第二章 少女達の事情 act.2
「失礼します」
一矢{ひとや}は葦原左京衛府{あしはらさきょうえふ}官衙{かんが}内にある一室を訪れた。長テーブルと椅子が幾つか並べられただけの殺風景な空間である。
中には背の高い男が一人いた。巡察服でも制服でもない地味な黒のスーツを身に付け、壁に浅く体を凭せかけている。男は一矢の姿を認めると座るよう促した。
一矢は一礼して腰を落とす。須堂元哉{すどうもとや}は斜め前の席に着いた。
「ご苦労さん。学校の方は?」
気安い口調の須堂に対し、一矢は居住まいを正して応じる。
「暫く公務で休む旨、届けを出しました。公欠扱いにしてくれるとのことです」
「そうか。悪いな、そっちの方もそれなりに忙しいだろうに。こっちの仕事の他に生徒会長までやってるんじゃあ勉強する暇もないんじゃないか?」
「お気遣いありがとうございます。ですが自ら望んでやっていることですので。問題ありません」
「お前さんがそう言うならいいけどな」
須堂はテーブルの上に伏せられていた紙片を手に取った。その内容が目に入り、一矢の顔色が変わる。
「須堂参議、それはまさか……」
「ああ、お前さんの試験結果だ。学年で十三位か。なかなか立派なもんじゃないか」
「いえその、その日は体調がすぐれなかったと申しますか」
「言い訳する必要はないさ。まだ後ろに十二人もいるんだ。堂々としてればいい」
喉を詰まらせたようになった一矢に、須堂は世間話のように続ける。
「そういや、お前がぶちのめした浅香とかいう子は三位だったんだってな。もちろん前から数えて。頭いいんだな」
それは知らなかった。別に知りたくもなかったが。
「……申し訳ありません。左京衛府の名を汚さぬよう、以後精進致します」
「まあそんなのはどうだっていいんだ」
そう言いながら須堂は成績表を一矢の前に滑らせる。きちんと結果が見えるよう、表側を上にしてである。
一矢は黙然と頭を下げた。単に直属の上役というにとどまらず、須堂は武人としても指揮官としても屈指の人物だ。左京衛府衛士{えじ}を事実上仕切っているのはこの須堂である。その手厳しい仕打ちに対し、己の至らなさを恥じこそすれ、逆切れして怒りをぶつけるなど以ての外だ。
須堂は本題に入った。
「さっき連絡が来た。殿下は予定通り今晩から官衙の方に逗留される。到着は多少遅れるようだが、概ね問題はなし。見廻りの連中からも特に気になる報告は上がっていない」
「はい」
一矢は頭を切り換えた。この件の重要度に比べれば、学校での試験の順位など塵芥にも等しい。速やかに忘れてしまうべきだ。浅香柊子が学年何位だろうと、直江一矢が気にする必要などこの世のどこにもない。
「警備体制も以前に決めた通り、変更はなしだ。直江はお守役。殿下がこちらに着いてから発つまでの間、常に目と手の届く範囲に付いていろ。風呂も便所もだ。小便の滴はお前が切って差し上げろ。尻の穴はお前がお拭き取り奉れ」
一矢が応じるまでには暫くの間があった。
「……それはご命令とあらば。しかし殿下はご了承くださいますでしょうか。幼児というほどの年齢ではありませんし」
須堂は可哀そうなものを見るような目を向けた。
「直江?冗談って知ってるか?」
膝の上に置いた手を、一矢は白くなるまで握り締める。駄目だ。須堂はこの程度の悪ふざけで怒っていい相手ではない。
「申し訳ありませんでした。冗談は余り得意ではありませんので」
「大丈夫だよ、直江。お前は素のままで十分笑えるんだから。自信を持っていいぞ」
やはり殺しておくべきか。
自分一人では到底不可能だが、有志を募ればすぐに三個小隊は集まるだろう。全員で掛かれば勝ち目はある。
「まあ便所はともかく、風呂は一緒に入れよ。距離が縮まる。寝室もな。感情移入が過ぎるとかえって護衛に支障が出るっていう奴もいるし、確かにそれも一理あるが、今回の対象は子供だからな。へそを曲げられたら面倒になる。いい子にしていてもらうためにも全力で手懐けろ」
不敬な表現についてはひとまず聞かなかったことにして、一矢は不審に思ったことを尋ねる。
「外出時はともかく、官衙の中でもそこまでする必要があるのでしょうか」
「あるから言っている」
「何か特に気に掛かることでも?」
今上{きんじょう}にはまだ皇子{みこ}がいない。今回来京する甥の純緒親王{すみおしんのう}が、目下のところ第一皇位継承者である。警備に万全を期すのは当然だ。どんなささいな遺漏も許されない。
しかしそれを考慮に入れてなお、まるで乳母か何かのように一矢を張り付かせることには違和感があった。
「変に気に掛けてるのはお前だろう。別に、誰かと違って学業も優秀な東の娘が東の古式{こしき}を使ったからといって何も悪いことはあるまい」
「それはそうですが、今は」
「それとも、またうちの連中がけつを蹴っ飛ばされでもしたか。そんな報告は受けちゃいないが」
「いえ、そういうことは特にないかと。ですがそういえば先ほど妙な技を使われたのには驚きました」
「ほう?」
須堂は身を乗り出した。常に飄然としたこの男には珍しい反応だ。浅香個人への関心はなくても武技についてはまた別ということらしい。
一矢の使う皇領{こうりょう}に伝わる古式は突きが主体なのに対し、東の古式は多彩な蹴り技に特徴がある。一見正反対の二つの流派だが、実は元は一つのものであったという。
噂では、須堂はその本来の古式の復元を目指しているのだという。この関心の持ち方するとあるいは事実なのかもしれない。
「実は浅香にとっても半ば無意識の動きだったようなのですが」
一矢は先刻の学園のグラウンドでの一件を説明した。
「大して力を入れた感じもないのに、完全に体を崩されました。もし途中で邪魔が入らなければあるいは危なかったかもしれません」
柊子{しゅうこ}の動きには粗が多い。攻撃をかわすのも防ぐのも一矢にはさして難しいことではないが、蹴りの威力は本物だ。何かの拍子にまともに入れば相応の痛手を負うことになる。
「どれ」
須堂は一矢を立たせると腕を取った。
「こんな感じか」
あっと声を上げる余裕すらなかった。五十キロ代半ばの一矢の体が、幼児が抱くぬいぐるみさながら易々と引き寄せられて、完全に無防備となった顔面に須堂の拳が叩き込まれる。
衝撃はなかった。ただ熱さだけがあった。しかしそれもすぐに引いていく。打たれたのはわずかに皮一枚分の深さだけだ。
「どうだ?」
「凄い……まるで抵抗できませんでした」
須堂に手首を掴まれたと思った瞬間、一気に全身が持っていかれた。まるで荒波に呑まれたみたいな圧倒的な力の奔流だった。
「しかし」
「ん?」
思案する一矢に須堂が顔を寄せる。
感覚を言葉にするのは難しい。といって実演しようにもどうすればいいのか見当も付かない。
一矢が悩んでいる間に、室のドアが叩かれた。
「入れ」
須堂が応じる。
「失礼致しま……」
声が不自然に途切れ、不審に思った一矢が振り向くと、途中までドアを開けた体勢で一鉄{いってつ}が固まっていた。
「なんだ高橋」
須堂があからさまに不機嫌な声を出す。
「用があるならさっさと言え。ないならすぐに出て行け。俺達は取込中だ」
「と、取込中とは一体何を……?」
「見て分らんか?」
分るはずがない。一矢は嘆息したくなった。今さらながらに現状を客観的に把握した。
ここまでの脈絡を素っ飛ばせば、須堂と一矢はまさにこれからくちづけの一つも交わそうかという状況に映るだろう。
一矢はすぐに身を離そうとした。だが須堂にがっちりと捉えられ、同時に頬から耳の辺りを指先でなぞられて力が抜ける。
「ん、んんっ……」
鳥肌が立った。意思に反して上擦った声が洩れてしまう。
その時、一鉄の中で何かが壊れたらしかった。
「ご報告します!お客様の滞在される部屋の準備が整いました!失礼致しました!」
報告というより咆哮に近い音量だった。頭を下げて退室する一鉄の唇がきつく噛み締められていると見えたのは、一矢の気のせいだろうか。できれば気のせいであってほしかった。
「須堂参議」
「何だ」
「浅香に崩された時には、参議のような凄まじいまでの強さはありませんでした。その代わり、もっと滑らかで捉えどころのないものであるように感じました。参議の技とは似て非なるものであるかと思います」
「なるほど」
須堂は頷いた。
「高橋のことは眼中になしか。奴も気の毒にな」
「……高橋さんには、あとで私の方から事情を説明しておきます」
須堂と一矢の普段からの行いに鑑みれば誤解は容易に解けるだろう。それに仮に解けなかったとしてもさしたる問題はない。
武人としてはともかく、人としてなら一鉄は須堂などよりよほど上等で信頼に値する。つまらないことを言い触らしたりしないのはもちろんのこと、私情で公務に支障をきたすようなこともないだろう。ないはずだ。たぶん。
それにしても。一矢は戸惑い混じりに思案する。あるいはと自分でも薄々感じてはいたのだが、須堂の目から見てもやはり一鉄は自分に好意を寄せているものらしい。その気持は素直に嬉しいのだが。
私などのどこがいいんだ?
というのが率直な感想だった。やはり武技を振るいはしても、それなりに女の子らしい柊子になら、同級生の男子が惹かれるのも理解できるのだが。
「それでは私は殿下をお迎えする準備を致します」
一矢はようやく須堂の拘束から逃れた。須堂も今度は邪魔をしない。
「直江」
「はい」
「周りの状況がどうあろうと、お前のやるべきことに変わりはない。殿下をお守りすることが第一、自分を守ることが第二、それ以外は全て些事だ。肝に銘じておけ」
異論はなかった。