02-12
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『僕は君に、蛾を操る力を与えることができる』 イノーモスがそう言った。 『そうしたら、君は蛾を使って嫌がらせをすることも、大量の蛾を使ってエニスタンを痛めつけることもできるようになる』
「いいわね」 ミリアは呟いた。どちらかというとイノーモスに見捨てられたくないという気持ちの方が強かったが、エニスタンに復讐したいのも確かだった。
『その代わりと言っては何だけど、僕と仲間の蛾たちを、君の体内の中に住ませてはくれないかな?』
ミリアはぎょっとした。「いやよ。入るはずがないじゃない」
『蛾は君の体の皮膚以外の場所には当たらないようにできるよ。つまり、君の体は、蛾にとっては空洞になるのさ。何たって僕は妖精さんだからね。普通じゃできないことも、簡単にやってのけるのさ』
「蛾で血管が詰まったりしないんなら、いいんだけど」 ミリアは少し考えた。「じゃあ、私からも条件をつけていい? 私は別に力が欲しいってわけじゃなくて、ちょっとエニスタンにお仕置きするだけだから、エニスタンを泣かせるか、謝らせるかしたら、私は力を無くし、あなたたち蛾は私の体から出ていく。ねえ、いいでしょ?」
『いいとも。じゃあ、ちょっとこれに同意してくれるかな?』
「これって、何よ?」 そう聞こうとしたミリアの頭の中に、唐突にある文章が浮かびあがった。まるで文字一つ一つが熱を持って焼きついているかのような赤黒い文字が。
『クイーン・モスの契約』
条件:この契約は契約した悪魔と契約者、双方の同意によって破棄することができる。また、契約者が指定する“エニスタン・コールウッド”一人が、契約者に謝罪するか、あるいは死亡した時のみ、この契約を契約者の意志だけで破棄することができる。
契約”成立時、契約する悪魔は契約する人間に、契約印として“悪魔の噛み痕”を残す。“悪魔の噛み痕”の位置は契約する悪魔が指定する。
授与:契約した悪魔と契約者は、あらゆる種類の“蛾”を使役する能力を得る。蛾は契約者と契約した悪魔の命令に可能な限り従うため、霊的な力の補助を受ける。契約した悪魔と契約者が同時に同個体を使役しようとした場合、契約者の使役が優先される。
対価:契約者は、この契約が破棄されるまで“対価”として、契約者の体内に“蛾”を住まわせなければならない。対象となる“蛾”の種類、数は指定されない。契約者の体内に住む蛾は、契約者の肉体に対して、あたかも霊体であるかのように振る舞い、契約者にのみ接触する。“蛾”は契約者の口や傷口から、出入りすることができる。契約者は“蛾”が体内にいること自体で生じるあらゆる害を受けない。
「契約書……ってわけね」 ミリアはそう呟いた後、頭の中でそれを丁寧に読み上げていった。難しい言葉も多かったが、不思議なことに理解できないところはなかった。読んでいく途中でミリアはあることに気づいた。
「――あんたやっぱり蛾の妖精なんかじゃなくて、悪魔なんじゃない」
しかし、ミノーは動じなかった。
『そうだけど、それがなんだっていうの? 僕が悪魔だとしても、君を可哀想だと思ったのは本当だよ』 そしてこう続けた。『もし僕の正体が天使だったとしても、君は同じように言及するのかい』
「天使だったら……? 妖精とさほど変わらないし、天使だったら間違いなく信用できるだろうから、何も言わないかもね」
『ミリア、蛾と蝶の違いは何だか知ってるかな?』
ミリアは少し戸惑った。今までそんなこと、考えたこともなかったのだ。
『蝶は綺麗で、蛾は汚い、とか?』 おずおずとそう答えると、イノーモスは笑った。『やっぱりそう思ってたんだね。いやいや、仕方ないよ。人間の多くはそう思ってるはずだ。でも、蝶より綺麗な蛾もたくさんいるから、綺麗か汚いかで蝶と蛾を区別することはできないさ。他にも、止まった時羽をたたむか広げるかとか、昼動かくか夜動くかとか、触覚の形だとか、いろいろ言えることはあるけど、実は明確に分類を分けられる“違い”は無いんだ』
へえ、とミリアは思った。何かもっと、確固たる“差”があるものだと思っていたからだ。
『それと同じで、天使と悪魔にも、明確な違いって奴は無いのさ。そもそも、悪魔っていうのは、天使の一部から作られたものだからね。君たち人間が勝手に、すべての天使は素晴らしい存在で、すべての悪魔は悪い奴らだと思い込んでいるだけさ。まあ、強いて言えば、悪魔は君みたいな可哀想な人間を良くも悪くも放っておかないけど、天使や神は知らんぷりするっていうのは、確かだね』
そうだ、神様は何もしてくれなかった。ミリアはそう思った。彼女は缶の包装に描かれた十字架を見た。そして先ほど自分でつけた赤いXマークを見た。この悪魔が絶対信用できるわけではないが、少なくとも私に同情していると言ってくれている。それがたとえ口先だけだったとしても、今のミリアにはそれすらもありがたかった。
「そうね……。私は蛾は汚いもの、悪魔は悪いものって思い込んでいただけかもしれないわ」
『その通りだ。僕は君の味方だよ。さあ、僕と“第二の契約”しよう。ミリア』
ミリアは頷きかけたが、まずいくつか質問しておくことにした。
「そう言えば、悪魔なら、直接エニスタンを痛い目に合わせれるはずじゃない? どうしてそうしてくれないの」
『こっちにもいろいろ事情があるのさ』
「口や傷口から蛾を出したりひっこめたりできる。つまり私は蛾のタンクのようなものになるということ?」
『そうだよ』
「どうしてあんたにも蛾を使役する能力が渡ることになってるの?」
『いろいろな地方から蛾を集めてきたいからね。霊感がある僕なら、アフリカからでも蛾を持ってくることができるのさ」
ミリアは納得し、条件を飲むことにした。
「いいわ。イノーモス。契約しましょう」 ミリアがそういうと、イノーモスはにやりと笑い、その霊体からは、先ほどよりずっと多い瘴気が溢れ始めた。その濁りと輝きで汚染された瘴気は、ついに空間にすら収まりきらなくなり、一気に凝縮したかと思うと、ミリアの手首の傷口に凄まじい勢いで流れ込んだ。
ミリアは悲鳴を上げて仰け反った。流れ込んでいるのは、傷口よりずっと小さいどころか、何も無いのに等しいようなものなのに、あまりにも大きくて収まりきらないようなものが強引に入り口を押し広げ、自分の中に侵入しているような感覚だった。彼女は全身をぴくぴく痙攣させ、無意識のうちに涎が口から零れ落ちた。
すべての瘴気が彼女の中に入り終えた時、イノーモスがいた場所にはもはや何もいなかった。
『契約、成立だね』 と頭の中からイノーモスの声が聞こえた。その声は、本当に自分の思考の近くから聞こえてくるようで、今までずっと頭の中から響いてくるようだと感じていたイノーモスの声は、せいぜい耳元で囁かれた程度の近さだったのだな、とミリアは気づいた。今までは、ものすごく近くとは言っても、中に入ってきてはいなかったのだ。
彼女は快感とも苦痛とも取れるような感覚に襲われて茫然としていたが、ふと、イノーモスの仲間の蛾たちが、自分の体に潜んでいることを自覚した。認識はとどまることを知らず、彼女は自分の中にいる蛾の数だけではなく、種類や、その様子までをはっきりと知ることができることに気づいた。そして不思議なことに、その感覚はまったく不快ではなかった。むしろそれらのことを感じると、それらを使って憎たらしいエニスタンを痛めつけてやることを考えると、ぞくぞくと震えるような高揚を感じるのだった。先ほどまではさほど感じていなかった、熱を含む殺意が彼女の臓腑に満ちていた。
彼女はそれに身を任せるかのように、妖し気に嗤いながら体をくねらせた。彼女は服がべっとり肌に張り付くほどに、汗をかいていたが、その肌が赤らむことは無かった。わずかに赤みがかったように思えても、すぐにその朱は失われ、その後はかえって青ざめて見えた。彼女は確かに熱を持っていたのだが、あたかも冷え切っているように蒼白だった。その時の彼女からは、歳に合わない残忍な色気すら漂っていた。彼女は強烈に発情したかのように息を激しく吸ったり吐いたりを繰り返した。
興奮状態が収まってきた時、手首に強烈な痛みを感じた。患部を見てみると、傷口の周りには、不規則に並んだ歯の跡があった。それは悪魔のキスマーク。もっと言えば、契約印として彼女の肌に捺された、強力なマーキングだった。彼女はその噛み痕を愛おしそうに、ねぶるように舐めた。そして凄惨な笑みを浮かべ、目的のためにどう動くか、愉しそうに思案し始めたのだった。
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02――“What's the difference between cross and X-mark?”
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