前日:前を向いてその目を開けて。君が進むからきっと、今日は明日へと続いてゆくの
さよなら さよなら
忘れないでどうか
今この瞬間を
流した涙を
あなたの笑顔を
この心に焼き付けて
さよなら さよなら
いつかまた一緒に
笑えたなら良いな
君と僕 未来の
どこか青い空の下
この世界の片隅で
軟弱で貧弱で脆弱な久世遥がその名を伝説に残すこととなった送別会のバンド演奏。
あの後の騒ぎは凄いものだった。演奏終了後に即エスケープをキメたハルカを捜し回って捕まえるのに費やされた、あたしの気力と体力を返してほしい。アンコールを求める生徒達は教師陣の制止にも耳を貸さず、ハルカがもう一曲歌うまで頑として動こうとしなかったのだ。
勿論ハルカはこの事態を予想していなくて、ほとほと困った様子だった。練習していたのは三曲だけなのだから仕方ない。
じゃあ校歌でも歌え――あたしがそう言ってステージに引きずり戻したハルカが仕方なく披露した、それがまたとんでもないことになる。ハルカが歌ったのはまだ作曲途中のバンドオリジナルで、譜面も未完成のものだった。卒業を記念してお遊びで書いたのだという。
井沢がアコースティックギターを借りてきて弾きながら(井沢健吾の器用さを知って今更あたしは驚いた)横でハルカが歌っただけの何の捻りもないそれに、なんと――涙を流す生徒が続出したのだ。ありえねェ。
…………いや、アリだ。あれは良かった。
本当はあたしも泣きそうだったとか、これは墓場まで持っていく秘密。
「じゃあ今日はこれで解散な、皆ご苦労さん――明日は必ず全員が無事卒業するようにー」
担任教師が出席簿を持ち上げて声を掛ける。全員それを合図に立ち上がって、号令と共に一礼した。これをやるのも残り僅かだと思えば、少しは真面目な気持ちになる。お辞儀の角度とか、ちょっとだけ気にしてみたり。ちょっとだけ。すぐに馬鹿馬鹿しくなったけれど。
「あ、ごめんこの後みんな暇? 受験終わった人悪いけど残ってー」
学級委員を努めていたクラスメイトの声であたしは顔を上げる。鞄を肩に担いで帰る準備は万端だったけれど、まぁ少しくらいは良いだろう。もう最後なんだし、暇だし。
本日、三月七日。卒業式前日だ。朝っぱらから決行された卒業式予行の内容といえば、校長祝辞、来賓挨拶と送辞、答辞の時の礼のタイミングを合わせる練習だけ。とてつもなくつまらなかった。白状すると、寝た。
中途半端に寝たおかげて今も頭はぼーっとしている。それでもなんとか委員長の話に耳を傾ければ、どうやら皆で担任に色紙の寄せ書きをしようということらしい。
(ふぅん)
思い出とか記念とか、正直そういうのはどうでも良かった。でもまぁ受験で目一杯世話になった担任にそれくらいならしてやっても良い気がして、あたしは再び席に着く。二十九歳、独身男。彼女とかいるんだろうか?
「はいはい、じゃあ色紙回すから順番にね。色ペン持ってない人いる?」
委員長がてきぱきと説明するのに従って、皆順序良くペンを走らせはじめた。書き込みは席の順だ。あたしはまだ遠い。
うちのクラスは私立を第一志望にする奴ばかりの集合体なので、卒業式前には全員の進路が確定していた。……してると、思うんだけど。実は浪人決定の奴とか、国公立後期を狙って粘る奴とかいるんだろうか。あたしはセンターも私立で使える科目しか受けてないし周りもそうだと思ってたけど、実はわからない。あまり周りのことは聞かなかった。知ってるのは志乃と井沢と……ハルカくらいだ。
とにかくまぁ、今暇してクラスに残っている奴は多い。数えないけど。書き終わるには結構な時間が掛かるだろう。
「ふぃー、眠ィ」
案の定、全員が色紙に一言書き終えた時には一時間ほど経過していた。それまで全員が律儀に教室に残っていたのは、やっぱり今を惜しむ気持ちがあるからだろうか。
作業が終わるまでの間、あたしは志乃や他のクラスメイトから質問攻めにあっていた――内容は主に、久世遥と礼のバンドについて。
帰るぞ篠崎ィ、間延びした井沢の声がする。あたしは志乃に別れを告げて教室の外に出た。それから、あれ、と思う。
「ハルカは?」
「音楽室。自分のロッカー片付けるんだってさ。先に帰ってろって」
「……ふぅん」
慣れって気持ち悪い。ハルカがいないなら井沢と二人で、井沢がいなければハルカと二人で。あたしがいなければ残りが、三人いるなら一緒に。
こんなルールを生み出したのは他でもないハルカだった。いつの間にかそれを当たり前だと感じる自分がいる。
もし中学までのあたしなら、井沢と二人きりなんて死んでもごめんだっただろう。吐いたね確実に。
「……あのさ、篠崎」
「あん?」
ダラダラと二人並んで歩いて、下駄箱まで到達した時のことだった。何故か躊躇うように声を上げた井沢に女子としては最低レベルの返答をして、すぐにあたしは眉を寄せる。井沢の顔がこれまでにないくらい曇っていた。情けなくさえみえる。らしく、ない。
「……なに」
「ハルカのことなんだけど」
あいつ、何か変じゃねェ?
井沢の声にあたしの心臓が跳ねた。一瞬強ばった顔を見られたかどうかはわからない。
「変って、なに」
「いやアイツ、もとから変わってるけど……なんか、そうじゃなくてもっと」
あたしが考え込んでいたことが伝播したのかと思ったけれど、そうではないらしい。何か聞いてないかと問われて、少し躊躇った後あたしは首を横に振った。
「そっか。……今朝さぁ、紙配られたじゃん。予行の前、住所の」
「あぁ、卒アルの」
ぽつぽつと語り始めた、井沢の言うものには心当たりがあった。
今朝担任から配られた用紙の話。
うちの学校は卒業アルバムが卒業後自宅に郵送されてくるようになっていて、その住所を確認する為に渡されたものだ(卒業式の写真を掲載するためにアルバムの作成が遅れるんだろう)。新しく一人暮らしする奴は新居の住所を書けば、アルバムはそっちに送られてくる。あたしは家を出る予定なんてないから、フツーに自宅を書いて提出した。
「それが?」
「俺、春から一人暮らしなんだけど――ハルカの奴がその、俺が新しく入居するアパートの住所書かせてくれとか言うんだよ」
「……は? ハルカが? 自分のアルバムの届け先を、アンタの新居にするってこと?」
「そー。意味わかんねェだろ? 二人同じ届け先になってたら変に思われるから、仕方なく俺は実家の住所書いたんだけど」
(……まさか)
嫌な予感がした。けれど限りなく確信に近かった。
鼻の頭を指先で掻く、これは困惑した時の井沢の癖だ。それを見ているフリをしながらあたしは、身体の奥底から沸き上がるものに震えた。
……ハルカ。アイツって本当に馬鹿。
「理由を聞いてもはぐらかして、ヘラヘラ笑ってるし。ハルカって実家出るんだっけか?」
「……音楽室、だったよな」
「おい、篠崎?」
目を見開く井沢に背を向ける。脱ぎかけた上履きをもう一度履いて、あたしは背後に言い捨てた。
「先帰って、井沢」
「え、ちょ、篠崎!」
何なんだよ!
叫ぶ声が聞こえても、あたしは振り返らなかった。音楽室だけを目指す。
ハルカはあっさりと捕まった。音楽室に入る前に向こうから出てきたのだ。ロッカーの片付けとやらは終わったのだろうか、あれ、はるちゃーんまだいたの? なーんて言って。
井沢はあたしの言葉通り先に帰ったらしい。少し悪いことをした。あたしはハルカと並んでいつも通りの帰り道、駅に向かいながら問いただすタイミングを考えている。ハルカがいつもに増してお喋りで、なかなか切っ掛けが巡って来なかったからだ。
「それでね、オリジナルの、MDに録音してほしいとか言われちゃって。もう時間もないから無理なんだけど」
「嬉しそうじゃん」
「うん……へへ」
歌を歌ってからハルカの元へは、こういった依頼が殺到しているらしい。目立ったことなど一度もなかったハルカはくすぐったそうに、本当に嬉しそうに笑った。
こいつが笑っていると、なんだかあたしも幸せな気分になる。
(………て、待て待て待て)
何考えてるんだあたし!
自分に突っ込んで息を吐いた。いつの間にか駅に到着してしまって、あたし達の乗る電車は後二分でやって来る。
「あのさぁ、ハルカ」
聞きたいことを、聞かなくちゃいけない。
「住所のことなんだけど」
「住所?」
「今朝の、卒アルの」
「……あー」
健吾に聞いたんだね? あっさりと問い返してくるハルカにあたしは頷いた。こいつはあたしもはぐらかすだろうか、それとも。
「なんで、あんなことしたの」
「んー……」
小首を傾げて少し言い淀んだ後、ハルカの落とした言葉にあたしは眩暈がしそうな衝撃を受けた。目を見開いたのと、ホームに電車が滑り込んできたのが同時。
それでもゴーッという耳障りな音に掻き消されるより、ハルカが言い終わるほうが早かった。
「僕、自分の存在を一からやり直そうと思ってるんだ」
電車に乗って車両の端に二人、並んで立つ。そうしてハルカはゆっくりと、あたしに事のあらましを語り始めた。歌を唄ったあの時のように穏やかに。
「僕ね、新居の住所も連絡先も、高校には教えないつもり。両親にも、言わないんだ」
「なに、それ」
「誰も僕を知らない場所で、一から久世遥をやりたい」
あたしは愕然とする。なんてことだ、と思った。
この馬鹿はここ数日で、全てを一度リセットする決心を固めてしまったのだ。卒業したくないって言ったくせに、忘れたくないって言ったくせに。
「意味、わかんないんだけど」
「そうかもね。……でもねはるちゃん、僕は今までずっと、自分は自分としての形を持てないと思ってた」
けれど違うのだと、ハルカは言った。バンドを、歌を認めてもらえた自分。男として、友達として見てもらえた自分。あたしや井沢の存在が、ハルカに可能性を信じさせた。
「僕も、進めるかも……って」
「そんなの、そんなの今のままだってできんだろーが! ゼロから始める必要なんて、」
「僕なりの、けじめが欲しかったの。僕馬鹿だからさぁ、こうやって無理矢理、後戻りできないようにするしかないかなって」
「馬鹿!」
思わず叫んで、電車の中だったことを思い出した。他の乗客がちらちらとこちらを盗み見ている。
この、頑固者。小さく呟いてあたしは、もうこいつの決心を変えることなんてできないんだと悟っていた。
そう、頭では理解できたんだ。でも、
「じゃあ、何? アンタは……」
そんなの、嫌だ。
「アンタはあたし達の前からも、完全に消える気なんだ」
「……はるちゃん、」
「あたし達のこと、忘れて生きる気かよ……!!」
精一杯声のボリュームを押さえたら、代わりに腕が震えた。あたしは自分が何を口走ろうとしているのか、血の昇った頭の片隅ではわかっていたんだろう。それでも、止められなかった。
「アンタが――ハルカ、お前がさせたのに」
ハルカを止める権利なんて、あたしには無い。苦しい思いをして生きてきたこいつがやっと得ようとしている自由を、奪えるはずなんて無いんだ。あたしはこの背を押して、送り出してやるべきなのに、なのに。
「あたしはお前のことが、こんなに大切になってるのに!!」
言ってしまった、そう思った。渦巻いていた、認めたくなかった感情を洗い浚い吐き出してしまったんだ。
こんなことを考えるようになった原因はこいつだ。ハルカが余計なこと言うから、いけないんだ。散々人を悩ませておいてこいつは、あたしの前から消えていく。痕跡一つ残さずにいなくなる。
そんなの許せるだろうか?
「……はるちゃん、明日は卒業式だね」
ふっと降りてきたハルカの言葉にあたしは顔を上げた。電車が止まっている。扉が開いていた。ここは何処だろう?
「明日は健吾と三人で、いつもみたいに並んで帰ろうね。それで、」
そこがハルカの降りる駅だと気付いたときには、アイツは既にドアに向かって歩いていた。ホームに降り立ったハルカは車内に取り残されたあたしに向かって、にっこりと微笑む。
「それでもし、はるちゃんが僕を許してくれるなら……その後、五時に、学校裏の公園で待ってる」
がしゃん。
扉が閉まっていつものようにひらひらと、ハルカが手を振るのが見えた。電車がゆっくりと動きだして完全に駅から出るまで、あたしはぽかんとその場につっ立っていただけ――それはもう、間抜けなことに。
「…………に、」
逃げやがった!!!
気付いたときにはハルカの姿など、とうに見えなくなっていた。
(旅立つ前にたった一つ、君に伝えたい言葉がある)
(ねぇ明日は、卒業式)