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彼はぼんやりと肌に触れるぬくもりを感じた。ふわりとしたものが、体を優しく包んでいる。それがベッドだと認識するのに、そう時間はかからなかった。疲弊した体には甘すぎる安心。曖昧な意識など、簡単に手放しそうになる。
遠くで声が聞こえる。幼い子ども特有の、舌足らずの声。駄々をこねているようだというのはすぐに分かった。語勢から、相手は若い男のようだ。彼はこの駄々っ子の父親か、兄か……。
それがはっきりと意識に滑り込んできた瞬間、セインは全身の毛が逆立ってはっと目を見開いた。と同時に、飛び起きようとして稲妻のように激痛が走り、再びベッドに倒れ込んだ。
「うっ……」
顔をしかめ、脇腹を押さえる。いざ意識を取り戻してみると、呼吸しただけで疼痛が強まっていく。が、周囲を改めて確認するため、セインは再び、そっと身体を起こした。
部屋は、大人1人が住むには、少々小さすぎるものだった。さらに、天井や壁は薄いピンク色。隅にある衣装タンスは、白地にカラフルな取っ手がついているもの。そのとなりにある木製の勉強机には数冊の絵本と、画用紙、クレヨンが置かれている。まさに、ここは子ども部屋そのものだった。
その中で、小麦色の髪がふわりと揺れた。はっとして行方を追う。小さな少女がくるりと振り返り、丸い目を大きく見開いていた。
「お前は……」
夢の中の、と言いかけて、彼は口をつぐんだ。彼女の瞳は赤ではない。銀の双眸がきょとんとセインを見ている。背格好も、夢で見たのよりはるかに小さく、少女よりは幼女と言ったほうがしっくりする。とはいえ、彼女には間違いなく見覚えがあった。絶望の、暗闇の中ではもっと大人びていたような気がしたが、彼女は獄中の彼を「助ける」と言った子どもだった。
「……起きた!」
と言ったかと思うと、瞳が突如としてキラキラと輝きだした。肩にかかるボリュームのある髪の隙間から、ふっくらとしたうさぎの垂れ耳がひょっこり覗いて、それがぴょーんと跳ねたかと思うと、正面からセインに飛びついてきた。
「良かった! もう死んじゃうかと思った……!」
少女は喜びを隠さない。小さな手を伸ばすと、首元へぎゅうっとしがみついてくる。
彼はまずぎょっとして動きを止めたが、傷の痛みを庇いながら、左手でそろそろと彼女を抱きしめ返した。そして、蘇る馴染みの感触と共に、右手をそっとその首元に添える。
ぽかんとして見上げる少女をよそに、彼はこの部屋にいる「もう1人」に声をかけた。
「俺をここから逃がせ」
命令だ。震えを表さないよう注意しつつ、厳かに告げた。
「もう1人」は腕を組み、こちらを見下ろした。全身に汗がにじむ。セインは先ほどの夢を苦々しく思い出した。切れ長の目は、あのときと変わらず全く笑っていない。それを覆い隠すように、細い青髪がはらりと垂れた。
「無理だな」
ベルンハルトはきっぱりと告げた。
「こいつがどうなってもいいのか!!」
生き残るためには少々の罪悪感など切り捨て、どんな小さな可能性にもしがみつかなければならない。彼は、こわばる右手で少女の喉にナイフの面を押し付けた。
腕に力が入る。大きくなる震えをどうにか抑えようとするが、だんだんそんなことには構っていられなくなる。本気の駆け引き。可能性は低いが、あるいは――しかし。
男はふいに表情を崩して唇を歪めた。
「あのさあ、君、ここがどこか分かって言ってる? ここはギルドの寮だよ」
「……は?」
明らかに子ども部屋であるここが?
「信じられないのも無理はないけど。もう一度言おうか、ここはギルドの寮だ。脱出は諦めたほうがいい」
彼がにこやかな笑顔を浮かべる一方、セインは歯を食いしばった。寮の一部屋ということは、たとえこの場は切り抜けたとしても、数十人規模の能力者集団からたった1人で逃げ切れるわけがない。今、この場に仲間はいないのだ。完全なる四面楚歌だった。
「どう、諦めた? どう足掻こうが君の身はこちらの意のままにできる。その子を人質にとろうが変わらないよ。それに、フィールドへ出られる算段でも?」
「……」
返す言葉もない。俯くと、腕の中の少女と目が合った。
「大丈夫。だから、離して?」
彼女は命を握られているとは思えないほど落ち着いていた。迷いは微塵も感じられない。
「大丈夫」
まっすぐな響き。そして、柔らかな金糸の束の隙間にのぞくガラス玉。こちらが見ているはずなのに、まるで奥へ奥へと吸い込んでいくような透き通った銀灰色。セインが少しでも手を動かせば喉を掻き切れるその距離で、絶対手を出さないという確信がうかがえる。それは、全く根拠などあるはずのないものであるのに。
そっと腕の力を緩めると、少女はするりと抜け出して彼の前に立ちはだかった。窓から射した光が、少女の輪郭をぼんやりとふちどっていた。震えない瞳をそっと細める。そのまなざしは、自分を人質にとろうとした者に向けるものではなかった。