1.
夕暮れになってもまだ暑さは去らなかった。
散々に炙られた路面のアスファルトは、太陽が傾いてもまだ熱を失わずにいる。その上で陽炎が揺らめくのが見えた。素足で踏めばきっと、真夏の砂浜めいた温度を伝えてくる事だろう。
加えて、湿度も高い。
ねっとりと顔に、体に空気が絡みつくのがわかる。陸の上であっても溺れそうに蒸していた。
それでも俺の心は晴れやかだ。
今日でようやく大学の学期末試験が終わった。冷房が生暖かい空気を吐き出す教室とも、退屈そうに講義する教授とも、これでしばしのお別れだ。
レポートはいくつか出ているが、今だけはその事に目を瞑っておきたい。
解放された気分での帰路、思い立って近所のスーパーに立ち寄った。
自動ドアを潜ると、外とは別世界の涼しさが全身を拭っていく。まるで生き返った気分だ。そうそう、冷房ってのはこうあるべきだ。
感慨に浸りながら店内を巡り、酒と肴を買い求めた。
親元を離れた気楽な一人暮らしである。今夜はのんびり祝杯を挙げるつもりだった。
まあ、なんて気取ったところで、去年地元で成人式を終えたばかりの身だ。大して量は飲めないし、凝ったツマミも作れやしない。
ビールではなく発泡酒の6缶パックをひとつ、それから出来合いの刺身盛りワンパックにパーティサイズの菓子をいくつか。その程度の散財が財布的にも関の山だ。
会計を済ませ快適な店内を出ると、分厚い熱気のカーテンが再び絡み付いてくる。
最寄りであるここから俺のアパートまでは約10分。途上には長めの急勾配がひとつあって、これを越えるのが夏場は地味にキツかった。ぴったりとシャツが体に張り付くのがわかる。家賃の安い理由の一端はここにもあるのだろう。
折角引いた汗にまたしても塗れながら、俺はようようアパートにたどり着き、部屋のドアを開けた。
途端、むっとする熱気が押し寄せた。
昼の陽気に温められ続けていた部屋の空気は、ひょっとしたら外の方が涼しいのじゃないかと思わせるほどだ。
さっさと靴を靴下を脱ぎ捨てて、俺は窓を開け放つ。
後々冷房を入れるにしても、まず部屋の温度を少しでも下げてからだろう。
一緒に買ってきた食料品を冷蔵庫に収め、そして俺は手を止めた。
指先でなぞるアルコールの缶は温い。この熱気の中を俺と一緒にやってきたわけだから当然だ。しかしどうせ飲むならば、キンキンに冷えたのの方が望ましいに決まってる。
テスト明けだからと不意打ちめいて突然に押しかけてくるような友人も、夏休みだからと手料理を作りにくるような恋人も、俺にはいない。
幸いと言うべきか残念ながらと言うべきか敢えて明白にはしないが、つまりとにかくここからの時間は、俺が俺だけの為にゆったりと使えるという時間であるという事だ。
ここは同一条件で最大限の快適を得るべく、用意周到に動くべきだろう。
冷蔵庫にもたれるようにしてしばし考え、結論する。
体は汗でべとべとだし、先にシャワーを済ませよう。湯を浴びてさっぱりして、エアコンが適温にした部屋で一休みして、それからぐいっとお楽しみと行くべきだ。
……なんて計算の結果だったのだが、いささか快適を追求しすぎてしまったかもしれない。
飲みきれなけりゃまた明日でもいいだろうと思っていたはずだったのに、一人テレビにツッコミを入れつつ酒盛りをして、気づけばツマミはほぼ壊滅。買ってきた缶も全部が空だ。
酔眼で時計を見ると、時刻は既に22時を回っている。
今日まで一夜漬けを繰り返した寝不足と、明日はゆっくり寝ていても構わないという開放感のバランスがもたらした有様とはいえ、ちょっとばかり手綱を離し過ぎた感がある。
億劫にならないうちに片付けをして、後ろめたくない気持ちで寝入った方が精神的によさそうだ。
俺はリモコンでテレビを消すと、なけなしの自制心をかき集めて立ち上がった。
空き缶とその他のゴミを、スーパーのレジ袋につめる。明日はゴミの日だから、これは後で玄関口に持っていって置いておく予定だ。一人暮らしレベルの低さ故か、そうしておかねばどうもゴミ出しを忘れてしまう。
それから、最後につまんでいたポテトチップスの袋を手にとった。
中身はまだ4分の1ほどが残っている。といってもパーティサイズの菓子だ。内容量的には普通のひと袋弱程度はあるだろう。
これ絶対太るよな。全部食ったら太るよな。
思いはしたが胃袋的はまだいけると主張している。
酔っ払いの主観なんて当てになったものじゃないが、放置して湿気させてしまうよりはいいだろうと理屈をつけて空けてしまう事にした。
仰向くようにして袋の端に顔を添え、底部を天井側へ持って行って中身を口に流し込む。指が汚れるのが面倒なので、一人の時は大体こんな食べ方だ。
勿論一回で残り全部は片付かない。口一杯に頬張ったら咀嚼して、飲み込んでからまた呷る。
行儀悪くも立ったまま、そうやって繰り返した数度目の折だった。
袋の底に、何かが見えた。
アルコールに浸った脳は素早い判断を行わない。
上向きから顔を戻し、反射行動でパリパリと菓子を噛み砕き、そうしながら今、一瞬だけ見たものを頭の中で反芻する。
それは白く楕円の形をしていた。
逆しまになった袋の底に、重力に引かれもせずに貼り付いていた。
ポテトチップス一枚分よりひと回りかふた回りほど大きいサイズだった。そしておそらくは気の所為だろうけれど、気の所為に違いないのだけれど、まるで人面のミニチュアめいた目鼻立ちがあって──。
いや馬鹿な、と俺は首を振る。
見間違いに決まっている。きっと光線の具合だ。包装の一部が光を反射してそんなふうに見えたに違いない。
シミュラクラ現象、という脳の働きを聞いた事がある。
人間はみっつの点を見ると、それを「顔」として認識するように出来ているのだそうだ。木目や天井のシミが人の顔が見えてくるのは、この機能の悪戯であるらしい。
だから、これもそれだ。
ただの目の錯覚、脳の誤作動だ。
そう理屈をつけながら、しかしそれでは収まりのつかない感覚が、凝りのようにごろりとある。
そもそも本当にそう信じているのなら、もう一度袋の中を覗けばいいのだ。覗いて、何もいないのを確かめればいい。幻だと証明してしまえばいい。
なのに出来ない。
さっきまでは簡単こなしていた動作が、今は少しも出来る気がしない。
どくどくと心臓が高鳴っている。エアコンによって冷やされた室内なのに、じわりと汗がにじむ。
がさり。
そこで、俺の動きによらず手の中の袋が揺れた。
いや、違う。違うはずだ。
勝手に動くなんて、そんな事はありえない。
俺の腕が震えたから、ありもしない幻を見て怯懦に震えたから、袋がひとりでに音を立てたように感じたのだ。
強く決めつけながらも、俺は我知らず身動ぎを止めていた。
息を詰める。
息が詰まる。
まったく無音の十数秒が過ぎた。袋もまた沈黙したまま、こそりともしない。
俺は意を決し、そろそろと袋を引き寄せた。
ゆっくり、ゆっくり。
中のものに俺の動きを悟られないように。
「…………」
斜めから、恐る恐るに様子を窺う。
だがまだ位置が悪い。角度がよくない。底の底まで見通せない。
少し、もう少しだけと、俺は袋を顔の下に寄せる。
自分が喉を鳴らす音が、やけに大きく聞こえた。
真上から覗き込んだその途端、ひょっとしたら袋から何かが飛び出してくるのじゃないか。警戒して顎の下に手を置いていたのだが、そんな事態は起きなかった。
でも、代わりに目が合った。
袋の中から、それはこちらを見上げていた。
それはフルフェイスのオペラマスクによく似ていた。真っ白で、無機質で、無表情で。
けれど確かに意志を持ってた。
ぎらぎらと悪意に輝く双眸で、仮面はじっと俺を見据えていた。
そして。
その口元が、唐突にカパリと、機械仕掛けめいて開いた。ニタリ歪んで、笑みの形を作る。
「う、わああっ!?」
ぶわっと肌が粟立った。
直感的にわかった。あれは仮面じゃなくて顔だ。
思わず投げ出した菓子の袋は床にポテトチップスを吐き散らしながら飛び、開口部を俺へと向けて落下した。まだ内側に貼り付いているのだろうか。「顔」が中から転がり出た様子はない。
では中か。まだあの袋の中か。
目を移すが、しかし菓子袋の口は然程大きく開いていなかった。中の様子はわからない。見えない。窺い知れない。
だが。
──がさり。
袋が揺れた。
いる。
「顔」はそこにいる。這い出てこようとしている。
あれこれと考える前に、咄嗟で体が動いていた。
先程ゴミを詰めたばかりのレジ袋を拾い上げる。中身が盛大に撒き散らされる事になったが、気になどしていられない。
大きめのそのビニールに、ポテトチップスの袋を突っ込んで口を縛った。キツく縛った。その上から更にもう一枚を被せ、同様に満身の力で口紐を結ぶ。
そうして再度、床に投げ出すように放り捨てた。
直接触れているわけではないが、長く手に持っていたいものでは、どうしたってなかった。
落下した袋は一瞬だけ大人しくしていたが、
──がさり、がさ、がさ、がさり。
すぐにまた不自然に揺れ始め、揺れ続ける。
はっきりと意志を感じさせる動きだった。不当な拘束から逃れようと足掻いている。それが明白な動きだった。
まずい。
このままじゃきっとあれは出てくる。
なんとかしないと。でもどうすれば。
まずいまずいまずい。
喉の奥がからからに乾く。
警報だけは頭の中で鳴り響くけれど、焦れた頭では具体的にどうすればいいのかが思いつかない。思いつけない。
何かないかと彷徨わせた視線が、木製のバットを捉えた。
部屋の隅で埃を被ったままのそれは、俺が高校球児だった時分の忘れ形見だ。素振りの習慣なんてとうに廃れてしまっていたけれど、それでも捨てられず、こっちまで持ってきた代物だった。
一足飛びに駆け寄って、グリップを掴む。
逆しまに両手で握り直すと、先端の太い部分を杵のようにしてビニール袋に叩きつけた。手応えめいたものはなかった。それでもぐりぐりと上から圧し潰す形で動かし、しばらく続けてからバットの先端を上げる。
少しでも動いたらもう一度打ちつけようと身構えたまま様子を見た。
袋は動かない。
微動だにしない。
何の音も立てない。
ほっと息をつきかけたその瞬間、袋が激しく暴れた。身の危険を感じたのか、その有様は先程よりも一段と激しい。
動揺しつつも、俺はすぐさまどすんと、床を鳴らして次の一撃を叩き込む。
だが駄目だった。
バットで突いたその一瞬は大人しくなるものの、今度こそ大丈夫かと先端を外すと、またしても袋は蠢動を始めるのだ。
叩く。
動く。
叩く。
動く。
叩く。
動く。
叩く。
動く。
気味の悪さに吐きそうになりながら、俺はただふたつの行動を反復する。
この攻撃行動で、もう俺と「顔」とは完全に敵対してしまった。それはわかっている。だからここであれを完膚なきまでに打ち据えておかなければならない。でなければきっと、ただでは済まないに違いない。
だから叩いた。
必死で叩いた。
叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いて叩いた。
中途で確認を挟む余裕が失せた。それからはただもうひたすらに、餅つきめいたその動作を繰り返して繰り返した。
どれくらいの間、そうしていたろうか。
我に返ると、全身に大汗をかいている。自分の荒く激しく息遣いと耳障りな心臓の音だけが、嵐のように耳を打つ。
だが、苦労の甲斐はあったようだった。それから乱れに乱れた呼吸が整うまでバットを杖にしていたけれど、その間ついに袋が動き出す事はなかった。
どうやら完全に、死ぬか壊れるかしてくれたらしい。
ひとまずの安心は得た。しかしだからといって、袋の中身を確認する気には到底なれない。
さてこれをどうしたものかと思案を巡らせ、「そうだ、ゴミに出してしまえ」と思いついた。
うちのアパートにゴミ集積所なんてものはないが、幸いにも明日はゴミの日なのだ。後の事は市の収集車と、処理施設に任せてしまおう。
処置を決めたら少し気が楽になった。とはいえ、明日の朝までこれを部屋に置いておく気はしない。これと同じ部屋で眠るなんて、大分ぞっとしない行為だ。
俺は追加のビニール袋を何枚か用意して、「顔」の入っているそれを幾重にも包んだ。そのいずれの口紐をも二重三重に強くきつく結ぶ。
それから玄関のドアを薄く開け、部屋の外のノブにビニール袋を引っ掛けた。今まで一度もかけた事がなかったドアチェーンまでをかけて固く戸締りをして、部屋に戻る。
緊張の糸が切れた俺は、そうして気を失うように眠り込んだ。