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「レジェス、こいつ縛り上げて」
ベルンハルトの声が聞こえる。ちらりと視線を上げると、男が背を向けて去っていくのが見えた。深青のマントが、ひらりと翻る。その背面中央部には、円で囲まれた城郭の紋章が印されていた。
「おめでたいやつだ」
男の言葉が、いやに耳についた。ぐ、と右手を握りしめる。気づいたときには、彼は立ち上がっていた。ワイヤーを呼び出しながら歩み寄ってくる青年が青ざめたのも、アリエノーワが目を見開いたのも、意識の外に追いやられていた。
王の犬が。ただ命令に従うだけのてめえに……
「俺たちのことが分かるか!!」
左足を踏み出し、全身をバネに右手を振り下ろした。手のひらほどのナイフが空を切り裂いたと思うと、巨大なランスが風をまとって男の背に吸い込まれていく。
「ベル!」
甲高い悲鳴が響いたのと、青年のワイヤーがセインを締め上げたのは同時だった。
《刃》の行き先を追い、彼は目を細めた。青髪の男が振り返る。その目と鼻の先で、ランスは水が蒸発するように消えていった。
――遠すぎたか……。
薄れていく意識の中で、最後に男の横顔が見えた。そして、その向こうに立ちつくす細身の少女。
――少女?
まるで突然現れたような。マントも羽織らず、武器さえ持たず、戦闘服でもない不思議な少女がこちらをじっと見つめていた。他の人には見えないのか、ただ、行き来する人の隙間に静かに立っていた。柔らかく膨らんだ赤い頬には、涙の跡がついている。唇をわずかに震わせ、彼女は何かを告げようとした。小麦色の髪の奥に、焔のような瞳が悲しげに揺れた。
見たことのない人だった。だが、どこかで会ったことがあるような気がした。どうやら、夢と現実の境が曖昧になっているらしい――
そして、彼の悪夢は幕を閉じた。
***
真っ白い棺の中に、彼女は閉じ込められていた。棺は長方形の空間を持て余し、羽をつめた寝台の上に彼女を寝かせた。薔薇をかたどった文様が寝台を囲み、壁面の一部に外光を取り入れるための窓が設けられている。
それは、一概に病室というものであった。
小麦色の髪。夕焼けを映した湖面のような瞳は伏せられ、葦のまつげで覆われている。空間を満たす澄んだ水に、波風はたたない。部屋の主である彼女は、錘の呪いでもかけられたかのように、眠りについたまま微動だにしなかった。
右腕へは、点滴のチューブがのびる。その反対側には、ベッドの側面に沿うように、正方形の机がぴたりと据えられている。誰かが見舞いに来たのだろうか、一輪挿しに、水色をしたニゲラの花が寂しく咲いていた。
花瓶のとなりには、小さな紙切れが置かれていた。4つに折られた白い紙には、繊細な筆跡で「幸せに」と書かれている。
時が止まったかのような世界に、突如、雑踏がまぎれこんできた。看護師が様子を見に来たのだった。
彼女は変わらない表情で来客を迎えた。
部屋を見回し、点滴を一通り点検すると、看護師はふぅとため息をついた。こんな外国で、あなたにとっては不安だろうに、と客は呟く。
「……ベックウィズさん、早く起きないと死んじゃいますよ」
水が、わずかに揺れた。
「――お腹の子どもたちが」