01-1
「ねえ、私が食べれるように、肉はもっと柔らかく煮てって言ったじゃない。どうして言われたこともちゃんとできないの?」
そういう義母に謝りながら、エミリーは心の中で毒づいた。あんたに合わせて料理を作ると、柔らかくなりすぎて絶対にまずくなるのよ。子供の歯並びにも影響与えるかもしれないし、だいたい柔らかいせいで不味くなったら、あんたが真っ先に文句を言うじゃない。
心の中ではそうやって言い返せるのだが、現実ではどうしても口ごもってしまう。
「何? 何か言いたいの? はっきり言いなさいよ」
はっきり言えればどんなに楽だろうと思いながらも、エミリーは歪な笑顔を浮かべて誤魔化した。
「一番嫌なのよね。あんたみたいに物事をはっきりと言わない人」
1か月ほど前、義母が腰痛で動けなくなったと聞いた時、夫はエミリーにこう頼んだ。母が治るまで、実家で母の世話と家事をしてくれないかと。ホームペルパーももちろん呼べるが、この機会に田舎の暮らしも経験してみないかと。はっきり言って嫌だった。田舎で不便な生活をするのも、老いぼれの世話をするのも。だが、断ると夫に嫌われるかもしれないと思ったため、断れなかった。
義母がこんなに我が儘だとは知らなかった。何でも自分中心で、掃除も料理も何もかも、エミリーがすることすべてに、出来が悪いとけちをつけた。4歳の息子は可愛がってくれているようだが、エミリーにはちゃんとしつけをしなさい、こんなのが母親でこの子は大丈夫かしら、と酷い言葉を投げかけてくる。もううんざりだった。
おまけに酷いことに、夫がいる前ではそういう悪口を一切言わないのだ。二人になった時だけ、文句をつけてくる。肉のことについても、夕食のときには真っ向から文句は言わなかった。ただ、酷くわざとらしく、辛そうな顔をして、肉が硬くて食べにくいわ、と呟いた。すると、夫はエミリーに注意してきた。そう、この老婆は夫の前ではしおらしく、弱弱しい老人のふりをしているのだ。夫と義母が二人でいる時の会話を想像するとぞっとする。こんなこと言いたくないけど、私エミリーに雑に扱われている気がして悲しいわ、家事をひとつもやってくれないのよ。義母の本性を知らない夫は同意して、そうかあいつはそんなに駄目なのかと、エミリーの仕事ぶりを知りもしないで決めつけるのだ。
ああ、本当に嫌になる。義母はエミリーの駄目なところばかりを夫に告げ口しているに違いない。義母は毎日エミリーに、風呂に入る手伝いや、トイレに行く手伝いをさせている。どう考えてもきつくて汚らしい仕事を頑張っているのに、義母はけちをつけてくる。できそこない、使えない女だと。
今日も義母を風呂に入れようと、老婆の重い体を支えて、浴槽に入れようとした時、少し手が滑って、老婆の体ががくんと下に滑った。義母は目の色を変えて、エミリーをしかりつけた。
「死ぬかと思ったじゃない。この役立たず」 それだけなら我慢できた。次に老婆はこう言った。
「あんたなんか息子とは釣り合わない。あんたなんかに息子をやるんじゃなかった。あーあ、大学まで出て来てなーにをやってきたのかね。まだそこらの餓鬼の方がはるかに役に立つよ」
エミリーはあまりの怒りで頭の中が真っ白になっていった。老婆はエミリーが怒り狂っていることに気づかず、ふうと息を吐きながら、お湯につかっていた。
突然、エミリーの背後の床から、糸がさっと伸びて、天井に引っ付いた。そして、濁った蛍光色の黄の瘴気が煙のように立ち昇ったかと思うと、糸をつたうように悪しきものが浮かび上がってきた。徐々に露わになっていくその姿は、ぶくぶくと太ったミノムシに似ていた。その表皮はひだのようになっており、泥が混じった緑のような色をしていた。苔が生えた木の皮で体を飾り付けているみたいだった。あたかも、巨大な松ぼっくりのようにも見えた。普通のミノムシがそうやって木の枝に化け、捕食者から身を隠すように。しかしその純自然的な姿は、洗練された人工物の集合体である浴室の中では、かえって異質で目立った。そのうえその見栄えが悪い図体は非常に大きく、人間の子供くらいの大きさがあったので、それは空間からさえ浮いて見えた。その異様な存在感を持つ巨体は瘴気を纏っていて、それは有害なエアロゾルのように、周囲の空間のそのものを汚しているように見える。
異様なけばけばしさを持つ存在。しかし、それは光に当たらぬ不可視の存在であり、人間の目では見ることができない。そのために人間は、世界に彼らがどれだか満ち溢れていようとも、その姿を見ることは滅多になかった。だから彼らは想像しやすい姿で描かれることが多い。尖った耳、山羊の角、赤い目、鋭い歯、裂けた口、コウモリの翼と尻尾を持つ、人間に似た形の化け物。そう、それは“悪魔”と呼ばれる存在だった。
エミリーの背後に現れた悪魔は、その姿ゆえに仲間たちからは“ミノー”と呼ばれていた。ミノーは頭の方の笠になっているような部分から糸を伸ばしている。その粘性がある濁った茶の糸は、あたかもその霊体を宙で支えているように見える。悪魔はその糸を頭部に回収するようにして、だんだんとその霊体を上へと昇らせた。そしてエミリーの首元に自分の顔が来るような位置でピタリと止まり、無言でまったく動かず老婆を見つめているエミリーに囁いた。
『殺しちまおう。殺せば解放されるんだ。頭をぐいと掴んで、溺れさせるんだ。バレやしないさ。君がこいつを風呂に入れてあげていることを、こいつが夫に言っているはずがない』
エミリーは怒りのままに、その言葉に従いたいとすら思ったが、まだためらっていた。そんなエミリーに老婆が言葉を投げかけた。
「何黙ってるのよ。気持ち悪い」
その言葉でもはやエミリーは吹っ切れた。悪魔はまた囁いた。
『どうして君が我慢しなきゃいけない?』
エミリーは老婆の頭を掴んだ。何すんのよ、と老婆は驚愕して叫び、必死に抵抗したが、もう遅かった。
浴室から出た時、エミリーは極度の緊張で震えていた。しかし、心は奇妙な昂揚感に満たされていた。してやったり、という思い。ミノーはそんな彼女の背後に、マーキング代わりに瘴気をどばっと放出しながら憑りついた。これからミノーはエミリーに憑いて動き、定期的に指示を出しながら、彼女の末路を見守る。ある意味では悪魔の方から一方的に、彼女と契約を交わしたようなものだ。天使と悪魔の世界では、この行為のことを、一人の人間と深く関わるための最初の段階という意味を込めて、“第一の契約”と呼んでいる。
こうして、ミノーはエミリーに悪事を働かせたわけだが、これは別段珍しいことではない。窓の外を見てほしい。向かいの安い賃貸住宅の中では、運送業の男が一杯のビールをテーブルに置いて悩んでいる。そんな彼にバーテンダーの服を着た黒いマネキンの姿の悪魔が囁いている。『これからがんばって仕事をするんだ。一杯くらいならいいじゃないか』
その賃貸住宅と隣の建物の間の小道で、少年がガムをかみ終えて、どこで捨てようか思案している。彼に口からどぼどぼとゴミを吐き出す子供の姿をした悪魔が囁いている。『そのへんに投げ捨てちまおう。誰も見ちゃいないさ』
通りを歩いている既婚の女性が、若者に誘われている。彼女に枕を持ったゴブリン型の悪魔が囁いている。『食事に行くくらいだったら大丈夫だろう』
通りの端にある雑貨屋の中で、女があたりを見回した後、素早い動作で商品をバッグを入れた。彼女は万引きの常習犯だが、その背中にもまた、悪魔が憑りついている。
空を見てほしい。心の目で見つめれば、通りの上空を無数の悪魔がうようよと飛び回っているのがわかるだろう。パン屋の煙突の上にも、雑貨屋の屋上あたりにも、賃貸住宅ビルの周りにも。悪魔はいたるところにいて、いつも人間を悪の道に引きずりこむチャンスをうかがっているのだ。
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01――”On the Demon Hand”
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