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第一章 雨宿りのよすがに act.3

 入学しておよそ二週間が過ぎたある日のこと。

 ――まじかよ。

 信太{しんた}は我が目を疑った。

 初めて行われた実力テスト、その成績上位者が張り出された掲示板の前である。

 一年生全二百三名中、信太は第四十七位。五十位まで発表の左端近くにかろうじて名前が引っ掛かっている。

 正直結構行けた気がしていたのだが、さすがに真秀国{まほこく}中の優秀な生徒が集まっているだけのことはある。甘くはない。

 もっともその事実は信太の身を引き締めさせこそすれ、ことさら驚かせるものではなかった。

「よお、なにぼけっと突っ立ってんだい。早く部活行こうぜ」

 わざと作ったような伝法な口調とともに、荒っぽく背中を叩かれる。

 柊子{しゅうこ}だ。シャツと短パンという運動用の格好に着替えている。

 サッカー部の部室は男子用しかないため、柊子は体育館の女子更衣室を利用していた。放課後になるやいの一番に教室を飛び出して行く光景はもはやおなじみのものとなっている。

「今日は部活は休みだ。これだからな」

 信太が掲示板を指し示すと、柊子は驚きの声を上げた。

「え、それって本当だったの?冗談じゃなくて?」

「本当だよ。今日ぐらいはのんびりしろって意味なのか、せいぜい反省して勉強しろって意味なのかは知らないけどな」

 真秀学園{しんしゅうがくえん}では試験結果発表の日は部活は行われない決まりになっている。

「でもそんなの変だよ。何の意味もないじゃん」

 柊子は口を尖らせた。そしていいことを思い付いたというように指を鳴らす。

「あ、そしたら自主練しようよ。わたしとシンタの二人でさ」

 信太の脳裡で火花が弾けた。俺と柊子の二人で?

 一瞬乗り気になりかけたものの、すぐに甘い想像を振り払う。

 どうせ好き放題にやられてしまう。だからといって適当に手を抜かれでもしたら、もっとみじめになるだけだ。

「そんなことより、何だよこれ」

 信太は元の関心事に戻った。

「どれ?」

 柊子は首を傾げる。その反応に信太の苛立ちはますます募る。

「とぼけてるんじゃねえよ。お前、学年で三位じゃねえか。勉強なんかまるで興味ないみたいな顔してるくせによ。カンニングか?それか最初から出る問題知ってたとかか。ぜってーなんかあるよな。上の方にいるのってみんな外から来た連中だしよ」

 一年生全員の名前を知っているわけではなかったが、少数派の本京民{ほんきょうみん}についてなら把握している。その中では最高が三十七位で、信太も含めて五十番以内には全部で六人しかいない。

「それ、本気で言ってるの」

「可能性の話だよ。だっておかしいだろ」

「そか。だったら好きに思ってたらいいよ」

 信太をその場に置いて柊子は歩き出した。

 一人でグラウンドに行くのかと思ったら、体育館の方へ向かった。また制服に着替え直すつもりらしい。

 すぐに追い掛けて、ごめんって謝って、やっぱり一緒に練習しようって誘えば。

 柊子はきっと許してくれる。

 だけどそれで?

 信太の成績が上がるわけではない。学園や葦原京{あしはらきょう}での本京民の立場が良くなるわけでもない。

「……勉強しよ」

 自分に言い聞かせるみたいにして呟く。

“試験の結果発表の日は部活は休み”

 この決まりを作った奴のことを、ぶっとばしてやりたい気がした。



 なんだよもう。シンタのばか。

 わざとゆっくり歩いたのに信太は追ってこなかった。急いで着替えをして体育館を出ても待ってなかった。だけどもしかしたらとグラウンドに行ってみたら犬の仔一匹いなかった。

 自分のせい、なのだろうか。

 下京{かきょう}、もとい本京民が上京民{じょうきょうみん}に複雑な感情を抱いていると知っているのに、十分に気をつけなかったから。それで怒らせてしまったのだろうか。

 だがそれならどういう態度を取ればよかったのだろう。あなた達の住んでいた土地に押しかけてしまってごめんなさいと小さくなって謝ればよかったのか。

 あり得ない。

 葦原京はかつて真秀国の都があった地である。それは即ち、真秀王{まほおう}の正当な後継たる帝が本来統べるべき場所ということだ。

 その臣である帝民{ていみん}が、元を辿れば流賊にも等しい者達の子孫に頭を下げながら暮らすなど、天地を逆さにするみたいなものだ。

 何も歴史を引き合いに出すことで現在の本京民を貶めようというつもりはない。だが向こうが生まれを理由に反発するからといってこちらが擦り寄るのは筋が違う。

 真っ直ぐ寮の部屋に戻る気にはなれなかった。

 真秀学園の正門を出て、大通りを暫く歩いてからバスに乗った。一時間近くも経ってから、〈京景園前{きょうけいえんまえ}〉という停留所で降りた。すぐ傍に出ていた案内板の標示に従い、綺麗に整備された遊歩道に入る。

 以前から一度来たいと思っていた場所だった。新しくできた学校の友達と一緒にピクニック気分で、なんて想像をしていたりもしたが、独りでだって悪くない。

 長い登り坂が続く。しかし傾斜は緩やかだ。大して疲れを覚えることもなく、やがて丘の上の公園に辿り着く。

 なんだか淋しいところだ、というのが最初の印象だった。

「京景」の名の示す通り、眺めはいい。市街地に向いた側は樹木が綺麗に伐り払われていて、腰までの高さの手すりがある他は視界を遮るものは何もない。

 一望に開けた街の中央付近、建物がぽっかりと途切れているのは宮址{きゅうし}だろう。そこからやや西に離れ、真秀学園と思われる場所も判別できた。

 こうして前を見渡せば、そこには確かな人の営為がある。だが振り返ってみればそこは空虚だ。ベンチが置かれ東屋が建てられ芝草が敷かれて、公園としての体裁は一応整っている。しかしここには一番肝心なものが欠けていた。

 柊子はベンチの一つに腰を下ろした。硬い石の感触に思わず身を竦ませて、足を持ち上げ膝を抱える。制服のプリーツスカートの下に今はスパッツを着けていないから、正面に回り込んだらきっとパンツが丸見えだ。でも別にいい。どうせ柊子以外誰もいない。

 膝の上に顎を載せて目を閉じる。眠くはなかった。ただなんとなく体が怠かった。目に見えない荷物が背中にのしかかっているみたいな感じだ。

 葦原京に来てよかったと素直に思う。新しい出会いがあり、経験してみて初めて分ることがあった。将来どういう道を歩むことになるとしても、ここで過ごす日々はきっと無駄にはならないはずだ。

 だが迷いはないかと訊かれたら。

 答えるのは難しかった。

 少なくとも、葵{あおい}にいた頃の方が全ては単純だった。

 どこまでなら自分の好きにやれて、どこからは駄目なのか。どこまでが自分でやるべきことで、どこからは人に頼ったり任せたりするべきことなのか。必ずしも自分の望む通りではなくても、線引きは明確だった。

 その基準がここでは通用しない。自分とは違う価値観や論理の下で生きてきた人達に対し、何を手掛かりにして立ち向っていけばいいのか。まだその輪郭さえも掴めていない。

「いっそもう帰っちゃおうかな」

 徒然に呟いてみる。もちろんただの戯れ言だ。クラスメイトの男の子と喧嘩ともいえないような行き違いがあったぐらいで、何もかも投げ出して逃げ帰れるほど無邪気にはなれない。

「そうだね、早く帰った方がいい」

 不意打ちに、柊子は目を開いた。人が傍に来ていたことに全く気付いていなかった。なのに動揺は小さかった。

「三島さん……どうしてここにいるんですか?」

 初めて上京した日に宮址で会った人だ。声を聞いただけですぐに分った。

「家が近所だからね。息抜きしたい時とかに散歩がてらよく来るんだ。君、柊子さんはどうして?」

「わたしはちょっと考え事です。それでなんとなく自分が今いるところを見てみたくなって」

 三島が名前を憶えていてくれた。そのことが嬉しくて、また少し面映ゆい。

「隣に座ってもいい?」

「はい、どうぞ」

 柊子はできるだけ自然な動きを装ってベンチに乗せていた足を下ろした。

 ひょっとして見られただろうか。密かな不安を覚えたものの、三島はもちろん柊子のパンツの色を話題に出したりはしなかった。

「柊子さんは東、いや帝領{ていりょう}から来たんだったね。それでここのことをどう思ったかな。もしよかったら聞かせてほしい」

「そうですね、人がいなくて淋しいところだなって。せっかくいい眺めなのに何かもったいない気がします」

「ああ、確かに。静か過ぎて好きになれないっていう人もいるみたいだ」

「やっぱり。ですよね」

「でもごめん、そういう意味で言ったんじゃないんだ。ここっていうのは、葦原京のこと」

「あ……」

 己の間抜けさに気付かされて柊子は声を上げた。話の流れからすれば当然そうなるに決っているのに。

 急いで考えを巡らせる。何だろう。こっちに来てから特に心に掛かっていることというと。思い付いた時にはもう口走っていた。

「そうだアイス!美海屋{みうみや}のアイスまだ食べてないっ!」

 最初のに輪をかけて頭の悪い回答だった。

「……なるほど。まあ確かにあれだけおいしいアイスはちょっとよそでは食べられないんじゃないかな。たぶん常盤{ときわ}にもないだろうね」

 常磐というのは西の首府の名だ。柊子はもちろん行ったことはない。玲{れい}曰く「退屈なところ」だそうだ。

 柊子は面を伏せた。もはや挽回は至難の業だ。どれだけ食い意地が張っているんだと呆れられたに違いない。

「葦原京はね、矛盾から成っている」

 三島は柊子の見解をあきらめたらしい。だけどしょうがない。できない子認定されたのは悲しいが、見捨てられなかっただけよしとしよう。

「その元にあるのは、もちろん真秀{まほ}という国自体の矛盾だ。東西に分裂しているのが問題なのはもちろんだけど、その原因が何百年も昔の王家の権力争いだというんだから話にならない。人々の暮らしに何の益ももたらさず、ただ不毛な諍いの種になっている。君も真秀{しんしゅう}に通っているなら少しは思うところがあるだろう?」

 まさに今日その一端を経験したばかりだ。

「でも……それは西の奴らが帰順しないのが悪いからで」

「いや、皇{おう}と帝{みかど}のどちらが正統かなんて議論に興味はないよ。そんなのは歴史の授業の中だけでやればいい。僕らの世界には関係のないことだ。……君達にとっては重要なのかもしれないけど」

 柊子はよほど変な顔をしていたのかもしれない。三島はおざなりながら付け足した。

「怒ったわけじゃないんです。今までそんなふうに考えたことなかったから、どう取ればいいのか分らなくて。三島さんは帝のことが嫌いなんですか?」

「それこそ、そういうふうに考えたことはなかったな。でも別に嫌いってことはないよ。単に自分とは関係のない存在だと思うだけだ。結局そこなんだよ。自分とは関係ない人のはずなのに、自分の生活を左右する力を持っている。これが矛盾でなくてなんだろう?」

「……関係なくもないけど」

「じゃあ君は帝のことをどれくらい知ってる?直接会ったことは?親しく口をきいたことは?どんな人となりなのか、どういう能力を持った人物なのか、きちんと理解したうえで忠節を尽くす相手として認めているのかな」

「でも帝は帝だし。忠節っていうのとは違うかもだけど、あんなのでもわたしにはやっぱり大事な存在です」

 柊子が言い切ると、三島はひどく驚いたような顔をした。

 居心地の悪い沈黙が落ちかかる。柊子が抜け出し方を探っているうちに、三島が気を取り直したように先を続ける。

「それじゃあ皇のことはどうだろう。やっぱり大切だと思うだろうか」

「へ?そんなわけないじゃないですか。どんな奴かだってろくに知らないのに」

「まさにそういうことだ」

 三島は得たりと頷いた。

「君は帝のことは知っている。だけど皇のことは知らない。ただ皇であるということ以外はね。そしてただ皇であるというだけの理由で、彼個人の人格とはなんの関係もなく敵意を持つ。ただ帝であるというだけで、帝に敬意を持つ人がいるのとはちょうど反対に」

「でも皇なんて勝手に名乗ってるだけだし」

 柊子の反論を三島は無視した。

「僕はどちらのことも知らない」

 それはその通りだろう。京府{きょうふ}の職員でもない限り、本京民が多少なりとも帝や皇の情報に接する機会はないはずだ。

「それなのに否応なく影響を受けてしまう。葦原京には自分達の代表であるところの府首{ふしゅ}がちゃんといる。だけど京を自由に裁量する力なんて持ってはいない。それどころか、府首の一番大事な役目は、東と西の間で御機嫌伺いをすることだといっていい。じゃあ僕達自身の意志はどこにある?どこにもない。空っぽだ。ちょうどこの公園みたいにね。形ばかりで、中身がないんだ。葦原京にも、そして真秀という国にも」

 三島は口を閉ざした。

「……やっぱり、早く帰った方がいいのかな。三島さんの言う通りに」

 かなり嬉しくない考えだ。だが無視してしまうことはできなかった。

「葵に帰って、もっとしっかり勉強して、色んなことに自分の意見を持てるようになってからここに来るべきなのかもしれない。そうすれば、三島さんとももっときちんとお話できると思うし」

 このうえなく真面目に言ったつもりだった。なのに三島は口元を綻ばせた。

「確かに早く帰った方がいいとは言ったけどね」

 そう言って指を一本立てる。

「いち?」

「上。雨が降ってきそうだから。ほら」

 空から落ちてきた雫が、仰向いた柊子の額を濡らした。



 雨はすぐに本降りとなった。近くの東屋に駆け込む間にさえかなり濡れてしまい、急激に気温が下がったうえに風まで強くなってきたから、結構事態は深刻だった。

 初めは柊子と向かい合わせに座った三島は、すぐに隣に場所を移してきた。文字通り肌が触れ合うような近さ。

 三島が善意なのは分った。三島がいるのは風上だ。それでも肩に力が入ってしまうのは、純な乙女としては無理からぬ反応だと思っておく。

「ごめん、僕のせいだね。自分で早く帰れって言っておいて、つまらない長話で引き留めたりして」

「ほんとですよ」

 柊子はわざとらしく膨れてみせた。

「だから今度お詫びにミルクティーごちそうしてくださいね」

 三島は少し間を置いた後、芝居がかった仕草で礼を取った。

「姫の仰せのままに。この街で最も美味なる茶を献上致すでありましょう」

「よしなに」

 柊子は鷹揚に頷いた。その気になれば貴人っぽく振舞うこともできる。

「お任せを……まあそれはともかく、このままだと本当に風邪引いちゃうね。十分だけ待っててもらっていい?家に行って傘を取ってくる」

「でもそれだと行きに三島さんが濡れちゃうじゃないですか」

「平気だよ。大した距離じゃないし、僕は大人で男だから」

「そういう言い方ってあんまり好きじゃないかもです。女子供は引っ込んでろっていうのと同じじゃないですか」

「でももともと僕が悪いんだし」

「三島さん、怒りますよ」

 柊子は唇を尖らせた。

「それならいいかって平然としていられるほど、わたしいやな子のつもりないです」

「君の言い分は分った」

 三島はやれやれというように息をつく。

「でもそれならどうする?このまま雨が上がるまで待って、二人揃って風邪を引く?一人が濡れれば済むところを、それが二人になって何の得があるのかな。ただ君の心が軽くなるだけだっていうなら、自分勝手なのは一緒だよ」

「もう……意外と頑固なんだ」

「君の方こそ」

「分りました。じゃあ私がもっと合理的な提案をしてあげます。だけどその前に一つ質問ね。三島さんちって、あったかいシャワーは浴びられますか?」

「そのぐらいは普通に。どうして?」

「決まってるじゃないですか。雨で冷えた体をあっためるためです」

 柊子は講義でもするみたいに言った。



 三島の住居は、平凡な鉄筋コンクリート造りの二階建てアパートの一室だった。七.五畳のやや広めの洋間に、簡単なキッチン、そしてユニットバスが付いている。一人暮らしの大学生にはまず手頃な物件だろう。

 三島は本京民のはずなのに、どうしてこんな所に住んでいるのか。柊子はその理由を考えかけたが、すぐにやめた。あえて詮索するようなことでもない。

「とりあえず濡れた服脱いで。それでこれ」

「はい」

 水滴の垂れ落ちる上着と肌に張りついたブラウスを脱ぐと、柊子は渡されたハンガーで室内用の物干しに吊るした。

 Tシャツとスカートも(それからパンツも)ぐっしょりだったが、こちらは一緒に脱いでしまうわけにはいかない。どうしたものかと悩んでいると。

「スカートは風呂の前に出しておいてくれれば僕が干しておくから。あとはこの中に。本当は乾燥機でもあればいいんだけどね」

 頭にタオルを被った三島がキッチンからスーパーのレジ袋を持ってくる。下着類を入れるのに使えということだろう。

「君さえよければ、僕が洗濯してまた後日に返すってことにしてもいいけど」

「や、それはちょっと遠慮したいかもです」

 パンツまで洗われてしまうのはさすがにちょっと嬉しくない。三島も強いては勧めない。

「あと着替えはどうしようか。Tシャツぐらいならいくらでも貸せるけど」

「平気です。持ってますから」

 柊子はスクールバッグを開けて部活用の服を取り出した。

「じゃあこれバスタオル。ちゃんと洗ってあるやつだから。ゆっくり温まってきて」

「あ……」

 柊子は刹那ためらった。雨に打たれて冷えているのは三島も同じだ。

 だが先に使うよう言っても三島は承知しないだろうし、といって「一緒に入りませんか」などと誘えるほど柊子は子供では(むしろ大人では)ない。

 ――三島さんの方から言ってくるなら、考えないでもないけどさ。

 とはいえそんな可能性はありそうにないし、仮にあったところで結局丁重にお断りすることになるだろう。

 となれば柊子がするべきは、できるだけ早く済ませて三島に譲ることだ。

「すぐに出ますから。三島さんは体を拭いて乾いた服に着替えておいてくださいね」

「そうするよ」

 ユニットバスの前でそそくさとスカートを脱いで(一応、三島のいる主室の戸が閉まっていることは確認した)、中に入ってきっちりと鍵を掛ける。まさか覗かれたりするとは思わなかったが、事故が起こらないとも限らない。それでもパンツを脱ぐ時には少しばかり緊張した。

 シャワーの栓を捻り、温かくなるのを待って頭からお湯を被る。気持ちいい。思わず「ふぅー」とかおじさんっぽい声が洩れてしまう。

 まったく。なんという波乱万丈の一日、というか半日だろう。放課後までは普段と変わりなかったのに、なぜか今は男の人の部屋で裸でシャワーを浴びている。ほんの何時間か前までは頭の片隅にさえなかった状況だ。

 もしこのことが他の誰かに知られたら。

 父親はたぶん余り気にしない。兄は必要以上に大騒ぎする。玲{れい}は不都合が発生しない限りは放置。青山さんはきっと驚く。木佐貫先輩は呆れる、かな。寮に帰ってもひとまずは黙っておこう。信太は。どうなんだろう。よく分らない。

 柊子は自分を抱き締めるみたいに両腕を前に回した。まだ男の子と大して変わらない形をした体。

 お湯を熱めにしていたせいで、肌はもう赤くなっていた。そろそろ上がろう。柊子はシャワーを止めた。

 Tシャツとショートパンツという格好になって主室の戸を開ける。三島は柊子のスカートをハンガーに吊していた。自分が触られているわけでもないのになんとなくくすぐったい。

「出ましたよ。三島さんも入ってください」

「ああ、うん……いや、やっぱり僕はいい。もう別に寒くもないから」

 三島は厚手のスウェットの上下を着込んでいた。髪がまだ少し湿っている。

「わたし、ちゃんと大人しく待ってますよ。えっちな本探したりとかもしないし」

「無いよ、そんなもの」

「……すいません」

 素で返されてしまった。

 うん、少し自重しよう。考えてみれば三島にはもうずいぶんと迷惑をかけている。

「服、まだ乾かないですよね」

「当分無理だね。浅香さんも、それまでずっとここにいるってわけにはいかないだろうし」

 いつの間にか呼び方が苗字の方に変わっている。

「あの、紙袋とかあったら貸してもらえませんか。それに入れて持って帰りますから」

「そうだね。傘も貸そう。アパートの前の道を左に行くと大通りにぶつかるから、そこを左に曲がって少し先のバス停を使えば中央区まで出られる。真秀{しんしゅう}の近くにも停まるはずだ」

 三島はすっかり柊子を帰らせる気になっているらしい。

 あるいは、幾つも年下とはいえ、異性を一人暮らしの部屋に招き入れてシャワーまで使わせたのは軽率だったと今になって思っているのだろうか。

 もしそうだとしても、このまま「はいさようなら」というわけにはいかなかった。

「すいません、何か上に着るものも貸してもらえませんか。お願いします」

 柊子は頭を下げた。

 なにしろ今は上も下も文字通りの一枚きりだ。これで外に出たら寒いというのもあるが、それ以上に頼りない。室内にいてさえショートパンツの裾の隙間が落ち着かない。

 眠っているところを急に起こされたみたいに、三島は何度か目をしばたたかせた。

「えと、そんなふうにまじまじと見られると、ちょっと恥ずかしいっていうか……」

 思わず手で胸の辺りを覆ってしまう。生地の厚いやつだから、透けたりしていないのは分っているが。

「そうか、ごめん。気付かなかった」

 三島はクローゼットを開けてトレーニングウェアの上下を取り出した。

「これ使って。普通の服よりは動きやすいと思う」

「あ、はい。ありがとうございます」

 ウェアを受け取り、三島に背中を向けると柊子は手早く身に着けた。もちろんオーバーサイズだが、袖口と裾がゴムになっていて、ウェスト部分には紐も付いているからなんとかなる。作りもしっかりしたもので、防水性と防風性も高そうだ。

「何か三島さんには借りてばっかりですね。この前のハンカチもまだ返してないし。洗濯はしてあるんですけど」

「あんなの、別に君の方で好きに処分してくれればいいよ」

「駄目ですよ、ちゃんと返しますから。都合は三島さんに合わせます。いつだったら平気ですか?」

「どうかな。バイトとかもあるからね」

 すげなく答えながら、三島は柊子を玄関へ促した。

 本当は次に会う約束ぐらい取り付けたかった。だが目の前でドアを開けられてしまったら、もうこれ以上ぐずぐずしてはいられない。

 柊子は三島を見上げて言った。

「今日はありがとうございました。また今度お話の続きを聞かせてください」

 社交辞令などではない。心からの希望だ。

「気を付けて。風邪を引かないように」

 閉ざされた冷たく硬い扉に、柊子は額を押し当てた。吐く息が白い。だが体にはまだシャワーの熱が残っている。これなら雨に濡れて帰るのもいいかもしれない。

 そんなことを思い、だがすぐに振り払う。

 三島に借りた傘を開き、教えられた道順に従って停留所へ行きバスに乗った。

 だが結局その晩柊子は三十八度二分の熱を出した。

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