01-5
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数時間後、日が暮れ始めて、温度はさらに低くなってきた。代わりに風は落ち着いていたが、しんとした寒さは、じっとしているエミリーにはこたえた。悪魔と話さえしなければ、今頃はどこかのホテルの一室で休んでいるはずだった。だが、今は体を動かす気力すらわかなかった。彼女は、ここで死んでしまってもかまわないとすら思っていた。
意識がだんだんと揺らぐように遠ざかる。家族のことを思い出す。優しい夫、愛しい我が子。彼らにはもう会えないだろう。
薄れゆく意識の中、エミリーの肩がとんと叩かれた。目を開けると、そこには天使のような少年がいた。まだ、5歳にもなっていないような子供。しかし、異様に目鼻立ちが整っていて、利発そうに見えた。「大丈夫? おばさん?」 彼はそう話かけてきた。
「そうね、大丈夫よ。坊やはどうしてこんなところに?」 エミリーはそう答えた。
「ママに買い物を頼まれたんだ。それで、好きなジュースを買っていいって言われたんだけど」
彼は手の中にある、二つの缶入りホットココアをエミリーに見せつけた。「何か当たりを引いたらしくて、二本出てきたんだ。最初は二本とも飲もうかと思ってたけど、一本飲んだら、満足しちゃって、おばさん一本いらない?」
エミリーは手を伸ばしてそれを受け取った。「もらうわ、ありがとうね」
「こちらこそ、受け取ってくれてありがとね」 そう言って少年は向かいの路地に消えた。エミリーはココアに口をつけた。冷たい唇に熱さがひりつく。暖かい液体が喉から胃まで落ちていく。ありがたい、そう思った矢先だった。
唐突に体がふらついた。ピリピリするような感覚とともに、体が麻痺していく。頭の中がかき乱される感覚とともに、体が倒れる。
なんだ、これは、明らかにおかしい、そう思っていると、先ほどの少年が戻ってきた。彼に助けてもらえる、エミリーはそう思ったが、少年は倒れているエミリーにまったく動じず、むしろ安心したような表情を浮かべていた。
「よかった。僕、人を殺して見たかったんだ」
エミリーは驚愕した。男の子は天使のように微笑んでいる。
「あなたはもうすぐ死んでくれるよね」
何が起こっているのかさっぱりわからなかった。唐突に強烈な吐き気に襲われ、喉から吐しゃ物が湧き上がり、それが詰まって、エミリーは呻いた。咳込んで、ゲロを弾こうとしてもうまくいかない。体を動かすことはできない。息ができなくなって、ますます意識がぼんやりとしてくる。
露出している顔や手のひらはすっかり冷え切ってしまっていて、肌に落ちた雪は溶けずに溜まっていく。それなのに体を少しも動かせないのがたまらなく惨めで、エミリーは自嘲気味なことを考えた。こんな風にわけもわからず、虫のように這いつくばって埋もれて死んでいくのが、自分にはお似合いなのかもしれない。すべてを諦めて、目を瞑った時、彼女の頭は微かな地面の揺れを感じ取った。その響きはだんだんと大きくなっていく。何が近づいてくるのか気にはなったが、彼女には瞼を開くだけの力も残されてはいなかった。彼女の頭の中では、得体のしれないものがどんどん近づいてくる恐怖だけが広がっていった。彼女はせめて穏やかに死にたいと思った。しかし、その願いを打ち消すように、轟音の主はその正体を彼女に想像させた。いつも意識していないだけで、日常的によく聞く音だったので、はっきりとイメージできてしまった。彼女は恐怖のあまり叫ぼうとしたが、息を吐き出すことさえできなかった。すぐに彼女の頭の中で爆音が轟き、そして――。
彼女が最後に味わったのは、何か巨大なものに押しつぶされて、体が弾ける痛みだった。
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どん、という音とともに、窓に何か赤いものがべったりと張り付くのが見えたので、そのトラックのドライバーは慌ててブレーキをかけて止まった。
彼はひたすらにまずい、と思った。というのも、彼は出発するまえに、アルコールを大量に摂取していたのだ。これで捕まったら、一生檻の中だ。ヤバいことをしてしまった。彼がそう思って震えている時、彼にバーテンダーの服を着た黒いマネキンのような悪魔、バーン・テンダーが囁いた。
『逃げちまおうぜ。誰も見ちゃいないさ。この雪の中だ。逃げて血を洗えば、誰が轢いたかなんてわからないはずだ』
確かにそうだ。黙っていればバレるわけがない。こんなことで馬鹿正直に刑務所に入れられるなんてまっぴらだ。そもそも轢いてしまったのは、人じゃないかもしれない。猫や野犬の可能性もある。それをわざわざバックミラーで確認する必要があるだろうか?
彼は狂気的に声をあげて笑い、アクセルペダルを強く踏んだ。そうして、トラックが過ぎ去った後には、ただ無残な肉塊のみが残されることとなった。
”On the Demon Hand”――End.