第二章 少女達の事情 act.4
噂を聞いた。
「直江先輩、学校やめるらしいよ」
「えー、どうしてどうして」
どうでもいいことのはずだった。
「あたしも理由まではちょっと。奈美絵ちゃん何か知らない?」
「ううん、分んない。でもきっとお仕事の関係」
だから憶測で好き勝手なことを喋らない方がいい、といった由のことを青山は控え目に、しかしはっきりと主張した。
真面目な彼女らしいと思う。聞くところによると母親は西の重臣らしいから、本当はもっと色々と耳にしているのかもしれない。だがそれは軽々しく外部の人間に洩らすべきことではないだろう。
尋ねた斉藤は鼻白んだように黙ったが、青山にそれ以上話す意思がないと見て取ると、すぐに他の生徒の方に場所を移した。取り残された青山は下を向く。
反感を買うかもしれないと承知で、それでも正しく振る舞うのは勇気のいることだ。柊子{しゅうこ}は全面的に青山の味方をするだろう――もしこれが他のことであったなら。
「ちょっといいかな」
柊子が声を掛けると、青山は驚いたように自分の胸を指差した。
「あたし?」
「うん。来て」
手を取って引く。
「え、でも」
戸惑うというより怯えているような気色だ。あるいは入学式の日の柊子の惨状を思い出したのかもしれない。
「お願い」
引く力を強くする。
「……分ったから。手離して」
青山は仕方ないというように席を立った。
「奈美絵どこ行くの?もう先生来ちゃうよ」
彼女と同じ西出身の生徒が見咎める。実際には始業まではまだ十分以上もある。
「大丈夫、すぐ戻るから」
青山が答えた。しかし柊子はそれを否定した。
「ごめん。もしかすると長くなるかもしれない」
青山の問うような眼差しに、柊子は無言で頷く。
「芳山さん、もし先生が来たら保健室に行ったって言っておいて」
「ちょっと奈美絵?」
青山は逆に自分から柊子の手を引くようにして教室の外に出る。そして廊下をどんどんと進み出した。
「えーっと、どこまで行くのかな」
柊子は戸惑い気味に尋ねる。どこかその辺で立ち話でもするつもりでいたのだ。
「保健室よ。そう言ったでしょ」
青山はあくまでも生真面目だ。
「え、でもそれって口実だったんじゃないの?」
「あたしはそんな子供みたいな嘘はつかないわ」
睨まれてしまう。「青山ってなんか苦手」といつか信太{しんた}が言っていたのを思い出す。
「だけど具合が悪いとかって保健の先生に言ったら、それも嘘になる気がするんだけど……」
「ちゃんと正直に言うわよ。とても大切な話があるから少し二人でいさせてくださいって」
「そんな、何もそこまでしなくても」
呆れ気味に柊子が言うと、青山はぴたりと足を止めた。
「何だそうなの。わざわざあたしを連れ出したのって、どうせ直江先輩のことだよね。浅香さんも下らない噂話がしたいだけだったんだ。だったら他の子とすればいいじゃない。みんな興味津々みたいだから、いくらでも相手がいるわ」
きつい物言いとは裏腹に、青山は泣き出しそうに見えた。
「直江先輩はね、芸能人でも超人でもないの。あたし達と同じ普通の女の子で、ただすごく頑張ってるだけなの……なのにみんな、ひどいよ」
柊子は青山の両手を包み込むようにして握った。
「分ったよ、青山さん」
銀縁眼鏡のレンズの後ろで揺れる瞳を真っ直ぐに見つめ返す。
「一緒に保健室に行こう。私も話せることは話すから。ね?」
養護教諭は初めいい顔をしなかったが、青山が姓名を名乗ると、
一、話が終わったら速やかに教室に戻ること。
二、実際に具合の悪い生徒が出たら場所を空けること。
という条件付きで許可をくれた。すると青山の母親というのはやはりなかなかの大物なのだろう。
「それで、浅香さんは何が知りたいの?」
ベッドに腰を下ろした柊子の前に青山は立っている。柊子は隣に座るよう言ったのだが、「保健室のベッドは座るためのものじゃないもの」という理由で断られた。まあいいけど。
「うん、二つあるんだけど」
柊子は回り道をすることなく切り出した。
「一つは、直江会長が学校をやめるっていうのは本当なのか。それと」
青山の表情だけでもう事実なのだと分った。
「もう一つは、それが土曜の宮址{きゅうし}での騒ぎと何か関係があるのかってことなんだけど」
青山は答えに迷うように間を置いた。
「あたしも詳しいことは知らないの。だけどきっとそう。何か大変なことが起こったんだと思う。そうじゃなかったら一矢{ひとや}さんが学校やめたりなんてするはずないもの」
一矢さん、か。さっきまで直江先輩だったのに。
「誰かに訊けばもっと色々教えてもらえるのかもしれないけど、そのつもりはないわ。あたしにはそんな資格ないから。ただ母親の地位が高いっていうだけで、本領のためにも、皇王陛下{こうおうへいか}のためにも、一矢さんのためにも……何もできないんだから」
青山はうつむいた。それから気を取り直したように柊子に尋ねる。
「浅香さんはどうして一矢さんのことを気にするの?あなたは東の人よね。それは、東にも下京{かきょう}にも一矢さんに憧れてる人は大勢いるけど、あなたはそうじゃないでしょう」
断言された。思わず笑ってしまいそうになる。青山はきっとなって言った。
「何がおかしいのよ。『西』のアイドルがいなくなるのがそんなに嬉しいの」
「違うよ、そういうんじゃなくて」
柊子は慌てて弁解する。
「青山さんから見ても、やっぱりわたしはあの人を敵視してるみたいに映るんだなあって思ったら、なんか自分がかっこ悪くて。それでおかしくなっただけ」
「よく意味が分らないんだけど」
眉をひそめた青山に柊子は説明を試みる。
「入学した頃、わたしぼこぼこだったでしょ。あれってね、直江会長にやられたの……本当だよ?」
疑わしげな様子に柊子が念を押すと、青山は一層頑なな調子になった。
「そんなの信じられないわ。一矢さんは確かに強い人だけど、ううん、強い人だからこそ、弱い者いじめなんて絶対にしないもの。浅香さん、どうしてそんなひどい嘘つくの?もし他の人にまでそんなでたらめ言い触らしたりしたら、あたしあなたのこと嫌いになっちゃうよ……」
「弱い者いじめ、かあ」
柊子は思わず天井を仰いだ。
「それちょっときついかも。……あのね、わたしこれでも結構強いんだよ。少なくとも自分ではそう思ってる。だけど青山さんの言う通り、直江会長に比べたら全然弱かった。一発喰らわせてやろうとしてね、返り討ちにされたの」
青山はきょとんと首を傾げた。
「なあにそれ。一矢さんの好きなアニメとか漫画の話?」
「わたしとあの人の話だよ。つまりね、直江一矢や青山さんと同じく、わたしも普通の家の子じゃないの。話を聞きたいのはそういう理由。わたしは帝臣{ていしん}だから、直江会長の力になれるかは分らない。でもできる限りのことはしたいと思ってる。本当に必要があれば右衛府{うえふ}の力だって使う。もちろんわたしが自由にできるわけじゃないけど、そういう力を持った人にお願いすることはできるの。どうかな。答えになった?」
「うーん、浅香さんが普通じゃないのは分るけど。……あ、違うのっ、そんな悪い意味とかじゃ全然なくて!」
「いいよ。納得してくれるんなら何でも」
それに初めの頃に比べればだいぶましになったとはいえ、クラスの中で浮き気味だという自覚ぐらい柊子にだってある。ことに女子の間ではそうだ。
「ごめんね、あたしは本当に詳しい情報とかは持ってないの。だけど一つだけ。今日ね、一矢さんが」
青山は言い淀んだ。やはりまだ信用してはもらえないのか。柊子は思ったが、違った。
「退学届け出しに来るって……だけど駄目、やっぱりそんなのやだよ。せっかく同じ学校に入れたのに、一矢さんがいなくなっちゃったら意味ないもの。ねえ、浅香さんもそう思うよね!?」
青山は柊子をベッドの上に押し倒しそうな勢いで詰め寄った。
「ちょっと待って青山さん、落ち着いてってば!」
これで相手が眼を血走らせた男子とかなら容赦なく蹴り放してやるところだが、まさかそういうわけにもいかない。
「分ったよ、会長さんのことはわたしがなんとかする、やめないように説得するから!」
「浅香さん、本当!?」
「ほんとほんと、約束するっ」
「嬉しい……やっぱり浅香さん、あたしの思ってた通りの人だった。好き、大好き。一矢さんの次に好き」
瞳を潤ませた青山に柊子は思い切り抱き締められる。
えーと、これはつまり、そういう「好き」なんだろうか。
物凄く、微妙だ。初めての告白が女子から。それも直江一矢の次って……。
そもそも何の話だったのか忘れてしまうぐらいの超展開だった。脳が豆腐になってしまつたように働かず、次に何をすればいいのかまるで思い付かない。
せめてもの救いは周りに誰もいないことかな。ぼんやりと首を巡らせる。
目が合った。
ベッドを仕切るカーテンの隙間から顔を覗かせていた信太と。一瞬で頭に血が上る。
「シ、シンタ……いつからそこに、ってかこれは違くて、ちょっと複雑な事情があって」
沸騰したお湯みたいにあっぷあっぷになった柊子とは対照的に、青山の声は氷点下にまで冷え込んだ。
「湊{みなと}、邪魔、今すぐ消えて。浅香さんはあたしとお話してるの。あんたなんかの出る幕はないの。早く出てきなさいよ。ぐずぐずしてると消すわよ」
「……その、シュウ、浅香がなんか無茶やらかしてないかって心配して見にきたんだけど、とりあえず仲良くやってるみたいで安心した、それじゃ」
信太は早口で言うとそそくさと頭を引っ込めた。すぐに保健室から出て行く気配が続く。
よし勝った、と青山がガッツポーズを決める。
何の勝負に?柊子は余り考えたくなかった。
実際、そんなことに頭を悩ませている場合ではなかった。どうにか青山を引き剥がし、退学届けがまだ提出されていないことを確かめてもらうと、柊子は校門で一矢を待ち受けた。
曇っているわりに空気は温かく、というよりむしろ生ぬるく、肌にうっすらと汗が滲む。
上着はあらかじめ脱いできた。ブラウスの袖は肘の上まで捲り、襟元のリボンは緩め、ボタンは二つめまで開けてある。スカートの下にはもちろんスパッツを着用、靴はスパイクでこそないがサッカーの練習の時に履いているやつだ。これでいつでも喧嘩上等、どっからでも来い。
とはいえ最初から闘うつもりでいるわけではなかった。それでも事に備えて用意しておくのは武芸者として当然の心得だ。ただでさえ向こうの方が強いのだから。
やがて現れた一矢は完璧に柊子を無視していた。着ているのは柊子と同じ真秀学園{しんしゅうがくえん}女子の制服だが、柊子とは違って品行方正、生徒会長にふさわしい一分の隙もない着こなしだ。
しかし本当は全然ふさわしくないのかもしれなかった。
「こんにちは、直江会長。あなたの退学の件でお話があります」
その手続きが完了すれば、もはやこの制服を着る義務も資格もなくなるのだから。
聞こえなかったはずはない。だが一矢はまるで柊子など存在しないかのように通り過ぎる。
柊子は聞えよがしのため息をついた。
「……とんでもなく寝坊して、まだちゃんと目が覚めてないって感じですか。だったらわたしが起こしてあげます」
一矢を追って浅めに踏み込む。
「お尻でいいですか?」
さすがに振り返った。柊子は蹴ろうとしていた足を止めた。
「何だ。てっきり歩きながら寝てるのかと思った。でも起きてたんだったらわたしの声も届いてますよね。改めてお話いいですか?」
「生憎多忙だ。そんな暇はない」
能面のような表情で一矢は言った。冷淡というより、怒りを押し殺しているみたいな雰囲気だ。だがここで引き下がってしまっては今まで待っていた甲斐がない。
「学校にも来られなくなるぐらいに、ですか」
多少の罪悪感を覚えながら、さらに探りを入れてみる。
「でも仕方ないですよね。その歳でもう中士長{ちゅうしちょう}になって、学校でも生徒会長なんかやってて、周りからもちやほやされて、すっかりいい気になってたのに肝心なところで役立たずだったんですもんね。それも唯一の取り柄のはずの武術でこてんぱんにされたりして。のんきに学生なんてやってられるわけないですよね」
一矢の放った横拳を、柊子は余裕でかわした。
初遭遇時の惨敗からまだ一月足らずだ。その間に実力差が劇的に縮まったわけではない。
力み過ぎだった。予備動作も振りも大きく、反比例して切れはない。反射神経に優れた人であれば格闘技には素人でも反応できただろう。
ここまで度を失うということは、やはり。
「そっか……ほんとに負けちゃったんだ、一矢さん」
根拠はこめかみに傷があったことぐらいで、あとは状況からの当て推量に過ぎなかったのだが、見事に正鵠を射たらしい。
一矢は二撃目を放とうとはしなかった。だが落ち着きを取り戻したようにも見えない。切れ長の眼が怖い光を湛えて柊子を捉える。
「浅香柊子、君に一つ言っておく。私の邪魔をするな。もしまたいつかのようなことがあれば、私はきっと手加減しない。そうすればただの怪我では済まなくなる」
一矢は間違いなく本気だ。いざとなれば生死の一線を越えることもためらわない。それだけの覚悟をしている。
何がこの人をそこまで追い詰めているのか。
柊子は知りたいと思った。知らなければいけないと思った。
これで最後になるのかもしれない制服の後ろ姿を見送りながら、もう一歩踏み出してみることを柊子は決めた。