、艦尾方向にしばらく歩くと、やがて大きな空間が現れる。
大西大尉は振り返ると、ふっと笑った。
「着いた。この先が格納庫だ。」
一方その頃、兵長と別れた政少佐は、艦長室の前に居た。
「艦長、政だ。」
そう言い、政少佐は艦長室の扉を叩く。
「政か、早かったな。入ってこい。」
しばらくして中から返事が帰ってきたので、扉を開くと中に入った。
部屋の中は、竣工して間もないためか殺風景で、部屋の隅に配置されたベッドと棚を除けば執務用の机しかなかった。
そして、政少佐を部屋の中に招き入れたこの部屋の主は、その執務用の席に座っていた。
名前は石山鉄雄、階級は大佐で、この艦の艦長である。
「久し振りだな、呉以来か。」
俺が近づくと、石山は元気そうに立ち上がり、手を差し出した。
「そうだな、3ヶ月振りだな。」
俺も、再会を喜ぶように笑い、手を差し出すと、両者固い握手を交わす。
「奥さんは元気か?」
「最近、計画で忙しくてな。ろくに家にかえってなかったから怒って女房は実家に帰ったよ。」
俺がそう言うと、石山は駄目な奴だとばかりに首を振った。
「全く、あんな綺麗な奥さんを大事にしないなんてな。俺が代わりにもらってやろうか?」
「なに、女房もそれを承知で嫁に来たんだ。気にすることでもないだろう。」
「そんなだからお前の結婚生活は長続きしないんだ。今の奥さんは何人目だ?」
「まだ4人目だ。」
相変わらず石山は、痛いところを突いてくる。
全く、余計なお世話だ。
「まだってな、お前、もう四人目なんだぞ。結婚式の度に呼び出される身にもなってみろ。………まさかお前、まだ…」
「この話は後でにしろ。本題はなんだ。」
流石にこれ以上とやかく言われると、殴りかかってしまいそうなので、話を替える。
あまり、人の事は追及しないでもらいたい。
流石に石山も、家内の話をしたくないこちらの態度を無視する気はないのか、本題に移った。
「先日、東京某所で行われた秘密会談は知っているな。」
「ああ、無論だ。」
計画の最終調整として、首脳が集まったあれの事だろう。
「その事について悪い知らせだ。」
「会談で計画の延期でも決まったのかっ!?」
それで問題が発生しているのだとすれば、計画全体に支障をきたす事になる。
「いや、会談では特に問題は起きなかった。予定もそのままだ。」
「それでは会談前に…………」
「いや、会談後だ。」
「では、つけられたのか?」
「いや、その方面でもない。」
では一体、なんだと言うのだ?
しかし、石山はそこまでで一旦言葉を切った。
二人の間に沈黙が降りる。
石山の表情から、これから言うことが余程深刻だということが察せる。
「艦長、何があったんだ?」
しびれを切らして催促すると、石山はようやく口を開いた。
「ランス大佐が死んだ。」
「…………なんだと…………!?」
一瞬、我が耳を疑った。
そんな馬鹿な…………
「あの、鉄の男が、か!?」
確認の為、慎重に言おうとしたが、混乱のあまりつまってしまう。
それほど信じられない事だった。
ランス大佐は、かつて第四次大戦の支那中央戦線において怒涛の猛攻を続けるロシア帝国軍に耐え、欧州連合軍を勝利に導いた独逸の国民的英雄である。
第四次大戦後は、戦争恐慌に喘ぐ国民を救うべく、政治組織「ゲルマン民族国家全体主義労働党」を結成。
独逸各地で経済復興の為の様々な活動を行い、それによって国民の信頼を獲得、遂には党を大独逸帝国議会の第1党にまでのしあげ、当時の支配者層であった貴族を淘汰したことは有名すぎる。
その間、何度も暗殺されようとしながらも生き延びた実力と、ゲルマン民族特有の質実剛健な精神を体現した彼は、鉄の男として国内外に知れ渡っていた。
それほどの男があっさりと死ぬはずがない。
「間違いない。」
しかし、石山は首を振らない。
「独逸本国にツェッペリンで帰国したのだが、途中、悪天候の中飛行訓練をしていた空軍機体と接触事故を起こして墜落したらしい。ツェッペリンはガス嚢の水素ガスが爆発して四散、現在、党が軍や警察と協力して捜索しているが、生存は絶望的らしい。」
「……………そうか。」
あの男がこうも簡単に死んでしまうとは……………
「計画に支障をきたす訳にはいかないので、党はランス大佐の生存は諦めてグーダラン大将を党首に据えて乗り切る腹だが、少なからず計画に影響が出てくるはずだ。」
「………………そうか。」
計画が頓挫しないのは、不幸中の幸いと言ったところか。
「それと、もうひとつ。」
「まだあるのか………?」
これ以上、何か起きているのなら、計画の修正が必要になるぞ。
だが、石山が言いたい事は違うらしい。
「ランス大佐は置き土産を残していったらしくてな。」
「置き土産だと………?」
「ああ、そうだ。」
石山はそう言うと、俺の右後ろの方に合図した。
そちらには棚しかなかったと思うが……………
「……………!?」
と、突然、背後に何者かの気配を感じた。
咄嗟に振り向くと、いつの間にか棚の影に黒い軍服を着た男が立っていた。
いつの間に………!?
最初に感じたのは驚きではなく恐怖だった。
石山と会話している最中に、扉が開いた気配はなかった。
流石に気づかないほど衰えてはいない。
ということは、まさか最初から部屋にいたのか…………!?
これまで、数々の死戦を潜り抜けてきたおれだが、体が震えた。
この震えは覚えがある。
死線に直面した時の死と生の狭間を行き来するような感覚だ。
この男はあの、戦場を支配する死神に目をつけられたかのような身のすくむ思い、それを全身から醸し出している。
間違いなくこいつは危険だ。
しかし、石山は気にせずに話を再開する。
「ラインハルト・ベッケル少佐だ。ランス大佐秘密部隊にいた男で、ランス大佐がツェッペリンで帰還する際、計画の為に東京に留まっていたことで難を逃れた。だが、日本では白人は目立つからな。国外脱出を兼ねてこの艦に乗艦することになった。」
なんだと!?
「この男がか!?」
慌てて振り返ってみると、石山は「当然」と言うかのように頷く。
本気で言っているのか!?
「仕方なかろう。他の艦は少なくとも3日は前に日本を出てしまっている。日本にいるのはこの艦くらいだ。」
まるで利かん坊を説得する学校の先生のように言うが、どう考えても信用できる相手ではない。
恐怖も衰えてきたので、改めて相手を直視する。
見上げなければならない高い背に、着ている独逸軍の黒い軍服で隠せないほど隆起した肉体、顔を見ると、張り詰めたかのようにきっと結ばれた唇、そして軍帽。
雰囲気だけを除けば確かに武人の趣も感じられないこともないが……………
「その帽子はなんだ。」
あまりに深く被っている軍帽が、その全てを書き消してしまっていた。
というより、何なのだあの軍帽は。
礼装の軍帽ではなく、作業員が被っているような緑色の軍帽である。
それを鼻の頭の少し上位まで深く被っている。
頭がどうかしているのだろうか?
あれでしっかりと前が見えているのだろうか?
……………あの帽子を見ているだけで色々と疑問が浮かんでくる。
しかし、この男は区切った日本語で、
「禿げ を 隠す ため だ。」
……………聞くだけ馬鹿だったようだ。
溜め息をつくと、石山に向き直る。
呆れが顔に出ていたのか、石山は俺の顔を見ると苦笑した。
「まあなに、ラインハルト少佐は航空隊の新型航空機についての技術将校としてこの艦に乗る事になる。仲良くしろ。」
「………技術将校?こんな錐も鉋も使えんような男がか?もう少しまともな理由は考えつかなかったのか?」
はっきりと言おう、こんな男が整備に口出しするなら、いっそのこと赤子をその座に着けて飴玉をしゃぶらせてやっていた方がこの艦のためだ。
「仕方ないだろう。他に空いていた役がなかったんだ。………それに、ラインハルト少佐が問題を起こしてしまった時、信頼できる者が側に居た方が俺の健康にも良い。」
「…………俺の健康はどうなる?心労で胃に穴が空きそうだが」
「なに、心配はない。そうなったら上に負傷手当を支給するように掛け合ってやる。」
「…………それはご苦労な事だな。…………分かった。」
盛大に溜め息をつくと、ラインハルト少佐に向き直る。
ぐだぐだと無駄な話し合いをするのも馬鹿馬鹿しいし、第一、俺の性に合わん。
この男もランス大佐秘密部隊にいたのなら、立派なプロイセン軍人なのだろう。
なら、極端な事はしないはずだ。
かなり不安があるが、ひとつかけてみよう。
「政だ。よろしく頼む。」
俺が手を差し出すと、この男も手を差し出す。
「ラインハルトだ。 頼む。」
その手は硬く、まるで鉄のようだったが、鉄とは違い、暖かみが感じられた。
この男も人の子なのだな…………
そう感じた一時だった。
握手を終えて向き直ると、石山は机の中から一本の電報を出した。
「今度は良い情報の方だが…………」
そしてそう言うと、その電報をこちらに投げて寄越す。
「遂に第三艦隊が真珠湾を出港したぞ。」
「なんだとっ!!」
慌てて、石山が寄越した電報に目を通すと、確かにオアフ島を監視していた海26潜水艦からの報告だった。
『4月3日1200時 真珠湾ヨリ 戦艦 3 正規空母 3 軽空母 8 重巡 5 軽巡 8 駆逐 14 輸送及ビ油槽 24 出港セリ 速力 8海里 目標ハ マリアナ』
これだ。
自然と肩が震え出す。
怯えからではない、武者震いだ。
これを待っていた。
あまりに力が入ってしまい、電報がぐしゃぐしゃになる。
「これで我々の攻撃に大義名分ができる。」
その俺の様子を見て、石山も力強く頷く。
「その通りだ、政。これは明らかな侵略行為だからな。敵はやられても声高に非難することはできん。まさに天祐だ。」
現在、計画を遂行する上で、太平洋のど真ん中にいる第三艦隊は、最も邪魔な敵である。
故に、計画初期の段階でどうやっても撃滅しなければならなかった。
だが、真珠湾に留まっている艦隊を叩くのは容易ではない。
よって、真珠湾から出たところを叩くのが我々の最初の作戦だった。
しかし、ただ出てきたところを叩いたのでは当然、米国国内世論の怒りを買ってしまい、確実に米国と戦争になる。
確かに米国はいずれ戦わなければならない相手だが、今の我々の戦力では到底、米国には太刀打ちできない。
ならばどうするか…………米国が世論に訴えられないようにする大義名分を作れば良い。
米国は第三次大戦以来、亜細亜進出を虎視眈々と狙っていた。
そして、それは第四次大戦後の戦争恐慌を機に段々と実行に移されていくようになった。
そして今、それに基づいてマリアナ諸島を足掛かりに東南亜細亜に進出しようと目論んでいる。
恐らく欧州各国は知っていたとしても何もしないだろう。
何故なら、マリアナ諸島も東南亜細亜も、その殆どが日本の領土だからだ。
奴等にとって日本人など「グーク」、日本列島と言う極東の島国に住む、西洋人の真似事をするナメクジやゴキブリといった虫けら、しかも害虫でしかないのだ。
そいつらから領土をぶんどっても何ら問題はないと思っているのだ。
米国もそれを承知の上でやっている。
たまったものではないが、それが現実だ。
だが、国民は、この侵略行為をどう思うか?
正当な理由がない限り、まず、よくは思わないだろう。
何せ、国民というのは自分が正義側でありたいと思うものだからだ。
まあ、間違いなく議会に大統領への不信任案が提出されるだろう。
無論、向こうもそれは分かっているから、この侵略が一段落つき、こじつけの盟約なり何なりで合法化し、領土専横が国際的に認められるまでは隠し続けるだろう。
そこに漬け込む。
我々が第三艦隊をマリアナ諸島沖で潰したとしても、あちらはそれをそう簡単に国民に知らせることはできない。
何せ、公にしてしまえば、何故そこに第三艦隊が居たのか、ということになる。
理由を話せば国民にこちらへの敵意を植え付ける前に大統領の首が飛ぶだろうし、米国の国際的な立場が危うくなることは明確だろう。
あくまで、欧州各国が何もしないのは、米国が侵略したとしても自分達には何ら被害がないからだ。
公になれば立場上、当然、欧州各国はこぞって非難するだろう。
結局、米国は泣き寝入りをするしかない。
まさに、これこそ天祐である。
「政、今回の作戦は如何に航空隊が第三艦隊に損傷を与えられるかが鍵になる……………頼むぞ。」
「任せろ。伊達に『日の丸の政』と呼ばれていた訳ではない。役目は必ず果たす。」
俺は不敵にそう言うと、電報を握りつぶした。
その後しばらく作戦についてを石山と打ち合わせると、俺はラインハルトを連れて格納甲板に居た。
ラインハルトと航空隊の隊員達の顔合わせの為である。
「………そういう訳で、作戦補佐の為に独逸から来たラインハルト・ベッケル少佐だ。言葉が通じんこともあるだろうが、決して問題は起こさんように。」
予め打ち合わせていた通りに俺が、集まった航空隊の隊員達に出任せの経歴と役職を言うと、後ろでじっとしていたラインハルトが前に出る。
「ラインハルト だ。 よろしく 頼む。」
それに対して航空隊の面々は、一斉に敬礼する。
「「「「はっ!よろしくお願い致します!!!」」」」
変な人だな。
多くの艦載機が並ぶ中、その片隅に航空隊の隊員達と整備員が集結しており、大西大尉に一通り案内してもらった俺も、後ろの方でじっと話を聞いていた。
詳しくはわからないが、あのラインハルトと言う少佐が技術将校だということだけは分かった。
それにしても……………
自然と目線がラインハルト少佐の顔……と言うより軍帽の方に向いてしまう。
科学者には変人が多いとは聞いたことがあるが、技術屋も同じように変人なのだろうか?
かなり気になるのに、政少佐はその事については一切触れてくれない。
それとも、政少佐本人も知らないのだろうか?
「変な軍帽だよな。」
「お前もそう思うか。」
隣にいた学も同じことを考えていたのか頷く。
伊藤 学
大西大尉が言うには、同じく整備員だ。
歳は19、俺より1つ年上で階級は一等兵。
生まれは東北の農民の三男坊で、一昨年の不作で村が飢えた際に東京に稼ぎに来たらしいが、色々とあって軍に入隊したらしい。
本人は、軍に入るまでは初等教育すら受けたことがなかったので、漢字すら書けない馬鹿だと自称している。
だが、手先が器用で、機械いじりができるので、使えない訳ではないらしい。
「そうでもないでしょう。現場では直ぐに動ける服装が望まれます。あれは合理的です。」
そう言うのは、学と共に俺の機体の整備を務める中岡 雨二等兵だ。
しかし、学はその答えに不服らしく、顔をしかめる。
「そうか?だとしても、あんなに深く被るのは可笑しいだろう。周りから見たらただの馬鹿か気違いだぞ。」
確かにそうだが………
「お前が言うか…………いたっ!」
うっかり言ったら頭を叩かれた。
「俺は馬鹿じゃない。」
学はそう言うと、さらにもう一発叩いてきた。
どう言うわけか、人前でこいつに学力のことを言うのは御法度のようだ。
案外、気にしていたりするのだろうか?
頭にできたたんこぶを擦りながら、学のためにもなるべく言わないようにしようと決意した。
「それにも理由があるのではないでしょうか?」
俺が学に殴られている事に気にならないのか、雨はラインハルト少佐を見ながら呟く。
確かに俺自身のせいで殴られたのだから自業自得かもしれないが、完全に無視するのは酷くはないか。
しかし、雨は全く俺の心情を察することなく話を続けていく。
「例えば、明るい場所から暗い場所に移った時に目が直ぐに慣れるようにする為に、あらかじめ視界を暗くするためというのは…」
「それじゃあ、室内でやる意味がないだろう。ラインハルト少佐は今、ああ被っているんだぞ。」
全く、何を言っているのかと思えば………
「では、表情を隠すために被っているのでは…」
「なら、色眼鏡でもすれば良いだろう。わざわざあんなに深く被っている理由にはならないだろう。」
「それでは…」
この議論はその後、集会が終わってから、本人に直接聞くまで続いた。
「禿げを隠すために、ですか?」
「そうだ。」
だが、最初にそう聞いた時は冗談だと思った。
確かに、禿げを隠すために帽子を被るというのは聞いたことがあるが、まさかこんな軍人を絵に描いたような人が、禿げを気にするとは夢にも思っていなかったからだ。
この時、話をしていた俺とラインハルト少佐の他に、側には政少佐がいたのだが、政少佐もラインハルト少佐の背後で頷いていた。
学と雨がこの場に居ないのは、何故か俺だけを政少佐が呼び出したからだ。
どうやら、ラインハルト少佐が俺に用があるらしいのだが、その真意は謎だ。
何故なら、呼び出される理由に心当たりがないからだ。
そんな中、俺がラインハルト少佐にした質問が先程議論していた「どうしてそれほど深く帽子を被っているのか」だった。
我ながら失礼と言うか、馬鹿な質問だったと思うが、ラインハルト少佐は至極真面目に片言な日本語で答えてくれたのだ。
「何か 問題でも ある のか。」
「いえ、そんなことは…」
ラインハルト少佐が不快そうにそう言うので、少したじろぐ。
政少佐がラインハルト少佐の背後で、何かを言ってやれと言うかのように顎で指すが、自分よりも遥かに背が高く、筋肉ムキムキで、おまけに階級の高い相手にそんな事を言うのは、相当に勇気がいる。
政少佐の方が遥かに安全だろう。
だが、英雄である政少佐にそう指示をされた以上、何もしないのは軍人としてどうかしている。
無礼だったとしても、ラインハルト少佐も流石にいきなり殴ってくることもないだろう。
待たせたままではぐらかすのも相手に悪い。
よし、
「ラインハルト少佐はどうして禿げなんですか?」
あ、政少佐が肩を落とした。
ラインハルト少佐も固まった気がする。
これは質問を間違えたか?
今さらだが、どっと背中に汗が沸いてきた。
流石にこの様子だと殴られることはないだろうが……
恐々とラインハルト少佐の顔を見ると、
「若い頃に 邪魔 だった から 剃った 毛が 薄い 生まれつき だった 生えて こない 後悔 している」
…………怒るでもなく、頭を抱えるでもなく淡々と答えていた。
はっきりと言って、怒られるより怖い。
だが、ここで政少佐の期待に応えないで終わるわけにはいかない。
「他に 何か あるか」
ラインハルト少佐もこう言っているようだし、ここは………
「いまも禿げなんですか?」
あ、政少佐が急にラインハルト少佐の方に視線を移した。
やはり、政少佐も軍帽の下を知らないのだろう。
「…………………………………」
急にラインハルト少佐は黙りこくった。
流石にラインハルト少佐と言えども、人に禿げを見せたくはないのだろうか?
「……………………………………………」
「……………………………………………」
間の悪い沈黙が続いた後、ようやくラインハルト少佐の口が開いた。
「…………………………気になるか………」
僅かに俺に聴こえるかの声で言った言葉は驚いた事に、先程の様な片言な日本語ではなく、日本人と何ら遜色のない流暢な日本語だった。
どうしたら良いか政少佐に指示を仰ごうと思い、政少佐の方をちらりと見たが、政少佐には聴こえていなかったのか、政少佐はまだかまだかと聞き耳をたてたままでいた。
しかし、間違いなく幻聴ではない。
つまり、これは俺が判断しなければならないということだ。
無論、俺の答えは決まっている。
「はい、気になります。」
「………………………そうか…………」
ラインハルト少佐は真剣そうに顎を手で押さえると、ちらりと政少佐の方を向いた。
しかし、本当にちらりとだったので、果たして政少佐が気づいたのかまでは分からない
が、それを気にする暇は無かった。
何故なら、ラインハルト少佐が目にも止まらぬ速さで軍帽の鐔を持つと、俺にだけ見えるように軍帽の前を上げたからだ。
途端にラインハルト少佐の相貌が目に入る。
どことなく闘志を感じさせる端正な顔立ち、そしてゲルマン民族特有とされている碧眼には何か信念を湛えている………
と、そこまで見たところでラインハルト少佐は直ぐまた軍帽を深く被ってしまった。
一瞬の事だったが、しっかりと目に焼き付い…………!!
と、そこで突然、頭を頭痛が襲った。
何だ……?
倒れるほどではなかったが、思わず顔をしかめた。
それにラインハルト少佐は気づいたようで、首を少し傾げる。
「どうした?」
「いえ、少し頭痛が………まあ、大丈夫です。」
相手に気を利かせまいと思ってそう言ったが、ラインハルト少佐は何かを推し量るかのようにこちらを(恐らく)見つめる。
「いや、本当に大丈夫ですよ。」
頭痛はずっと続いているが、懸命に誤魔化す。
「………………………………………そうか……………」
恐らく………と言うか、全く納得していないためか、ラインハルト少佐は頷いてくれたものの、口調は元の片言に戻ってしまっていた。
それから先は大して話も進まず、何かうやむやに終わってしまった。
その頃には、日も暮れてしまっていたので、ラインハルト少佐と政少佐の二人と別れると(政少佐に後で禿げについてを言うよう指示された)、学と雨とを連れて大西大尉に案内された食堂に向かった。
「へぇ、禿げを隠すため!……それは御苦労な事だな。」
「あのような人でも所詮は人間ということです。人の考える事など単純ですよ。」
活気溢れる食堂の端でカレーライスの定食を買い求めて飯受け渡しの列に並んでいる時に、俺が暇潰しとして先程の会話についてを話した時に二人がした反応がこれだ。
何かラインハルト少佐に恨みでもあるのか?
「なに、そういうのを無駄な努力って言うんだと思ってな。」
「若い頃に自ら剃ったと言うのに、いまさらそれを隠そうと言うのは不可解な話です。自分には理解出来ません。」
「目立ちたかったんだろ、どうせ。」
「…………いや、それだけは絶対に違うと思うぞ。」
「そうか?」
学は首を傾げる。
「あの人がそんな事を考えるとは思えない。」
「じゃあ、罰か何かでがーーーっと。」
「お前がやられてしまえ。」
俺はため息をつくが、雨は学の考えに頷く。
「若い頃に禿げにされたことを切っ掛けに…」
「もっとまともに考えられないのか、お前らは!」
あまりの酷い推測についうっかり大声を出すと、周りの席に座っていた整備員らに「うるせいぞ!」と怒鳴られてしまった。
「すいません。」
彼らにしっかりと謝ると、学達との話に戻る。
「だけどよ、普通に考えて坊主頭にする奴なんてどうかしてるぜ。」
「確かにそうだけどな………あ、お願いします。」
学と会話しながら係の兵に食券を渡す。
「……心機一転、気を新たにするためというのはどうだ。」
「いや、それなら今でも禿げというのはおかしいだろ。」
「そうだよなぁ。」
そんなこんなを言いつつ、如何にも料理人という風貌で白衣を着た壮年のおじさんからカレーライスを受け取る。
ここで一端、話を打ち切ると、先に取っておいた食堂の端の方の席に移動する。
ホウロウ製の皿に注がれたカレーライスからはなかなか刺激的な匂いが漂っていて、食い気をそそる。
「えーと、醤油はどこだ。」
席に着くと、机の真ん中に置かれている調味料の中から醤油を見つけ出してカレーライスにどっぷりとかける。
予科練ではこうして食べていた。
これがまたおいしいのなんの。
次に、小皿に盛られた福神漬けをカレーライスにぶっかけると、両手を合わせて、
「いただきます。」
勢いよく匙で掬う。
そして勢い良く口の中に放り込んだ。
途端に、口の中にじんわりと熱が広がる。
「……み、水っ!」
そして直ぐに湯飲みに手を伸ばす。
海軍のカレーライスは、陸の予科練のカレーライスとは違って、熱いだけではなく、とても辛かった。
この辛さで暑い夏を乗り切るのだろう。
「それにしてもここまで辛いとはなぁ」
そう言いつつも、カレーライスはまた一口、また一口と口へと運ばれていく。
「辛いのと旨いのは同じなのかな?」
「相当な錯覚です。命に関わりますよ。」
気づけば、雨が隣の席に座っていた。
俺と同じくカレーライスを頼んだらしいが、何故か一口食べたところで匙が止まってしまっている。
「どうした?食べないのか?」
俺が顎でカレーライスの入ったホウロウの皿を指すと、雨は無表情でそれを見つめる。
「これ程辛い物を食べる事は初めてですが、断言できます。味覚が壊れます。」
「………みかく?」
俺は聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「そうです。これだけ辛い物を食べると、舌の神経がやられて正常な味の判断が出来なくなります。」
「そんなに辛いかっ!?」
俺は理科の方に面は全くの無学だが、これだけは分かる。
大丈夫かこいつ?
正常な判断が出来ていないのはお前のおつむの方じゃないのか!?
「雨、悪いことは言わん。休め。疲れて動転しているんだろう。」
雨の肩を叩いて説得させる。
「動転?大丈夫ですか兵長?」
しかし、逆に心配されてしまった。
「まあ、無理もないんじゃないか?あんな機体が配備されたんだからさ。」
慌てて振り返ると、学が俺の右隣の席に着席したところだった。
「じぇっときって言うんだっけか?あの飛行機。」
学はそう言いながら、俺と同じように調味料の列から醤油を取ると、カレーライスに勢い良くぶっかけた。
「確か………そんな機種だったかな?」
大西大尉がそんな事を言っていた気がしないでもない。
「ところでジェット機ってなんだ?」
「俺が知るか。」
学に聞くが、あっさりと切り捨てられる。
では…………雨の方を向く。
「ジェット機というのは…」
俺が聞こうとしていることを察したのか、雨は匙をカレーライスの皿に置くと口を開いた。
「簡単に言えば、ピストンを使う従来のレシプロエンジンではなく、ジェットエンジンを搭載した機体のことです。ジェットエンジンとは、吸気口から外気を取り入れて圧縮したものに燃料を噴射し、燃焼。発生したガスを排気口から噴射して推力を得るという構造で、従来のプロペラ機を遥かに凌ぐ馬力を持つエンジンです。」
「へぇ…………」
雨も機体に触れて間もないはずだが、俺と学を合わせた以上に機体について熟知していた。
「そう言えば、軍がそんな物の研究を始めたとかなんとかって聞いたことがあったな。」
学は、醤油の容器を戻すと、そんな事を言った。
というかお前、一体どれくらい醤油をぶっかけたんだ?
俺が取った時は半分以上あったのに、学が容器を置いた時、相当軽い音がしたぞ!!
俺がそう言いたいのが学にも分かったのか、学はまあまあと言うかのように右手を振る。
「だけど、俺はまだ実用段階どころか試験段階にも入っていないって話を聞いたぞ。技術的にも資金的にも問題が山積みで、実用にはあと4、50年程度は掛かるとか何とか。軍が研究を始めたって言うのも、欧州列強や米国に対しての宣伝だろ。」
俺も、義父から聞いた話をする。
すると、学は首を傾げる。
「じゃあ、あの機体はどこが作ったんだ?いぎりすか?それともふらんすか?やっぱりどいつか?」
そして、覚えたてであろう国名を片っ端から挙げていく。
「さあな。雨は知っているか?」
「自分は知りません。」
学は駄目だと思い、雨ならば、と話を振ってみるが、雨はあっさりと否定する。
ではどこなのか…………
冷め始めたカレーライスを食べながら考える。
学の言う通り、独逸という線が濃厚だろう。
なにせ、あの国は科学者の国だ。
20年後の技術力を持っていても何ら可笑しくない。
「………それにしても、この航空戦艦には謎が多すぎる。」
色々と考えが、浮かんでは消えていくので、かなり頭に来る。
思わず頭をがりがりと掻いていると、それを見ていた学が口を開いた。
「大西大尉あたりなら何か知ってるかもしれないぞ。」
確かにそうだ。
まさか学に言われるまで気づかなかったとは情けないが、確かにそれが確実だろう。
「そうだな。明日、政少佐に聞いてみるか。」
「それとなんだが…」
俺が納得したというのに、まだ何か話したいことがあるのか、再び学は口を開いた。
「航空戦艦って何だ?戦艦空母じゃないのか?」
真剣そうな顔にも関わらず、どうでも良いことを言い出したので思わず肩を落としてしまった。
「そんな事か………」
しかし、学にとっては重要な話だったらしく、熱心に説いてくる。
「航空甲板を装備した戦艦なんだから、航空戦艦が一番名前としてあってるんじゃないのか?」
「なら、甲板に航空機を置いとける空間がある船は、みんな航空戦艦って名乗れるだろ。」
「いや、駄目だろ。第一、戦艦空母って言ったらただの戦艦に空母がくっついているような感じじゃないか。」
「実際、そうだろ。」
「そんなもん、人それぞれだろう……なあ、雨。」
議論するにはあまりにも馬鹿馬鹿しいので、この場は雨に任せようとしたが、雨はカレーライス相手に奮闘中らしく、全くこちらを気にしていない。
「分かってないな、兵長。」
学が溜め息をついて俺の肩を叩く。
…………諦めて話に付き合うか…………
こうして夜は更けていった。
午前零時。
艦内の有りとあらゆる場所の明かりが消えている中、ただ一室、艦長室だけは明かりが灯っていた。
主である石山艦長が誰かと談話をしているようだ。
石山艦長の服装は、昼間に政少佐と話していた時と同じ礼装服で、相手は日本陸軍少将の階級章を付けた緑色の服装服を着た白髪の老将だった。
二人は床に直に座って、酒を酌み交わしていた。
「石山大佐。」
老将は、手にした盃の酒を少し口に含んでから、石山艦長に話し掛けた。
「今回の計画では君に第二連合艦隊の第三水上打撃艦隊指令を任せることが決まった。」
「そのような大任、私如きが命ぜられるとは恐縮の至りです。」
石山艦長が目を伏せてそう言うと、老将は苦笑した。
「なに、それほど謙遜することもなかろう。君ほど海戦を経験したことのある者はそうそうおるまい。」
「私には負けの経験しかありません。」
「しかし君は生き延びてきた………どれだけ厳しい海戦でも、だ。」
老将が説得するようにそう言うが、中々石山艦長は頷かない。
「……………ただ敵が見逃してくれただけです。………インド洋沖海戦…………セイロン島沖海戦…………マラッカ海峡争奪戦…………。戦いの度に同期は散っていき…………大戦を経て生き残った者は私を含めて僅か数名。そしてそのほとんどが終戦と共に安定した生活を求めて陸に上がりました。今では立派に家庭を築いて円満な生活を送っていることでしょう。……………その中に私が居なかったのは…」
そこまで言うと、石山艦長は盃を床に置いて立ち上がり、窓際まで近づいた。
窓からは底無しの真っ黒な海が一望できる。
石山艦長はじっとそれを見つめながら、唐突に口を開いた。
「海が………呼んでいるんです。」
「…………海が?……それは一体…………?」
老将は首を傾げる。
石山艦長はそれを横目に見て、何を言おうとしたのか、口を開く。
その目は先程とは違って、感情が感じられず、どこか底冷えとしている。
が、
「…………いえ、やはりこの話はやめましょう。」
やがて首を垂れて止めてしまった。
「…………そうか。」
老将も、そこから何かを感じ取ったのか、口をつぐんだ。
「………ところで…」
そして、話題を変えようと、自分から話を切り出した。
「ラインハルト少佐は航空隊に馴染めそうか?」
だが、落ち込んでしまった石山艦長は、無言のままでいた。
老将も、それを責めること無く、石山艦長が話し出すのをじっと待った。
両者の間に穏やかな沈黙が流れる。
ゆっくりと時間は過ぎていき、夜は静かに耽っていく。
そして、秒針が三周したところで、ようやく石山艦長は口を開いた。
その目は、いつもと同じ様に戻っている。
「いえ、昼間に見てみましたが、少佐は孤立しているように見えます。ただでさえ対話をしない上に、政との折り合いも悪いようで、馴染むには時間が必要です。」
「そうか…………」
老将は溜め息をついた。
その老将の態度をじっと見ながら、石山艦長はずっと心に残っていたと思われることを吐き出そうとするかのように、唐突に喋りだした。
「閣下、奴は何者なのですか?」
途端、老将の顔つきが固くなる。
「前に話した通り、ランス大佐麾下の特殊部隊の隊長だ。」
老将は、そうでしかない、と言うかのように答える。
しかし、石山艦長は食い下がる。
「それは聞きましたが、それにしては奴は計画について知りすぎています。この3日間、奴と共に居ましたが、独逸では知り得ないことまで奴は知っています。…………到底、一少佐が知っているはずのないこともです。………閣下、奴は本当は何者なんですか?」
「……………………」
老将は、石山艦長をじっと見たまま何も答えない。
「まさかとは思いますが、あの爆散したツェッペリン、ひょっとすると…」
石山艦長がそこから先の核心を言おうとしたところで、突如、老将が立ち上がった。
「それ以上は言わん方が良い。」
先程までとは打って変わって真剣味のある声に石山艦長はたじろいだ。
「妄想はいくら重ねたところで仮想に過ぎん。だが、口に出してしまえば、何かの拍子に現実になることもある。ゆえに、そんなものでも消されるには充分だ。その疑念は捨ててしまった方が良い。」
言われた石山艦長は、しばらく考えていたようだったが、やがて頷いた。
「わかりました。」
「よし、それで良い。」
老将は微笑を湛えてそう言うと、執務机の上に置いていた日本刀の大小を手に取った。
「閣下、どちらに。」
石山艦長がそう問うと、大小を脇に差して、
「なに、今夜中にもう一つ行かねばならん場所があるのでな、これで失礼する。」
とだけ言い、部屋を出て行こうとした。
「総帥っ!」
石山艦長はその背中に向かって、新たな呼び名で声を掛けた。
すると、老将は、ぴたりと動きを止めて振り返った。
「宿願成就まで、武運長久を。」
「君もだ、死ぬんじゃないぞ。」
老将はそれだけ言うと、扉の外に消えていった。