01-4
数時間後、エミリーは町はずれの小さな通りの端に座っていた。割れるように冷たい空気、凍結した路面、それらが彼女から体温を奪っていったため、全身が怯えと冷えでこわばり、常に体が震え続けている。
あんなことをするんじゃなかった。馬鹿なことをした。すべてなかったことにしたい。頭の中に浮かぶのはそんなことばかり。これからどこに行こうかと考えることすらできない。
『いひひ……じゃあ、なかったことにしてあげようか、お嬢さん』
今までと違って、声が自分の中からではなく、横から聞こえたような気がしたので、エミリーは驚いて横を向いた。そして、もっと驚愕することになった。
そこには、おぞましい瘴気を放つ、巨大なミノムシがいた。幻でも見ているのかと思ったが、人間の子供ほどの巨体が放つ存在感は、現実のものだった。その苔で塗り固められたかのような緑色の全身からは、濁った黄の蛍光色といった、歪な表現でしか言い表せない汚らわしい色の瘴気が溢れるように放出されている。あまりの驚きに、悲鳴さえでなかった。あまりの恐怖に、ただ息が強引に喉から漏れ出た。
『何を黙っているんだい? ああ、お嬢さんって言われる歳でもないって? いひひっ、子ども扱いされたくないのはわかるけど、カンブリラ紀から生きてるってわけでもなきゃ、僕にとっちゃまだまだひよっこだからね』
異形の存在に竦みあがってしまっているエミリーに、それは笑い声をあげながら話しかけた。
「あ、あなたは何者なの?」
やっとのことでそう口にすると、ミノーはまた口だけで笑った。
『まだわからないのかい? 僕は、君に声をかけてあげていた“悪魔”だよ』
エミリーは愕然とした。確かにこの“声”だ。自分の心の声かと思っていた“声”は、悪魔の囁きだったのだ。そう思うと、腹が立ってきた。この悪魔が囁きかけたりしなかったら、自分は殺しなんて絶対にしなかったはずだ。
「悪魔ですって? あ、あなたのせいで私は今、こんなことになってるのよ」
『いひひっ、ありがとう。僕にとって、それほど嬉しいことはないよ』
かっとなって文句を言うと、悪魔は嘲笑うように返事を返してきた。
「ふざけないで! 責任取りなさいよ!」
からかうような態度にキレてしまったエミリーは、ミノーにそう怒鳴った。そんな彼女に、悪魔は黙って顔をずいと近づけた。
「な……何よ!」
そこでエミリーはミノーと目を合わせてしまった。ミノーがまん丸で真っ黒な目で、じいっと見つめてくる。それは遠目で見るか、あるいは斜めから見れば、ミノムシの体と合わせて、可愛らしく見えないこともない。しかし、今、至近距離でそれを見ているエミリーの目には、まったく別のものが映っていた。
「ひっ……!」
彼女はそう悲鳴をあげて、動けなくなった。その黒い目の奥には、がらんどうの闇が広がっていた。それを見ていると、奈落に引きずりこまれるように、その眼の奥に焦点がどんどん落ちていく。恐怖そのものを教え込まれているような感覚だ。
「……ぁあ……ご……ごめんなさい……許して」
『自分がやったことの“対価”くらい、自分で払うことだな、ろくでなしのお嬢ちゃん』
かつてない恐怖に襲われ、エミリーは震えながらがくがくと首を縦に振った。しかし、心の中では“私は悪くない。全部この悪魔が悪いんだ”と思い続けていた。それを知ってか知らずかミノーはそんな彼女から目を離して、また口だけで笑顔を作った。そしてけろっとして、元の優しげな口調に戻った。
『いひひっ……だけど、まあ、僕が誑かさなきゃ、そんな気を起こさなかったかもしれないのも確かだ。僕はあくまで“悪魔”であって、鬼じゃない。だから、僕は君を助けに来たんだよ。最初に言ったじゃないか、なかったことにしてあげようかって』
エミリーは驚いて、目を丸くした。そして、藁にも縋る気持ちで、悪魔に質問した。「ほ……本当に?」
『本当さ。僕と“第二の契約”すれば、君の夫の、このことに関する記憶を無くさせることができる。あるいは君に“特定の記憶を消す”能力をあげてもいいかもね。そうすれば、君は元の生活に戻れる。どう? 僕と“契約”しないかい?』
エミリーが義母を殺したことを知っているのは、今のところ夫だけだ。断る理由など無かったので、彼女は疑うことなく即答した。「するわ! お願いよ!」
『それはよかった。もちろん、これは“契約”だから、僕も君から“対価”として、何かもらうよ。だけど、大したものじゃない、そうだな……』
“なんだ、悪魔ってわりと優しいじゃない”。その時のエミリーはそう思い、感謝の気持ちを込めて、悪魔に笑いかけた。悪魔もにっこりとした笑顔を作った。そして、その笑顔のまま、こう言った。
『――君の“腕”を貰おう』
「え……?」 エミリーは言葉に詰まった。「……え、あ……の、聞き間違えだと思うけど、今あなた、“腕を貰う”っていった?」
『そうだよ』 悪魔は何でもないことのように、さらっと答えた。『右手を上腕二頭筋の辺りから、ノコギリでギコギコと切断する。切った先から焼けるようにしてあげるから、血は致死量には達しないよ。切った腕は別に使い道が無いから、深海にでも放っておくよ』
青くなったエミリーに、ミノーは笑ってこういった。
『大したものじゃないだろう。腕くらい。元の生活に戻れることを考えればね』 そして、意地悪くこう付け加えた。『おまけにほら、腕がなくなれば、もう義理の母親の世話をする必要もないだろう?』
エミリーは嗚咽を漏らした。ああ、この悪魔が助けてくれるかもしれないと、少しでも期待した自分が馬鹿だった。悪魔は人が心の弱さや醜さのせいで選択に失敗して、破滅していくさまを見たいだけなのだ。
なんて酷い悪魔なのだろう。だけど、これはチャンスでもあるはずだ。悪魔は、エミリーには苦痛を伴う選択ができない、と高をくくっている。ここで、腕を失うことを受け入れさえできれば、悪魔を見返し、すべてを取り戻すことができるのだ。
エミリーは目を瞑った。腕を切られるのは嫌だ。痛いのも嫌だ。だけど、今だけは我慢しないといけない。そうだ、私は強いのだ。ハイスクールでチアリーディングの大会に出ることになった時、失敗を恐れて逃げたりはしなかった。大学入試の時、怠けたい気持ちを抑えて、何十日も続けて勉強した。妊娠が発覚した時、出産の痛みが怖いからといって下ろそうとはしなかった。それらの時のように、勇気を振り絞って、“勝利”を掴むのだ。
そう思った時、また“声”が聞こえた。
『家族のところに戻れなくたって、別にいいじゃない』
こいつはまた私にとって都合のいい言葉を囁いて誑かす気なのか、と思い前を向いたが、悪魔は口を動かしてはいなかった。というより、どちらかというとその“声”は前からではなく、頭の中から響いているように聞こえる。
『痛いのは嫌だわ』『逃げて別の町に行くのもいいんじゃない』『腕を切られるなんて耐えられないわ』 口々にそういう“声”。エミリーにはそれらが何なのか、何となくわかってしまった。しかし、彼女はそれらを振り切るように目を開け、契約を結ぼうとした。
開かれた彼女の眼に最初に映ったのは、ミノーが口を少し開けて、そこから何か長細いものを吐き出すところだった。それは凍結した地面に落ちて、少し滑ってから止まった。
それは大きめの片刃鋸だった。その酷く荒い刃の形状は、エミリーにある想像をさせずにはいられなかった。刃が肌に当たり、プツリと血が滲んだかと思うと、勢いよくそれが引かれて、一気に血が迸る。ことあるごとに刃が何かにつかえて、強引にそれを動かされると、大量の肉と血が飛び散る。骨に到達したら、刃が骨の硬さに負けて、鈍い振動とともに周りの肉をかき乱し、ぐちゃぐちゃにしていくに違いない。ぎこぎこぎこぎこ、ごりごりごりごり、と。そこで彼女の思考はぷつりと切れた。そして、ごく自然に、ある言葉を口にした。
「……契約、やめとくわ」
そう言った時の彼女の眼は、酷く虚ろで、どこを見ているのかさっぱりわからなかった。
『……そうか、それは残念だ。前例がないから、わざわざ契約書を作ったのに』 悪魔はまったく残念そうではない、明るい口調でそう言った。『ちなみに、どうしてだい?』
エミリーは引き攣った笑みを浮かべてこう答えた。「別に、家族のところに帰りたい、なんて、思ってないもの」
『いひひひっ……そうかい、そうかい』 それを聞くとミノーは大きく口を開けて笑った。そして糸を回収するようにして、するすると上に上がっていき、そのまま雪空の中に消えた。
残されたエミリーは、その場でいろいろなことをじっくりと考えた。虚ろな瞳はだんだんと正気を取り戻し、冷静になってくるごとに、何をどうすればよかったか、だんだんとわかってきた。そして、ついに彼女はあることに気が付いてしまった。
すべては最初から決まっていたのだ。あそこで“腕”を払える、我慢強い人間は、いくらむしゃくしゃしていても、人殺しなんてしない。そもそも悪魔に誑かされて、言いなりになることなんて、絶対に無いのだろう。
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