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「ソイニ、何をやっているんですか」
呆れ顔の女が、軽い足取りで駆けてきていた。燃えるような赤髪をくるりと結い上げ、藍色のマントをひらりとはためかせる。両手の黒い手袋からくっきりと伸びた《影》は、不可解な形にひね曲り、地面を伝ってセインの脚を強固に絞めげていた。
「早く捕まえないといけません」
淡々と告げながら、彼女は糸をくるように指を動かした。地に落ちた《影》の節々に丸いこぶができ、そこから花開くように、無数の真っ黒い蔦が地面を這って飛び出す。
見たことのある能力だ。《影》を操る赤毛の女、ベルンハルトの右腕、アリエノーワ。何度か粛清の指揮を執っていた覚えがある。
あの蔦に絡まれると厄介だ。重い脚を無理矢理持ち上げるのは諦め、膝で立ち、できるだけ背筋を伸ばした姿勢を取る。左手のナイフを頭上に振り上げ、その柄に右手を添えた。ナイフに変形を命じると同時に重量が増す。刃渡りの広いバトルアックス。片手では支えきれない重さそのまま、足の《影》と蔦の《影》ごと地を抉るように切り裂いた。
《影》は斬られた面から離散した。そこへ、羽が光の線となって降り注ぐ。ソイニと呼ばれた先程の青年は体勢を立て直していた。うち数枚は腕や背に刺さるが、構わず腕を回して斧の面で防ぐ。その間に、赤髪の女はもう一度影の腕を伸ばしてきていた。さらに、他の人々もそれぞれの武器を構え、飛びかかってきそうな勢いだ。簡単にはやられないと、歯を食いしばる。視界の端に、ベルンハルトの鋭い視線を感じた。
――夢はクライマックスを迎える。風景が加速していく。
セインは短く舌打ちした。無謀なのは百も承知だ。だが、ここで意地を見せないまま倒れるわけにはいかない。手の中の武器を変形させる。
「おりゃあっ!」
前方を切り裂くのは薙刀。皮膚を掠めていく羽たちは無視する。地を這う蛇のような影を飛び越えて、男の正面に躍り出た。その時にはすでに、右手は再びサバイバルナイフを握っている。
勝つか、負けるか。恐らく負ける。
ずっと前に一度だけ、ベルンハルトが能力を使って反逆者を捕らえるところを見たことがあった。それは、セインを含めほとんどの者がそうであるように、武器を呼び出すことではなかった。しかし、彼が口に人差し指を当て、金の雫のイヤーカフが落ちたとき。たった一瞬の静寂が圧倒的優位をもたらし、彼は汗一滴浮かべずに反逆者を捕らえた。誰の目から見ても、ベルンハルトは間違いなく「最強」だった。
思いっ切り地面を蹴る。腕を引き、《刃》の行方に全神経を集中した。男はまだ動こうとしない。
「ベル!!」
背後で誰かが叫んだ。感じたのは、警戒より恐怖だった。突き出した右手に、ひやりとしたものが触れる。細い指が、手袋の上を這った。
首をわずかに傾げた男の表情は視野の中央を大きく外れ、ぐにゃりと歪む。手首にものすごい圧力がかかったかと思うと、セインの身体は宙に浮き上がっていた。
息が止まる。出来事がスローモーションで再生される。ぐるりと世界が回り、次の瞬間、射られた鳥のように地面に激突した。周囲の落ち葉と土につられて飛ぼうとする意識を、肩に走る激痛が引き戻す。とっさに起き上がろうとするも力が入らない。
「大したことないなぁ」
ぽん、と軽い言葉が落とされる。
「王はなんで僕を出さなかったのかな。こんなのすぐ捕まえられたのに……まぁいいや」
バサリ、と大げさにマントを揺らし、ベルンハルトはセインの上に影を落とした。
彼は、自分を睨みながら起き上がるセインを見下ろしていた。そして、目が合った瞬間、肩から踏み倒した。
「うっ……!」
肩が地面に食い込む。
「もしかして、勝てると思ってた?」
ベルンハルトのブーツが、肩から胸へと移る。踏み抜くばかりの力にセインは必死で抵抗した。肋骨が軋み、肺が圧迫される。十分な空気が供給されずに、息が上がってきた。が、彼はにやりと笑ってみせた。
「はは……勝つ、つもりだった」
「そう」
バキッ、と嫌な音がした。直後、脇腹に固いものがめりこみ、身体ごと吹き飛んだ。蹴飛ばされたのだと分かったときにはすでに遅く、胸を抱えて地面にうずくまり、ざらりとした土と血の味を噛みしめていた。