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第三章 スイッチバック act.2

 寮に戻ると柊子{しゅうこ}はすぐに学校指定のジャージに着替えてベッドの中に潜り込んだ。公欠の申請も、ましてや退学届けなど出してはいないから、客観的には完全にただのさぼりである。

 学校のことなど気にしていられないほどひたすらに眠かった、というわけではなかった。肉体的には至って元気だ。それでも教室に行って授業を受けようという気にはとてもなれなかった。要は、ふて寝だ。

 どうして一矢{ひとや}と一緒にやっていこうなどと考えてしまったのか。

 右士{うし}に取り抑えられた彼女をあのまま連れて行かせたくはなかった。

 それはいい。公私混同の横紙破りかもしれないが、右京衛府{うきょうえふ}による一矢の拘束が葦原京{あしはらきょう}での帝皇関係{ていこうかんけい}の悪化に繋がっただろうことは確実だ。それが分っていたからこそ、武智{たけち}も「帝の名代」の命にあえて従ったのだと思う。

 それに一矢が学校をやめないように説得すると柊子は青山に約束した。些か特殊な状況下ではあったが、約束は約束だ。柊子には守る義務がある。

 そのためには一矢の精神的負担を取り除く必要がある。

 理に適う。

 そのためには西の親王が無事に救出されなければならない。

 理に適う。

 そのためには柊子が協力すればいい。

 この辺りから怪しくなってくる。

 そのためには柊子と一矢が力を合わせて頑張るのが一番だ。

 明らかにおかしい。

 論理的に誤っているわけではないが、実際的には意味がない。少女二人でこの広い葦原京から攫われた子供を見つけ出すなど不可能に決まっている。それ以前に京内にいるとさえ限らない。少しばかり武術の腕が立ったところで、「それが何の役に立つの?」という感じだ。

 昨日はいい考えだと思ったのだ。武智に叩きのめされて腑抜けのようになっている一矢を見た瞬間、事態を打開できるのは自分しかいないと直感した。

 やるべきでなかったとまでは思わない。確かに収穫はなかったが、実害もなかった。しかし、まるで出るべきものがもう何日もお腹の中に溜まっているみたいに、ひどく気分が悪かった。

「あれ、浅香?あんたいたの?」

「木佐貫先輩{きさぬきせんぱい}……?」

 柊子は目を擦りながら体を起こした。ぐだぐだと考えているうちにいつのまにか微睡んでいたらしい。

「どうしたんですか。授業は?」

 具合が悪くて早退でもしたのだろうか。それなら今度は柊子が面倒を見る番だ。

「それはこっちの台詞」

 木佐貫は渋い顔をした。

「あんたね、大切な用があるとかって学校さぼって出かけておいて、あたしより先に帰ってきて放課後までぐうすか寝てるってどういう了見よ。ここの学費いくらすると思ってんの」

「学費ですか?」

 記憶を探る。

「すいません。分りません」

 二秒でギブアップ。

「ちっ、これだから金持ちのお嬢ちゃんは。とにかく、また病気とか怪我とかってわけじゃないのね」

「違います。ちょっと横になるだけのつもりだったんですけど、なんかほんとに寝ちゃったみたいで」

 戻ったのがまだ昼過ぎぐらいだったから、結構本格的に眠ってしまった。自分で気付いていなかっただけで実は案外疲れていたのかもしれない。

「どれ」

 木佐貫は二段ベッドの梯子を昇ってくると柊子の額に手を当てた。

「熱はなし、と。それから」

「ふひゃ?」

「殴られた痕もなさそうね」

「ふぃ、ふぃひゃいふぇふ、ふぇんひゃひ!」

 思い切り両頬をつままれ、顔面を引っ張り寄せられた。あまつさえその状態のままぶるんぶるんと振り回される。

「検診終了、特に問題なし」

「先輩……ひどいです」

 文字通り涙が出るほど痛かった。下手をすると青あざになってしまったかもしれない。あとで鏡で確かめてみないと。

「あ、そう。そんなにひどいんだ。どこが。見えないところ?」

 両手の親指と人差指をわきわきとうごめかしながら木佐貫が再び身を乗り出す。

「その筋の専門家は外から見ても分んないようなとこ殴るっていうよね。それで、どこやられたの。胸?腹?じっくりたっぷり確かめてあげるから」

「やっ、ちょっと待っ……」

 柊子は毛布を引っ張り上げながらベッドの隅へと後退した。

「ひどくないです、どっこもひどくないです、木佐貫先輩は優しくて完璧で神様みたいな人です!」

 木佐貫は勘弁する気になったらしい。毛布の中に突っ込ませていた手を引っ込めた。

「で、用事ってのはもう片付いたわけね」

「いやそれが」

 何と答えようかと柊子は迷う。

「木佐貫ー、いるー?」

「いるよー、なにー?」

 部屋の外から掛かった声に答え、木佐貫は梯子を降りた。入ってきたのは木佐貫と同じ三年の澤乃井{さわのい}だ。ルーズなピンクのスウェットの上下を着て、ブリーチした髪をゴムで後ろにざっくばらんにまとめている。

「木佐貫さ、これからどっか出る?」

「別に予定はないけど。なんで?」

「なんか今外にさー」

 澤乃井はそこで初めて柊子がいることに気付いたらしい。柊子はちょこんと頭を下げた。

「こんにちは、澤乃井先輩」

「ちっす。えーと」

「浅香」

 木佐貫が横から口を出す。

「そうだ浅香だ。浅香ショーコ」

「柊子」

「そうそうシューコ、って木佐貫いちいちうるさい。名前なんか別に何だっていいじゃん。なあ?」

 なあ、と言われても困る。

「よくねーよ」

 木佐貫が代わりに突っ込んだ。

「あの、わたし邪魔だったら外に出てますけど」

「あーいいって、別にそうゆうんじゃないから。ってかあんたも聞きな。今警報出てんの。男警報」

「何だそれ。男子寮の奴でも忍び込んだっての?」

「だったら面白いんだけどねー。誰が目当てなのか賭けたり、相手の子とどこまでやるか賭けたり、きもい奴だったら捕まえて熱湯かけたり、色々楽しめんのに。木佐貫そうゆうの大好きだもんね」

「え?」

「人の性癖を捏造するなよ。浅香、あんたも真に受けるんじゃない。あたしがそんなことするかっての」

「門のとこらへんにね、なんか怪しい奴がいるんだって」

 木佐貫の抗議を澤乃井はさくっと流す。

「さすがの木佐貫さんでもさ、敷地の外にいる不審者を引っ張り込んでやりたい放題はちょっとだけためらうっしょ。学校にばれたら今度は停学ぐらいじゃ済まないだろうしさー」

「木佐貫先輩がそんなことを……?」

「馬鹿たれ」

 木佐貫は柊子に半眼を向けた。

「だからでたらめだっての。で、そいつが何かしたわけ?痴漢とかならさっさと京警{きょうけい}でも呼べばいいじゃん」

「んーん、今んとこは別に何も。ただ見てるだけだって。だからもしかしたら約束した子のこと待ってるだけかもしんないし、だとしたら警察はまずいっしょ。でもほんとに変質者かストーカーとかの可能性もあるから、女子はなるべく一人で外に出るなってお達し」

「なら初めからそう言えよ。十秒で済むじゃねえか」

「浅香っちも了解?」

「了解です。それじゃわたしちょっと見に、あーっと、お手洗い行ってきます」

「ちょっと待て」

 身軽く梯子を伝い降りた柊子だが、先輩二人を迂回しようとしたところで木佐貫に襟首を掴まれた。

「あんた心当りでもあるの?」

「やだなー先輩、そんなのあるわけないじゃないですかー」

「そういやあんた、先週ずぶ濡れで帰って来たことあったよね。男物の服着て、パンツはかないで」

「あ、あれは別にそういうのじゃ……」

「へぇー?」

 澤乃井が爛々と目を輝かせる。

「今日のずる休みもそういうこと?男と遊んでたわけ?」

「本当に違うんです……だって、会長と一緒だったんですから」

 わりと本気で怒ってるっぽい様子の木佐貫に思わず正直に答えてしまう。

「どこの会長よ」

「うちの生徒会長です」

「……直江一矢{なおえひとや}と?あんたが?」

「はい。詳しい事情は話せないんですけど、もしかしたらその関係かもって思って。だから全然変な話とかじゃないんです」

「えー、そっちのが面白いのに」

 木佐貫は澤乃井に手刀を入れて黙らせた。

「嘘じゃないのね」

「本当です。じゃあわたし行きますから」

「浅香」

 木佐貫は柊子を呼び止めると、机の引き出しを開けて中から薄型のラジオのようなものを取り出した。

「持ってきな」

 投げて寄越す。

「何ですか、これ?」

「警報器。もしまじもんの変態とかだったらやばいから。相当でっかい音出すから、間違って鳴らさないようにしなよ」

 もし本当に変質者だったら蹴り倒しておしまいだ。そう思った柊子だが、厚意は素直に受けることにした。



 真秀学園{しんしゅうがくえん}の学生寮は全部で四棟に分れている。男子用と女子用が二棟ずつ距離を置いて建てられ、さらに各一棟ずつが帝民用{ていみんよう}と皇民用{こうみんよう}とに割り当てられている(少数の葦原地元民{あしはらじもとみん}は、部屋の空き具合などに応じて適当に割り振られる)。

 学園の敷地内の裏手にあるため、正門を使用するにははるばると校庭を突っ切らねばならない。そのため男女各寮の近くにも通用門が設けられていた。

 守衛が見張っているわけでもなく、警備は甘い。それでも場違いな人間はやはり目立つ。成人した男が女子寮の通用門の傍に佇み、出入りする女生徒や建物を眺めていればどうぞ怪しんでくださいといっているようなものだ。

「あの、うちの寮に何かご用ですか?」

 柊子はためらうことなくその男の前まで近付くと、単刀直入に尋ねた。

 相手はまだ若い。野暮ったい作業着姿にもかかわらず、すらりとした肢体がなかなかに格好よくて、誰かの彼氏かもしれないとの憶測がされたのも十分に頷けた。

「いやちょっと……仕事で近くまで来たものだから」

 男は困惑したふうに答えたが、柊子は納得しなかった。

「全然理由になってませんけど。あ、分った」

 軽快に指を鳴らす。

「それぐらいわたしに会いたかったってことだ。大した理由もなしにふらっと立ち寄っちゃうぐらい。ね、そうでしょ、三島さん」

 背伸びをして相手の顔を覗き込む。

「うん、そうかもしれない」

「え、えと、でも仕事って三島さん大学生じゃなかったでしたっけ」

 冗談のつもりがあっさりと頷かれてしまい、瞬間的に鼓動が跳ねる。だがそれは気付かなかったことにして柊子は話題を変えた。

「ビル掃除のバイトしてるんだ。授業が空きの時とか夜とかにね。シフトが融通利くし、即日で払ってもらえるから重宝してる」

 見れば作業着の胸にオレンジの糸で〈葦原清掃〉と刺繍が入っている。

「このあとも事務所に戻ったらバイト代が貰えるんだ。大金ってほどじゃないけど、ちょっといいお茶を誰かにごちそうするには十分な額だよ」

「へえ、そうなんですか」

「そうなんだ。この前約束したよね。この街で一番美味しいお茶を献上するって」

「はい?」

「忘れてた?」

「憶えてました、けど」

 丘の上にある空っぽの公園で、雨に遭って濡れてしまったのを三島が自分のせいみたいに言うから。それならお詫びの印にとミルクティーを所望した。

「あれって、まだ有効だったんですか」

 何だかよく分らない理由で気まずい別れ方をしてしまい、それ以来音沙汰がなかったのだ。てっきりもう失効したものと思っていた。もともとが軽口みたいなものだったし。

「少なくとも僕はそのつもりだ。明日学校休みだよね。ここからだとちょっと遠いんだけど、僕の知る限り葦原京で一番の紅茶を出すお店があるんだ。もしよかったらどうかな」

 そういえば葦原京府{あしはらきょうふ}発足記念でお休みだった。葵{あおい}にいた頃は関係がなかったから忘れていた。

「んっと」

 誘ってもらえたことは素直に嬉しい。

 しかし簡単には頷けない。

 仮に予定を尋ねられたのが昨日だったらきっと断っていたはずだ。

 西の親王は未だ見付からないままだ。

 自分と少し立場が似ているからとか、葦原京と真秀国{まほこく}の政治情勢とか、個人的な義理とか人情とか、そういったことを全部抜きにしても是非とも助けてあげたい。

 まだたった九歳の男の子なのだ。家族の元を離れた異郷の地で、傍に頼るべき者もなくたった独りで自由を奪われているなど想像するだけでこちらの胸まで痛くなる。一秒でも早く救い出すために、自分にできることがあるのならばやる。いっそ帝の名代として右京衛士{うきょうえじ}に捜索と救出の命を下せたらと思う。

 だがそれは駄目なのだ。

 してはいけないと玲に言われたし、理由を聞いて柊子も納得した。

 それに元から自分でも似たようなことを考えていた。

 柊子が葦原京に来てまだ一月足らずだ。それでも分ったことがある。

 この街では帝民と皇民は必ずしも深刻に対立しているわけではない。個人の間でなら、仲良くやっている例も普通にある。

 だがそれとは別の次元で。

 ――あるいは真秀王家の正統たる帝{みかど}の民であるという。

 ――あるいは真秀王家の正統たる皇{おう}の民であるという。

 己の帰属する先を誇る意識は、各人のうちに抜き難く存在している。

 故に一方が他方の下風に立つことに繋がりかねない事態はできる限り避けねばならない。

 意地を張っての競り合いが、誇りを賭けての斬り合いへと化学変化を遂げてからでは遅いのだ。

 それが理解できたから、飛鳥井{あすかい}ではなく一人の浅香柊子として行動しようとしたのだが。

「ごめん、そんなに悩まれるとは思わなかった」

 三島の声に柊子は思考の沼から引き上げられた。気付けばずいぶん長く黙り込んでしまっていたようだ。

 断ろうとして言い出せずにいる、三島はそう考えたのだろう。

「突然来て悪かったね。それじゃあ今回は残念だったけど、またいつか機会があったら」

「違うんです、三島さん」

 柊子は帰ろうとする作業着の背中を掴んだ。

「すいません、わたしちょっと別のこと考えてて。明日大丈夫ですから。喜んでごちそうになります!」

 ずうずうしいぐらいの勢いで言う。しかし三島はゆるりと柊子の手を振り解く。

「別に無理しなくてもいいよ。断られたからって悪く思ったりなんてしない」

「ほんとに、全然無理なんかじゃないです。誘ってくれてすごく嬉しいです。もっと三島さんと一緒にいたいし、色んなことお話ししたいです」

 どうせもう他にすることもなくなったのだ。親王の安否は気になるが、西のことは西に任せておくしかないのだろう。

 三島は少し間を置いてから言った。

「じゃあ十一時に宮址{きゅうし}の北門で。いい?」

「はい。待ってます」

 なぜか柊子が先に着く前提で答えてしまう。

「そうだ。それと」

 踵を返しかけた三島は、振り向いて言い足した。

「その格好も悪くないけど、できれば明日はもっと落ち着いた服装の方がいいかもしれないな。ちょっといい店だから、雰囲気に合うように」

 自分が学校指定のジャージ姿だったことに気付いて柊子は赤面した。

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