第二章 少女達の事情 act.3
左京衛府官衙{さきょうえふかんが}から宮址{きゅうし}までは徒歩で十五分と掛からない。途中で二本ばかり大通りを渡る必要があるが、どちらにも信号が敷設されているので横断歩道で待っていれば車の流れはそのうち止まる。肉体的にも精神的にも負荷は小さく、普段であれば散歩にも物足りないような道程だ。
だが一矢{ひとや}はこれ以上ないぐらいに真剣だった。一歩進むごとに、否、その一歩を行く間にさえ集中を切らさない。
不審者や危険物に注意を払いつつ、通行人に紛れた警護役の左士達{さしたち}と目配せの合図を交わす。その一方で、巡察中の下級衛士{かきゅうえじ}に対しては何事もないかのように振舞った。彼らの多くは事実を知らない。一緒に連れている少年のことは、一矢の遠縁に当たるさる名家の子供と思っているはずだった。
「一矢さんって凄いんですね」
一矢を見上げる少年の声には、真っ直ぐな賛嘆が含まれていた。巡察中の一分隊とすれ違った直後のことだ。
「衛士の人達がみんな向こうから挨拶してくるんだから。なんだか一緒にいる僕まで偉くなったような気がします」
嬉しそうに瞳を輝かせる少年の名を純緒{すみお}という。一矢の緊張の根源である。
「何を仰るんですか、殿下……純緒さん。あなたは実際に」
この街にいる誰よりも偉いのですから、と続けようとして口を噤む。微行中である。正体を明らかにするようなことを余人に聞かせるわけにはいかない。
「はい、分ってます」
純緒は素直に頷いた。
「本当の僕は何もできないただの子供ですから。変な勘違いをして一矢さんに迷惑を掛けるようなことはしません。だから安心してくださいね」
「いえ、そうではなく」
須堂{すどう}ではあるまいし、そんな不敬なことは小指の先ほども思っていなかったが、要点をぼかしつつ真意を伝えるなどという芸当は一矢のよくするところではない。なんと答えようかと迷った挙句。
「純緒さんは大変立派にお育ちです。今から本当に将来が楽しみです」
言い終えた端から後悔していた。どう考えても本人に面と向かって告げるような内容ではない。
面喰らったように瞬きを繰り返す純緒に、一矢はなんとか弁明を試みる。
「つまり、今のは決して世辞などではなく、本心から思ってのことでありまして、ですから決して殿下に、いや純緒様、もとい純緒さんにおもねろうなどという卑しい意図は」
「信号が変わりましたよ。渡りましょう」
純緒がしどろもどろの一矢の手を引いた。
「は……」
重ね重ねの失態だった。
我に返って周りを見れば、手の届く近さに幾人もの人がいる。もしもその中に純緒に害意を持つ者が混じっていたらと考えると慄然とせずにはいられない。
「純緒さん、申し訳ありません」
宮址の南門から園内へ入ると一矢は言った。いっそその場に額ずきたいぐらいだった。
「やはり私は案内役として不足のようです。官衙に戻りしだい、もっとふさわしい者に引き継ぐよう具申致します。ですのでどうかそれまでの間ご辛抱を願います」
本当なら今すぐにでも代わるべきなのだ。しかし護衛の編成は詳細な検討を経て決定されており、その場の思い付きで安易に変更することはできない。
「どうしてですか?一矢さんは僕と一緒にいるのはいや?」
「いえ、そんなことは決して!」
思わず声を高くする。純緒は一矢の目を見つめた。
「じゃあ僕がこっちにいる間はずっと一緒にいてくれますね?」
咄嗟に返事ができなかった。
この聡明な皇子{みこ}の守り手として自分は明らかに能力不足だ。その逡巡を見抜いたように。
「僕は一矢さんと一緒がいいです」
純緒が握った手に力を込めた。
「……微力を尽くします」
そう答える以外なかった。
ずるい。不敬なのは百も承知ながらそんなことを思ってしまう。
まだ九歳の少年にこんな告白をされてしまったら、自分から役を降りることなどできようはずもない。
もういっそのこと開き直ってしまえばいい。
他ならぬ純緒が一矢が共にいることを望んでいるのだ。側に付くべき理由などそれで十分だ。
少し心が軽くなった。すると不思議なもので、気を張っていたさっきまでよりもかえって周りが見えるようになってくる。
ベンチで呑気そうに新聞を広げている初老の男性、あれは今年の三月で引退した元大士長{もとだいしちょう}だ。編成に入っていなかったので今まで気付かなかったが、まさか偶然ということもないだろう。一矢が知らないだけで、他にもまだ頼もしい味方がいるはずだ。
例えばあの蓬髪を後ろで括った大男。
前を歩く姿を見ていると、衆に抜きん出た体躯を持ちながら、人ごみを全く苦にしていない。周囲にいる人間の位置と流れを瞬時に把握し、かつ即応できる能力の持ち主である証拠だ。
「ずいぶん色んなお店があるんですね。美海屋{みうみや}さんというのもこの辺りなんですか?」
純緒が物珍しげに左右に首を振り向ける。
多くの屋台が連なる一画だった。ホットドッグや焼きそばといった軽食、クレープやかき氷などの甘味、きちんと淹れたコーヒー紅茶や搾りたてのフレッシュジュースに加えて、地酒なども売られている。
宮址は文字通り宮{みや}の址{あと}、即ちかつての真秀{まほ}王宮のあった場所なのだが、史跡や記念館といった観光の対象となるようなものが実は皆無である。その中にあって、この通称“屋台通り”だけはある種の名所として賑わいを見せている。
「いえ、美海屋は別のところにあります。知っている人でないとなかなか見付けにくいでしょうね」
かく言う一矢自身、葦原京{あしはらきょう}に住んで三年になるのに最近までその存在を知らなかった。訓練や巡察などでこれまで宮址には何度も訪れているのだが。
そんな会話をしている間にも、二人の先を行く蓬髪の大男は悠然と小道を折れていく。やはりそうか。一矢は確信を深めた。
あの先には美海屋がある。いやむしろ美海屋しかないというべきか。
「一矢さんもやっぱり女の子なんですね」
「は……?確かに私は一応は女ですが。なぜそのようなことを?」
「だって、食べ歩きとかしておいしいアイス屋さんを見付けたりしてるんでしょう?女の人ってそういうのが好きなんですよね。やっぱり学校の友達と一緒に行くんですか?一矢さんのお友達なら、僕もお会いしてみたいです」
なぜか、尋常でなく足癖の悪い少女のことが思い浮かんだが、間違っても友達ではないうえに、できる限り純緒には会わせたくない。
故意に危害を加えようとするとは思わない。だが軽はずみな行動のすえに厄介事に巻き込んだりなどというのはいかにも有りそうだ。
「私はただ評判を耳にしただけです。ですので実際に食べるのは私も今日が初めてなんです」
「そうなんですか?」
「はい。ですから自信を持ってお奨めするというわけにはいかないのですが……」
しかし甘い物の食べ歩きなどとはおよそ縁のなさそうな須堂でさえ知っていたぐらいだ。まるっきり当て外れということもないだろう。
「じゃあ僕たち二人とも初めてなんですね。でもその方が楽しいかも。なんだかちょっとわくわくします。一矢さんはどうですか?」
「私もですよ、純緒さん」
一矢は心から同意した。
屋台と客とで混雑する通りを離れて脇道に折れる。木立ちに遮られて先は全く見通せない。知っている人でなければまずこちらに来ようとは思うまい。脇道の手前にあるごみ箱がやたらと一杯になっていることも、人を遠ざけるのに一役買っていそうだ。おそらく食べ歩きの人が空き容器を捨てるのにちょうどいい位置にあるのだろう。
蓬髪の男の姿は見えなかった。だが確実にこの先にいるはずだ。ワークパンツに長袖のTシャツという軽装で、武器を携行しているようにも見えなかったが、素手のままでも相当の戦闘力を持っている。一矢はそう見積もっていた。
しかし左京衛府の人間ではない。少なくとも一矢は官衙で見掛けたことはない。それが露払いのような役目を果たしているとすれば、考えられることは。
「純緒さん、一つお尋ねしてもいいですか?」
「なんでしょう」
「純緒さんには専属の護衛の方がいるのではないですか。癖毛の長髪を頭の後ろで括った大柄な男の人です」
賢明な少年の表情に驚きの色が浮かぶのを、一矢は密かな満足を持って眺めやる。
少し考えれば分ることだ。いくら遠巻きの援護があるとはいえ、純緒ほどの貴人を直接に守護する役目が一矢だけのはずがない。
だが己の推察能力に対するささやかな自負は一瞬にして吹き散らされた。
――爆発音!?
即座に全身を緊張が貫く。しかし事故か故意か、咄嗟に判断に迷う。だが現場からは距離がありそうだ。ならば闇雲に離脱を図るよりまずは様子を見るべきだろう。
「一矢さん、今のは……?」
「暫しお待ちを」
すぐにも逃げ出したそうな純緒を抑え、一矢は携帯端末を取り出した。とにかく須堂と連絡を取る。彼自身は宮址には来ていないはずだが、各処に配置された衛士から随時報告を受ける立場にある。最も総合的かつ客観的な状況把握が可能だ。
左衛府直通の回線を選択して発信する。だが繋がらない。そんな、なぜだ?
またしても爆発音が聞こえた。今度ははるかに近い。火の手が上がっているのさえ目に入る。おそらく小道の入口辺りだ。
一矢は呼び出しを打ち切った。もはや悠長に伺いを立てている場合ではない。
「純緒様、こちらへ」
強く純緒の手を引いて美海屋のある方へ走り出す。外に通じる出口がないのは承知だが、生垣を突っ切ればいい。擦り傷ぐらいはできるかもしれないが、来た道を戻るよりも確実に安全だ。
しかしその判断は誤りだった。
「おう、やっと来たか」
行く手にはさっきの大男が待っていた。一矢は驚かない。むしろ当然そうあるべきだ。まずは自らの身分を明かす。
「葦原左京衛府の直江中士長です。皇府{こうふ}直属の近衛{このえ}の方とお見受け致します」
純緒専属の護衛ならそうであるに違いない。しかし大男は青い眼睛を丸くした。
「は?俺が近衛?何言ってんだ姉ちゃん。そんなわけねえだろうが。一目見りゃ分んだろ」
確かにその通りだった。服装といい髪型といい、男の外見は忠勇なる精鋭という近衛のイメージからはほど遠い。むしろ山賊の親玉とでもいった方がよほどしっくりくるだろう。だがそれは偽装だったのではないのか。
「純緒様、ではこの人は……?」
確認を求めて振り向く。純緒は固い顔つきで頷いた。
「僕が目当て、みたいですね。なんとなくそんな気はしてました」
愕然とする。己の迂闊さと間抜けさが自分で信じられない。では純緒自身が最初から不審人物だと見做していた相手を、よりにもよってその守り手と勘違いしていたことになる。
「まあ何でもいいんだけどよ」
大男が無造作に歩み寄る。ゆったりとしていながらしなやかな足取りが大型の肉食獣を連想させた。
「こっちも仕事なんでな。ちゃちゃっと済ませたいんだわ。ほら坊主、こっちに来い。痛いことはしないからよ」
「殿下、お下がりください」
一矢は前に出た。
「お、やるか姉ちゃん?頼もしいな……おおっと」
一矢がおもむろに投げ付けた携帯端末を男は難なくかわしてみせる。だがそんなことは織り込み済だ。
その間に一気に距離を詰め、がら空きのみぞおちめがけて速く鋭い突きを繰り出した。
重い衝撃が体の芯までを貫く。
「かはっ……」
一矢の拳は届かず、逆に男のつま先が一矢の右の脇腹にめり込んでいた。ひとたまりもなく地面に膝を付く。
「一矢さんっ!」
――純緒様、お逃げください!
叫ぼうとしても声にならない。呼吸さえままならなかった。それでも腕はどうにか動いた、否、気力を振り絞って動かした。
一矢は男の両脚にすがりついた。文字通りの足止めだ。
この皇子ならば分るはずだ。なぜ一矢がこのような挙に出たのか。そして自分が何をするべきなのか。
純緒の力で一矢を助けることは絶対に不可能だ。ならばこの場にいない味方を頼る以外に道はない。
はたして純緒は一矢の元へ駆け寄ったりはしなかった。
「おっ」
大男が感心したような声を上げる。すぐに純緒の後を追おうとするが、そうはさせない。満身の力を込めて大男の動きを封じる。たとえどれほどの怪力の持ち主だろうと、人間一人分の重さの足枷を付けて走れるわけがない。その間に純緒が逃げ切れればこちらの勝ちだ。たとえ一矢の身がどうなったとしても。
大男は一矢の襟首を掴んだ。絞め落とすつもりか。一矢は防御のために顎を引く。意味がなかった。
「あらよっと」
体の下から地面が消えた……いや違う、自分が宙を舞っているのだ!
唖然とするうちに落下が始まり、何か柔らかいものにぶち当って止まる。か細い悲鳴が下から聞こえ、自分が純緒を押し潰していることに気付いた。無茶苦茶だ。大男は走り去ろうとする純緒めがけて、一矢を文字通りぶつけたのだ。
「おしっ、でかしたぞ姉ちゃん。よく坊主を捕まえた。だけどあとで一応病院行っとけな。女は骨盤とか大事だからな」
とぼけたことを言いながら大男が近付く。一矢は純緒を抱きかかえた。
「坊主はおっちゃんと一緒だ」
純緒を守る腕に力を込めて、男の股間を蹴りにいったが空を切る。逆にこめかみに蹴りを入れられ、一瞬空白になった意識が戻った時には自分の元から少年の温かさが消えていた。
すぐに取り戻そうと動いた刹那、みぞおちに蹴りが刺さる。既に限界だった。心は未だ足掻いても、体が意思の外にある。
「もうやめてくださいっ!僕があなたと一緒に行けばいいんでしょう!?だからもうこれ以上一矢さんにひどいことしないでっ。……お願いですから」
「坊主はいい子だなあ。だけど心配すんな。ちょっとばかし寝ててもらうだけだからよ」
そんな遣り取りが聞こえたのが最後だった。
後頭部に踵を落とされ、一矢の目は閉ざされた。