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第二章 少女達の事情 act.1

 ――大人しく寝てろよ。昼になったらまた来るから。

 その朝木佐貫美香{きさぬきみか}に言われた柊子{しゅうこ}は素直に頷いた。

 一晩経ってだいぶよくなった気はしたものの、まだ若干熱っぽく、体も怠くて起き上がるのが億劫だった。

 木佐貫が調達してきてくれた朝食と薬を摂って、再びベッドに潜り込んだのが少しばかり前のこと。

 ぽっかりと目が開いた。枕元の時計を見て軽く驚く。少しどころではない。いつのまにか三時間も過ぎている。一瞬何か勘違いしたのかと疑うが、がっつり眠っていた確かな証拠に、パジャマが重く湿っていた。

 汗に塗れているのが気持ちが悪い。だが引き換えに体は全く爽快だった。

 こうなればもう寝ているのはかえって辛い。

 五分だけじっと我慢で熱を計り、下がっていることを確かめると、柊子は二段ベッドの下(普段は上を使っているのだが、病人には危ないからと木佐貫が替わった)から跳ねるようにして抜け出した。

 制服はもう乾いていた。木佐貫が昨晩アイロン掛けまでしてくれたおかげだ。

 同じ帝民{ていみん}とはいえ、木佐貫は柊子の家の事情を知っているわけではない。なのになにくれとなく親切にしてくれる。

 騙しているような後ろめたさを感じつつ、木佐貫なら相手が誰だろうと大して気に留めないのではないかとも思う。

 外に出ると、まだ昨日の雨雲が残っているのか、空は薄い灰色だった。グラウンドでは男子がサッカーをやっていた。柊子のクラスだ。一組と試合中らしい。

 信太{しんた}のポジションはフォワードのようだったが、動きがやけに消極的だ。敵陣でボールを持ってもすぐに味方にパスを出してしまう。

 体育の授業なのだからそれはそれで正しいだろう。少数の経験者が活躍するより、できるだけ皆が平等に参加した方がいい。とはいえ。

 あ、取られた。

 いい位置でリターンを受けて、ここで行かなければ嘘だという場面でゴールに切り込んだまではよかったものの、後ろから追ってきた敵プレイヤーに体を入れられ、あっさりボールを奪い去られる。

 あれは夏目君か。さすがだな。

 サッカー部の一年生で、柊子に一対一で土を付けたことのある唯一の人だ。それでもたいていは柊子が勝つのだが、個人技ではなくチームプレイヤーとしてなら確実に夏目が優る。

 比べて信太は何をやっているのか。柊子は舌打ちしたくなった。

 上手い選手に取られるのは仕方がない。だがそれで悔しがるでもすぐに後を追うでもなく、老いた亀みたいにのろのろと戻っていくのはいったいどういう了見なのか。

 その間に夏目の鮮やかな突破からのパスを受けた一組の生徒が見事にシュートを決めていた。

 ふがいないな、もう。二組に発破を掛けてやろうかと思って、やめた。みんなはちゃんと頑張っている。ただ本来なら一番使えるはずの奴が怠けているせいで、流れが悪くなっているだけだ。

 試合再開。キックオフのため信太はセンターサークルに入る。ゴールから戻されてきたボールを受け取って、と思いきやそれさえもぼうっとしていてしくじった。こぼれたボールが転々と柊子の方へ。

 あ、と信太が声を上げたような気がした。

 感じた視線を振り切るように柊子は校舎へ向かって歩き出した。いつまでもここにいたってしょうがない。だいたい授業を見学するなら女子の方にするべきだろう。

 だが幾らも進まないうちに柊子の足は止まった。

「ずいぶんと遅い登校だな」

 柊子とは反対に校舎の方から歩いてきた女生徒が言った。肩にかかるぐらいの真っ直ぐな黒髪が風に吹かれてさらりと揺れる。すらりと引き締まった体型と切れ長の眼とが、昔の伝説的な若武者を思わせた。

「そっちこそずいぶん早く帰るんですね」

 柊子は憎まれ口を返す。

「生徒会長がそんないい加減なことでいいんですか?」

「私は公務で早退だ」

 直江一矢{なおえひとや}は律儀に答える。

「ちゃんと許可も取ってある。君はどうしたんだ。体の具合でも悪いのか」

「平気です。もう治りましたから。……なんなら試してみますか?」

 柊子は呼吸を測った。もし一矢が応じる素振りを見せたら出端を叩いてやる。

 しかし一矢は飲んだお茶が渋過ぎたみたいに首を振る。

「また副会長殿に怒られたくはないな」

「何ですか、それ?」

 意味は分らなかったが、要はやり合うつもりはないということだろう。

「あ……」

 だが柊子は唖然とした。文字通り目と鼻の先に拳があった。生じた風圧が皮膚を叩き、背筋を寒くさせた。

「闘いを挑むのはいい。だがそれなら挑まれる覚悟もしておくことだ。取り返しのつかないことになってからでは遅い」

 もし寸止めされていなければ、たぶん本当に取り返しのつかないことになっていた。柊子は唇を湿らせる。

「あなたにはその覚悟があるんですか」

「でなくて武臣は務まらない。子供の遊びとは違う」

「だったら、手間が省けますね」

「何の手間だ」

「決まってるじゃないですか……覚悟はいいって訊く手間っ!」

 柊子は一矢の拳を取ると外に払いながら後ろに引いた。深く考えて動いたわけではなかった。とりあえず邪魔臭いものをどうにかしようとしただけだ。それが意外と効いた。

 腕のみならず一矢の上体が大きく泳ぐ。

 あるいは一矢以上に、やった当人の柊子の方が驚いていたかもしれない。だがこの機を逃す法はない。今なら確実に当てられる。狙いは一矢の側頭部。

「シューコ!!」

 ――シンタ?

 グラウンドからの叫び声に気を取られ、しまったと思った時には遅い。一矢はもう体勢を整えている。今からいっても逆撃に合うだけだ。

「何してんだよ、お前!?」

 駆け寄ってきた信太は口では柊子を咎めながら、庇うようにして前に立つ。その大して広くもない背中に向けて柊子は言った。

「シンタこそ何してるの?授業抜け出してきたりしたら駄目じゃん」

「お前だって授業中じゃねえか」

「それはそうだけど、でも」

「君は?」

 一矢に誰何された信太の肩がびくりと震える。それでも柊子の前からどこうとはしない。

「一年二組、湊信太{みなとしんた}……こいつのクラスメイトです」

「それで湊君、私に何か用か」

「いや、その」

 信太は後退りしようとして柊子にぶつかって止まる。

 まるっきり蛇に睨まれた蛙だった。もう少し長くそのままでいたら、額にびっしりと脂汗が浮き上がってきたに違いない。だが一矢に年下の少年を苛める趣味はなかったらしい。

「特に急ぎでないのなら、また今度にしてもらおうか。私はこのあと予定がある」

「は、はい、それでいいです」

 信太はあからさまにほっとした様子だ。その後ろから柊子は尖った声を出す。

「わたしは話すことなんかないけどね」

「では湊君と会うのは君のいない時にするさ」

 柊子は不審の眼差しを向けた。

「信太をどうする気?」

「私からは特にどうも」

 早く授業に戻るように、と最後に生徒会長らしいことを言い残すと、一矢は門の方に歩き出した。

「勘弁してくれって……まじで」

 重い石を取り除かれたみたいに信太は息を吐いた。

「お前が運動神経いいのは知ってるけどさ、いくらなんでも相手が悪いよ。あの人本物の衛士{えじ}なんだぞ?喧嘩売ってどうするんだ。勝てるわけないだろうが」

 もちろん一矢の強さなら柊子の方が百倍もよく分っている。だがそんなつまらない指摘はしない。柊子は信太の背中を抱き締めた。

「そんな相手なのにわたしを守ってくれようとしたんだね。ありがとシンタ、大好きだよ」

「ふおぉっ!?」

「これからもずっと、わたしの友達でいてね」

「お……お?」

 信太の体がやけに固くなる。さすがに大袈裟過ぎたかな。だがどうせ仲直りするなら分り易い方がいいだろう。

「……すまない、ちょっと訊きたいことがあったのを思い出した」

 いったい何のつもりなのか、傍に引き返してきた一矢が言った。信太の背中に抱きついたまま柊子は不機嫌に応じる。

「なんですか?まだ何か用?」

「君にではない。湊君にだ」

「え、俺?」

 のろのろと顔を上げた信太に、一矢はいくぶん口調を柔らかくして尋ねる。

「たぶん君は皇民{こうみん}ではないだろう。浅香さんと同郷か?」

「いえ、俺は本京民{ほんきょうみん}ですけど」

「ならば都合がいい。一つ教えてほしいんだが、この辺でどこか子供が好きそうな場所を知らないだろうか。九歳の男の子なんだ」

「子供……西の子ですか?」

「皇領{こうりょう}の子だ」

 訂正されて信太は首を竦めたが、一矢に咎める気色はない。改めて思案する。

「うーん、って言われてもな……葦原京{あしはらきょう}は遊園地とか水族館とか全然ないし。遊ぶとこっていったらせいぜいゲーセンぐらいで。小学校の遠足で上代{かみしろ}区にある京景園{きょうけいえん}ってとこに連れてかれるんですけど、実質ただの空き地なんですよね。まあ強いて挙げるんなら美海屋{みうみや}かなあ」

「それは?」

「知らないですか?地元ではわりと有名なんですけど。宮址{きゅうし}の隅っこにあるアイスの屋台です。うまいですよ。すぐに売り切れちゃうから、午前の早い時間とかに行かないと駄目ですけど」

「確かに聞いた覚えがあるな」

「それはあるでしょうよ。あなた達のせいでわたしはひどい目に合ったんだから」

 柊子が不平がましく突っ込むと、一矢はすぐに思い当ったようだ。

「あの時の店か。そういえばうちの高橋が気にしていた。君に是非アイスを奢りたいそうだ」

「高橋さんって?」

「高橋一鉄{たかはしいってつ}。君とやった相手の一人だ」

「ええ!?」

 なぜか信太が愕然とした叫びを上げる。

「ああ、うん、覚えてる。分りました。喜んで奢ってもらいますって伝えてください。それと、あなたはわりとよかったですって」

「伝えておこう。それと湊君」

 やったって、しかもよかったのかよ、シューコがまさかそんな、いやでもまだそういう意味とは、などと呟いていた信太は、一矢に名を呼ばれると恐る恐るというように顔を上げた。

「私はその手の事柄についてはろくに経験がない。だから余り大したことは言えないのだが、まずは友達からというのもいいんじゃないかな。君達ぐらいの年頃ならむしろそれが自然だろう」

「いや、でも」

「高橋のことなら心配しなくてもいい。彼は立派な大人だ。子供におかしな真似をしたりはしない。彼と左京衛府{さきょうえふ}の名誉のために言っておく」

「……分りました。とりあえず頑張ります」

 信太は頭を下げた。

「健闘を祈る」

 どうしてこの人はこういつも上から目線なんだろう。わたしと三つしか違わないくせにさ。

 色々と釈然としない柊子は、今度こそ帰っていく一矢の後ろ姿に「いーっと」舌を突き出した。

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