ラカトニア楽団
0
私は海になりたかった。
海のように広大で、全てを包み込んでしまえるような、そんな人間になりたかった。
でも、海になるには私は小さすぎた。
ある時君に出会った。
哀しげでどこか儚いようなその目を見た私は、彼を助けたいと思った。
ちっぽけでも、君の為の海になれればいいと思った。
私は君を救いたかった。
だからお願いです。そんな目をしないでください。
こんな私だけど、君の為の海になれましたか?
泣かないで、私は君の心からの笑顔が見たかったのです。
1
心地よい春の日差しの中に、客を呼び寄せる商人たちの声が飛び交う。普段はまだ静かな時間帯だと言うのに、色とりどりの飾り付けがされた往来は、楽しげに行き交う観光客達でごった返している。そこにいる人々は浮かれた様子でお祭りムードを満喫していた。
その通りに面する宿の2階の一室で、その喧騒で目を覚ました青年は、その光景を視界にいれると、自然と顔を綻ばせた。
「そうか、そういえば今日だったっけ」
開け放った窓の向こうを懐かしそうに見やると、それからすぐに外出の準備に取り掛かった。
「えっと、あれどこにやったかなー」
そう呟きながらしばらくあちこちの引き出しを探っていたが、少しすると目当ての品を見つけたらしい。丁寧に取り出してそばのテーブルの上においた。
肩より下に垂れる長い髪は軽く結んで、椅子の背にかけたままになっていた上着の首を掴みあげると、ひょいっとそのまま腕を通す。次いで、何か忘れている事はないかと一通り思考を巡らせると、最後にテーブルの上に置いておいた物を持って、少し急いだ足取りで宿を出た。
宿から出た青年は先程の雑踏の中に紛れると、どこへ行こうか迷いながら歩く観光客達とは違い、しっかりとした足取りである方向へと向った。
いくつもの角を慣れたように曲がっていく。曲がるたびに人混みは増していく。
青年は人の間を通り抜けるようにしながらも、まだまだ進んで行く。
歩くたびに増していくのは人の数だけではなかった。
宿の辺りには僅かばかりしかなかった張り紙が、この辺りには何枚も連続に貼られている。その貼り紙には“ラカトニア楽団、年に一度の大音楽祭!”と大きく書かれており、その下の日時は今日の日付が記してあった。
張り紙には出演者の写真が数枚乗せてあるのだが、張り紙ごとに写真が少しずつ異なっている。どうやら数パターンかあるらしい。何種類もの張り紙を作る予算がありあたり、確かにこれだけの人間が集まるほどの大きなイベントらしい。
もう少しだけ進むと音楽祭の会場が目の前に現れ、青年は歩を止めた。しばらくその大きな劇場を見ていたが、開演の時間が差し迫っている事に気がつくと、上着からチケットを取り出し急ぎ足で人混みの中へ混ざって行った。
青年の席はニ階の端の方の席だった。
それというのも、青年がこの地に来たのは数日前だったため、いい席のチケットはほとんどが既に売り切れていて、この席のチケットくらいしか手に入らなかったのだ。
最も、青年の財布の事情も関係していたのだが、世界で最も有名なこの楽団の、しかも大音楽祭のチケットをこんなにギリギリで手に入れられたというのは実はかなり運のいいことだった。
既に客達で殆ど埋まっていたおかげで大して苦労せずに自分の席を見つけると、青年は安心した様子で座席に深く腰をおろした。
2
世界で最も名の知れた楽団なだけあって、演奏はどれも素晴らしいものだった。
彼自身、以前にとある人物に連れられて、何度もここに演奏を聞きに来た事があるのだが、個々人の技術の向上は勿論、新しい顔触れも見られて、とても満たされた思いだった。
だが、彼は一つだけ奇妙な違和感を感じていた。
10年程前から出演し続け、今や楽団の看板ともなった歌姫。今や“奇跡の歌声”と称されるようになった彼女は、成長するにつれて益々その才能を開花させていった。
だが、初期の彼女を知っている青年には、今の彼女の歌には絶望とか諦観とか、そんな負の感情が籠もっていると感じたのだ。
しかし違和感はそれだけによるものでは無いと、青年は思った。だが青年には音楽に対して何の知識もない。故にそれがどこから感じられた物なのかが全く持ってわからない。
最終的に青年は、万人を虜にしてしまうような歌声なのだから、そういう物なのなのかもしれないと自分に言い聞かせ、人の少なくなった劇場を後にした。
劇場の外は未だに客達があふれかえっていた。青年は人混みの中に混ざる気になれず、劇場の横側から裏の方へ抜けていくと、やはりそちら側は人がほとんどいなかった。
そこは店も、表の方にはたくさんされていた飾りも皆無で、さっきまでの喧騒はまるで聞こえない。
それはまるで異界に迷い込んでしまったかのような変貌だった。
青年は何処へ行くともなしに、更に奥へと進んで行く。劇場の裏手は結構深い森になっているのだが、躊躇う事もなくその中へと足を踏み入れていく。その様子は、まるで何かに導かれているかのように見えた。
「た……。……で……」
少しすると、何処からか人の声らしき物が聞こえてきた。
「……っと、……ちょ…と……に!」
青年は少し不思議そうな表情をしたかと思うと、その声につられたかのようにそちらへ歩いてゆく。それは近づくにつれ段々はっきりしたものになっていき、青年の耳には今、それがまだ若い少女の物であると判別する事ができた。
「うぅ、あと……ちょいっ!」
さらに歩いてゆくと、ついに青年は彼女の姿が目視できる範囲にまで辿り着いた。
彼が予想した通りに若いその少女は、目の前にある壁を必死に乗り越えようとしていた。
壁は青年にしてみたら乗り越えるのはそれほど苦ではない程度の高さなのだが、いかんせんその少女は背が小さかった。あの身長では確かにあれを登るのは大変だろう。そう考えた所で、青年の心にふと小さな悪戯心が芽生えてきた。
緩みかける口元を抑えながら、出来るだけ静かに少女の背後に近づく。少女が青年に気づく様子は全くない。そして青年はそっと少女の耳元へ顔を寄せ、こそっと囁く。
「ねぇ君、何やってるの?」
刹那、びたっ、と少女の体が硬直した。
そして一呼吸おいて、機械のようにカクカクと、少しずつ声の聞こえた方へ振り向いていく。
「やぁ、こんにちは」
「ひにゃあぁああぁああ!」
目が会ったその時、これでもかというほど爽やかな笑顔を浮かべて挨拶した青年に、少女の恐怖が爆発した。
3
「いやー、ごめんごめん。まさかあそこまで驚いてくれるとは夢にも思ってなかったよ」
怒ったように頬を膨らます彼女に向かって、青年は特に悪びれた様子もなく誤魔化すように笑っている。
「で、君は何をしてたわけ?見たところこの中はラカトニア楽団団長のヘクターの屋敷だと思うんだけど」
貼り付けたような笑みを浮かべたままそう問うと、少女は途端に目つきを鋭くして青年を睨みつける。
「てことはやっぱり、あなたもあいつらの仲間なんだね!」
「あいつら?」
心当たりのない青年がそう問い返すと、少女はさらに怒り狂ってこう続ける。
「とぼけないで!私が頻繁にここから出入りしてあの子に会ってる事を知ってるんでしょ!あの子の秘密を私が知ってるから、そこらに言いふらされる前に殺すつもりなんでしょ!?」
大声でまくし立てて息を切らす少女を一瞥して、青年は少し苛立ちを含んだため息をつく。
「君さ、頭大丈夫?被害妄想もそこまでいくと感動を覚えるよ」
「被害妄想なんかじゃない!だってあの子は本当に怯えてて、私の事だって自分の事以上に心配、して……」
言葉の途中で少女は泣き出してしまった。さっきまで敵意剥き出しだったにも関わらずこんな弱々しい姿を晒され、青年は生じ始めた苛立ちなど忘れて狼狽している。
「ちょ、ちょっと、一体何なんだい君は。言っておくけど僕はただの通行人で、見知らぬ少女に危害を加える不審者とかじゃあないからね!」
「……本当に?」
青年のあまりの慌てぶりを見て、潤んだ瞳でそう尋ねる。青年が本当だと告げれば、その表情には安堵の色が浮かぶ。
「ごめんね。君を怖がらせるつもりは本当になかったんだ。ただ、何してるのか気になって、つい……」
怖がらせるつもりは無くとも驚かせるつもりはあったのだが、それは言わないでおいた。
「……えっと、誰にも言わないって、約束できる?」
ひとまず青年の弁明を信用した少女は、少し考え込むようなそぶりを見せると、やがて意を決したようにそう言った。
先程の彼女の言葉がどうにも気になってしまっていた青年の答えなんて、もう決まっている。
4
まず知ったのは、少女の目的がこの壁の向こうにいる、楽団の看板である歌姫に会うことだという事。そして、彼女は何度もそれをした経験があるのだという事。
そして次に知ったのは、常人が絶対に知ってはならぬ事。これが明るみになってしまえば、歌姫だけに留まらず楽団の評判ごと瞬時に地に落ちるだろう。
少女が青年に対してあそこまで過敏に疑ったのも頷ける、ラカトニア楽団が世間にひた隠しにするとんでもない秘密。
ーーあの子は、決して歌姫なんかじゃないんだよ。
ーーあえて言うならば、“偽りの歌姫”。
それを青年は知ってしまった。知らなければ良かった真実を。
次回更新は大学受験が終了してからになります。